現実世界でのひととき③
――訪れた病室に居た、紅の母、
予想外の姿を見つけて驚いていた一行だったが、しかしベッド上で優しく手招きしている女性……イリスの姿を見て、ユリアが嬉しそうにその傍らへと駆け寄っていく。
「お母様!」
「まあユリア、いらっしゃい。それにレオン君と……お友達の皆さんも」
どうぞ中にいらっしゃいなと誘われて、紅たちも我に返って、会釈しながら病室に入っていく。
……病室だというのに、なんだかホッとするような安心感があるのは、彼女が持つ人柄と柔らかい雰囲気の賜物だろうか。
そんな病室を見渡して……ふと紅が、何かが足りないことに首を傾げる。
「ところで……玲史さんは?」
あの奥さんを溺愛している人ならば、つきっきりで側にいてもおかしくなさそうなものなのに、その姿が見当たらない。
「ああ、あやつは
「玲史さんは、こちらに車を持っていませんからね。子供が生まれたら必要になるものに、嵩張る物も多いですから」
「ああ、なるほど」
まだ気が早いと思うんですけどと苦笑しながらのイリスの言葉に、紅も納得する。
「せっかく来てくださったのですから、皆でお茶にでもしましょうか。ラインハルト君、お願いできる?」
「はい、かしこまりました」
「あ、私も手伝うね」
ベッドに背を預けてのんびりと告げるイリスの言葉を受けて、ラインハルトと聖がテキパキとお茶の準備を始めるのだった。
◇
口の中でホロリと崩れる、クリーミーなさつまいも餡とカスタードクリーム。
そんな口の中いっぱいに広がったスイートポテトの優しい甘さを、やや渋めな紅茶で洗い流し、ほぅ、と一息吐いてから……紅は、イリスのベッド脇で茶の香りを楽しんでいた天理へと問いかける。
「ところで……何で母さんがここに? 仕事、今は大変じゃない?」
今日ここに来る前も、駅構内で、来週に始まる『Destiny Unchain Online』のグランドクエストに関する広告が流れているのを見た。
僅か数日でそんな手を回すのは、運営している人たちは相当なデスマーチだと、紅は思うのだが……
「うむ……まさかこの最速のタイミングでグランドクエストが勃発するとは思っとらんかったからな」
「あ、やっぱりあれ、母さんたちにとっても想定外だったんだ?」
「そうじゃなぁ……必要なデータや、各方面に流させる広告の枠は最初から準備はしてあったから問題無いが、想定では来年から再来年くらいじゃろうと運営のほとんどは皆思っていた」
全く我が子とその友人ながら末恐ろしいものよと、天理は手にしたカップに口をつけ、苦笑しながら語る
「それゆえに……宙たち開発側は通常営業だが、我ら運営側はもう火が着いたような騒ぎじゃな」
「そんな中で、休みが取れたんだ?」
意外に思う紅の質問に、天理は微妙な顔をして語る。
「皆から、あと我に出来ることは、全部終わった後に責任取る事だけだからすっこんでろ、と言われてな……」
「あ、あはは……」
言い方は悪いが、きっと「今のうちに休んでおくように」という運営スタッフの皆さんの心遣いなのだろう……たぶん。
「という訳で時間も空いたことじゃしな……知らぬ仲ではないし、一度、見舞いくらいはしておくべきかと思い立った次第じゃな」
そう肩をすくめながら言う天理だったが、しかし。
「あら、天理さんったら。病室に入ってくるなり、何か入り用の物はないか、体に異常はないかと随分と心配性でいらしたのに」
「ぐっ……お主、ほんにいい性格するようになったのう」
「はい、日々勉強させていただいてますから」
椅子に深く座り込んでがっくりと崩れ落ち、気まずそうに紅から目を逸らす天理に、イリスはクスリと笑って話しかける。
「こうして天理さんが会いに来てくださったこと、私、本当に嬉しく思っていますよ。ありがとうございます」
「……ふん」
すっかり照れてしまっている天理。
紅は、こうまでやり込められる母の姿を初めて見るなと思いつつ、ずっと気になっていたことを尋ねる。
「あの。イリスさんと母さんって、どんな関係なんですか?」
「私……にとっての天理さんは、そうですね……」
質問されたイリスは、しばしこめかみに指を当てて悩んだ後、言葉を選ぶように語り出す。
「そうですね、色々と事情が混み入っていて、話すと長くなるのですが……天理さんが居なければ私が産まれてくる事もなかったので、そういう意味では命の恩人ということになるのでしょうか?」
「むぅ、私には当時そんな気は無かったから、そう言われたら照れるのぅ……」
ニコニコと笑顔で語るイリスの言葉に、どこかバツが悪そうに顔を背ける天理。
紅も、そんな母の態度は気になるが……しかしイリスが母に向けている感情は、間違いなく感謝に類するものに見える。
いったい昔に何があったのか、紅も気にはなるが……その好奇心は、ひとまず抑えておく。きっと天理もいつかは話してくれると思ったからだ。
「それに、こうして
「へぇー……」
そんなイリスからのべた褒めに、紅は母が凄い人物である事を改めて突きつけられ、ただ感嘆の声を漏らすことしかできないのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます