リハビリテーション
目覚めてからの日々は、慌ただしくも穏やかに過ぎて……はやくも、一週間が経過していた。
学校へは、今までと同じくVR経由で通っている。
変わったことといえば……
『My name is Mary West. I was born here in London but my parents both came from Ireland――……』
教室内に、スラスラと指定された教科書の英文を読み上げる、まだどこか幼さが残る可愛らしい声がスピーカーから流れる。
声の主――紅が、教科書の指定された箇所を読み上げ終えたとき、パラパラとクラスメイトたちの拍手が上がった。
「はいよろしい。満月さん、なかなか良い発音でしたね」
『あ、ありがとうございます……』
英語教諭の男性の褒め言葉に、照れたように返事をする紅。
以前は気を使ってか、あまり紅にこうした指名は入らなかったのだが……今は、そうした気兼ねも教師たちから消えた。
そして紅も積極的に発言しにいくようになり、今では他の生徒と同じように授業へと参加している。
――リアルでの紅の姿も、今やその可愛らしい少女の声に相応しいものになった。
そのため、生身で通学を始めた時のことを気にしなくなっても良くなったために学校での口数が増え、クラスメイトから話しかけられることも増えた。
ちなみにそのことについて、クラス内では「人見知りな満月さんがようやく打ち解け始めてくれた」という認識であり、微笑ましいものを見守る目で迎えてくれているのだが……そのことを知らないのは、紅だけであった。
◇
学校の授業が終わったら、紅はすぐにログアウトして病院へと戻る。
この後夕方からリハビリとなるため、動きやすい服装へと着替えるのだが……ところが、純情な元男子としてはなかなかに大変な難関だ。
意を決して入院着を脱ぐと、嫌が応にも目に入る白い素肌と、大事な場所を守っている可愛らしいパステルカラーの綿製の下着。
母、天理が用意してくれた下着類は、紅の心情を的確に斟酌してくれており、だいぶシンプルなものを中心に揃えてくれていた。
だがそれでも慣れ親しんでいた男物と比べると……体にぴったりとフィットし優しく締め付ける、薄く柔らかい手触りの生地で作られたそれらは、いまだに目にするたびにいたたまれない気持ちになる。
自分の体を目にするのを遠慮するというのも変な話のため、気にしないようにと言い聞かせるのだが……それでも恥ずかしいものは恥ずかしいので、そそくさと着替えを終わらせる。
……そうして自由にならない身体に苦心しながらも、ややゆったりとしたTシャツとスウェットパンツに着替えた紅が、迎えに来た看護師のお姉さんに車椅子を押してもらい向かったのは――病院内にあるリハビリテーション室。
学校が終わってからしばらくは、ここで退院に向けた機能訓練を行うのが紅の日課となっていた。
「それじゃあ……満月さん。ハーフ・ダイブ制限は解除したから、お願いできるかしら?」
紅のNLDに繋いだタブレットで何かを操作していた、今日のリハビリを担当する若い理学療法士のお姉さんの指示に……紅が眼前に新たに開いたウィンドウにコマンドを打ち込むと、通常は隠されているプログラムが起動した。
感覚としては、仮想世界に潜る時によく似ている。しかし意識は現実世界にありながら、体の一部は仮想世界にあるという似て非なる不思議な感覚。
本来ならば、仮想空間へフルダイブする際にはカットされる、脳から体への運動神経系の信号。
それをキャンセルして、身体感覚は現実世界のままに。そして意識は覚醒状態のまま、半分だけ仮想空間へアクセスするのが、この『ハーフ・ダイブ』……通常状態のNLDではプロテクトが設けられており、使用できないモードだ。
「ハーフ・ダイブできました」
「うん、仮想空間のアバターとのリンクも問題無いね。それじゃ、掴まり立ちして歩いてみようか?」
