第6話 偽名
どこか誇らしそうに、胸を張ってそう名乗る青年。
それはあきらかなる偽名宣言だった。
それ以外の何物でもない宣言だ。
まったく言葉を濁すことなく偽名だと青年は明言した。
正々堂々と正面から不意をうったかのような、嘘偽りなく嘘を口にし、面と向かって騙しますと宣言した言葉だ。
なんとも清々しいほどに、正直だと言えなくもないだろう。
前無 無名
つまるところ名前が無くて名字も無い、誰でもない誰か。
有名どころで言うのなら、日本的に言うなら名無しの権兵衛と言ったところだ。
もしくはジョン・ドゥ、ジョン・スミスと言えばかっこいいのかもしれない。
そんな青年の胸を張った宣言の後、数秒の静止がこの場に流れると一気に周りの目が険しいものとなった。
これは面と向かって偽名を口にした人間が、どこまで信用ができるかという話だ。
面と向かって、しかも国の頂点である王族に向かって正真正銘の嘘を口にした人間をどう思うか。貴族でさえも嘘をつくには建前が必要なのに、だ。
部屋の両側に立つ近衛兵たちと、魔法師たちの緊張感が再度高まる。
近衛兵たちは槍を持つ手に力が入り、魔法師たちはつい先ほど戻したばかりの杖を瞬時に取り出せるよう懐へとその手を伸ばす。
さらに執事やメイドたちもどうやら少なからず戦闘の心得があるらしく、なにが起きても動き出せるように少しばかり体の重心を前へと動かし始めた。
敵意、とは言わないまでも周りから向けられる本気の警戒心。
そんな警戒心を一身に受けている青年は、鈍感なのかそれとも大物なのかまったく顔色を変えることなく今にも鼻歌を奏でそうな雰囲気を醸し出している。むしろそんな周囲の様子を気が付かれないように目線だけで見回し、楽しそうに笑っているようにも見えた。
そうして一通り周囲が警戒態勢を構築し終えた頃にさも今気が付きましたとばかりに周りを見渡す青年は、寝ぐせが残る頭を軽く掻きつつ少々困ったような雰囲気をだして口を開く。
「おいおい。みんな揃ってそんな怖い目を俺に向けないでくれよ。俺はただたんに偽名を使った程度だぜ。自分の名前を偽った程度で厳戒態勢かってくらいの警戒をしないでもらいたいんだが」
と、困った表情で訴えかけるように話し始めた。
「俺がしたのは、ごくごく無害で非常に無害な偽名をただただ口にしただけだ。名前を偽ることが、どんな危険につながるんだよ。まったく、本当にただただ偽名を使っただけなのにさ」
だが、そんな言葉を聞いても周りの反応は変わらない。むしろ、口を開くたび言葉をはこぼすたびに緊張感が増し武器を握る手の力が強くなっている。
故に、この訴えは逆効果と言ってしかるべきだ。
青年はそんな周りの張りつめていく空気に危機感を持つのかと言えば、まったくもってそうではなかった。
最初から周囲がそのような反応になると分かっていたのか、先ほどまでの困ったような表情を収めて飄々とした顔で肩をすくめる。なかなか様になっている動きで。
「──なんて言ってはみたが、偽名を名乗った時点で胡散臭いのは、間違いない。言った俺でも使った俺でも理解できる。それに、俺自身が胡散臭いのはその通りだけれども。それでも、その反応は傷つくね。心が痛い」
「それは、仕方がないと思いますけれど」
王女は警戒を続ける周囲に目をやり、頬に手を当て困った表情を浮かべ困ったように口にする。
「そう、それだ」
だが青年は、その言葉を待っていましたとばかりに一つ手を叩く。
「仕方がない、仕方がない。警戒するのは、仕方がない。でもそれは、偽名を使う俺の方だって同じだ」
いたずら小僧のように口角を上げて、青年は王女へと笑い返す。
「なんせ、今の俺たちは元の世界から強制的に誘拐されたようなものだ。いや、誘拐は総じて強制的だが、そんな状況下で親に貰った大事で大切な個人情報の塊である本名なんて素直に教えるわけがない。だから偽名を使うのも、仕方がない。そう、なんにしたところで何を言ったところで、仕方がない」
青年が口にしたもっともな言葉を聞いて、四人の表情は一気に真剣な顔へと変化していった。
特に王女が持つ天使の微笑みによって頭の中がお花畑になっていた大地と戌亥の表情の変化は、なんとも百面相じみていてはたから見ていると面白いものがある。だがそれでも頭の中にはまだお花畑が残っているのか、二人の表情にはいまだどこかゆるみが存在していたが。
なんにしろ、今この状況下──今この現状下。
元居た世界からこの見知らぬ無縁な世界へと強制的に召喚した行為。
それはどこまでいっても、どう言いつくろっても、どんな理由があろうとも、結局は誘拐であることは確かである。それ以外になんと言えばいいのか分からないほどに、確定している行為だ。
「それに、名前なんてものは結局のところ一個人を、他人を、自分じゃない誰かを呼ぶためだけの呼称で、他人と自分を区別するための概念だ。だからどんな名前であってもどんな名称であっても、誰のことを示しているのかが分かれば名前なんてものは何でもいいと俺は常々思っている。いや、まぁ、嘘だけどな」
青年は笑いをこぼして嘯く。
「んで、だ。
本人が口にした名前が本名であれ偽名であれ、実のところそこまで気にするほど重要なことじゃない。今ここで名乗った名前は、この世界での本名とも言えなくもないからな。そもそも、この世界にちゃんとした戸籍があるわけでもなし」
どこか本気とも冗談とも取れるような青年の言葉を聞き終えた王女は考え込むように一度目を閉じ、
「そう、ですね……」
数秒後ゆっくりと目を開けて青年の言葉をやんわりと肯定する。
一度肯定してしまえばそれ以上こだわる必要はなくなったようで、
「では、ムミョウ様、と呼ばせていただきますね」
そこから大地たちにしたように笑顔を向けて名前を口にした。
「ええ、柔軟な思考で助かりましたよ。王女様」
しかし青年は軽く手を胸に当てどこか気取ったように頭を下げるだけで、向けられた笑顔を軽く流す。
周囲はそんな青年の様子がいささか気に入らないようで、分かりやすく表情を歪ませていた。
だが、そんな周囲とは違い一欠けらも表情を変化させていない王女は、気にした雰囲気を見せず話を進める。
「自己紹介も終えたことですし、本題へ入らせていただきます。今現在、この世界が陥っている状況。そして皆様、勇者様たちを召喚しなければならない事情を」
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