一応「さん」付けではあるもの、まるで小さな子供を相手にするような理学療法士のお姉さんの言葉。
……多分、紅はその小柄な体型から、彼女から高校生と認識されていない。そのことに若干ガックリ来るものはあるが、今は思考の隅へと追いやる。
お姉さんの柔らかい言葉に促され、意を決して掴まり立ち用のポールに掴まって立ち上がり、足元の具合を何度か足踏みして確かめてから、ゆっくりと歩き出す。
そのまま、何度か膝から崩れ落ちそうになりながらも……それでもどうにかポールの反対側あたりまで歩き切ったところで、すかさず用意された椅子に崩れ落ちるように腰掛けた。
「凄い凄い、今日はとうとう一人で歩き切ったねー!」
「えっと……ありがとうございます」
大仰に褒められて、つい照れてそっぽを向いて返事をする紅。どうやらそんな仕草がまた子供っぽいらしく、ますます生暖かい視線を周囲から感じ、気まずさに小さくなってしまう。
だが、徐々に体がきちんと動いてくれるようになっていくのはやはり嬉しいもので、照れつつもフッと表情を緩め、はにかむ。
……すると何故か、同じくリハビリ中だったおばさんやご老人からお菓子をたくさん貰い、首を傾げる紅なのだった。
今日のメニューを一通りこなし、病室へと帰るための迎えが来るまで休憩中。
さきほど貰ったお菓子……担当のお姉さんが袋に入れてくれた……の中から、昔からある小さな個包装のチョコをつまんで、包みを破り口に放り込む。
そのまま口の中に広がる甘い物体を溶かしながら、紅はここ一週間のリハビリの成果について思索にふける。
……本来ならば、目覚めた時の紅の状態からだと、ここまで来られるのには何倍も時間が掛かるものらしい。
それをこれほどの短期間で達成できたのは、仮想空間での身体操作の経験を、現実の体へと同期させることで、リハビリをサポートするNLDの「リハビリテーション用ハーフ・ダイブ」機能による恩恵だった。
NLDが、その大元を辿ると医療機器であるからこその機能であり、専門の有資格者だけが解放できる機能の一つ。
現在では安全な仮想空間での自主練習を利用した、リハビリの補助として広く利用されている。
その機能によって『Destiny Unchain Online』内での三か月の経験をこのリハビリに存分に利用できた紅は、おかげで骨格や筋肉の変化によってうまく身体を動かせなかった問題が、だいぶ改善されていた。
ただし寝たきりで弱った筋力まではカバーできないため、今後はとにかく体を動かして必要な筋力を戻していくらしい。
ただしこの機能は当然ながら、仮想空間での練習は現実と全く同じ体型パラメーターのアバターで行われなければ充分な効果は期待できない。
紅の場合は、クリムという完全にリアルスケールと一致したゲームアバターだからこそ可能にした、一種の裏技なのだった。
「……思えば、キャラメイクさせてもらえなかったのもこのためだったんだなぁ」
「ん? 満月さん、何か言ったかな?」
「あ、ごめんなさい、なんでもないです」
側に控えていた理学療法士のお姉さんに独り言を聞きとがめられ、慌てて手を振ってなんでもないと誤魔化す。
「ところで……本当は、あまり患者さんのプライベートに踏み込むのはよくないって分かっているのだけれども、どうしてもずっと気になっていることがあるのよね」
「……んむ?」
紅が新たなチョコレートの包みを破っていると……不意に、お姉さんからそんな声が掛けられた。
そういえばこの若いお姉さんは、今日初めて担当になるな……そんなことをなんとなく考えつつ、紅は新たに取り出したチョコを口に放り込みながら、なんだろうと首を傾げる。
「あなた、赤の魔王様のクリムちゃんよね?……って、きゃあ、満月ちゃん大丈夫!?」
予想外の場所から不意に投げつけられたお姉さんのその爆弾に、紅は思わずチョコを喉に詰まらせ、おもいきり咽せるのだった。
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