名前の無い喫茶店

星うめ

第1話

毎日何かに追われる日々。

時間に追われ、やる事に追われ。

その中で、きっと疲れ切ってしまうこともあるでしょう。

けれど、そんな時にしか辿り着けない喫茶店があるのです。

…おや、興味がおありで?

では今日は、その喫茶店に辿り着いた、ある客の話でもしていきましょうか。


『名前の無い喫茶店』


気づいたら、ある建物の前に立っていた。

びっしりとツタに覆われている。

かろうじて覆われていないのは、建物の扉と窓くらいだった。

素朴な木の椅子が扉の前に置かれており、その椅子の上には「OPEN」とだけ書かれた看板。


どうやら、何かの店らしい。

扉を開けて中へ入ると、カランカラン、とベルが鳴った。


「いらっしゃい」

「どうも。…あの、ここは何の店なんですか?」

「喫茶店ですよ。どうぞ、お好きな席へ。」


喫茶店…。ここら辺に喫茶店なんか無かったはずだけどな。

そう考えながらも、喫茶店の一番奥の席に座る。


奥の席の近くには、古びた時計が置いてあった。

時間を確認しようとすると、見えているはずなのに時間が認識できない。

あれ、おかしいな。

目を擦り、しぱしぱ瞬きをしていると、店主が声をかけてきた。


「どうぞ、コーヒーです」

「え?」


唐突に店主からコーヒーを差し出された。

メニューを待っていたつもりだったが、いきなりのコーヒーに呆気を取られる。


「いや、まだ何も頼んで無いんですけど…」

「いいえ、貴方が欲しいものは分かっているので」

「はぁ…、どうも…?」

「それよりコーヒー、冷めてしまいますよ」


この店主、何を言っているんだろうか。

名前の書かれていない喫茶店。なぜか時間がわからない時計。注文を聞く前にコーヒーを出す店主。

いよいよもって怪しいのだが、なんだか立ち上がるのも、問いただすのも億劫だった。


いいか、コーヒーは好きだし。

と、出されたそれを飲んでみた。…は、いいものの。


「あの。これ…味がしないんですけど」


というか、味も匂いも、熱さも感じなかった。


「まぁ、夢ですからね。」

「夢?」

「そう、夢です。」


…なんだ、夢か。

いやいや唐突に言われて納得できるか、と思わないでもなかったが、

もう色々考えるのも面倒だ。


「はあ。…どうせなら夢の中くらい、美味いコーヒー飲みたかったなぁ。」

「味が分からないのは、忘れているだけですよ。最近、何かを味わう余裕がきっと無かったんでしょうね。」


うっ、と妙にその言葉が、胸にきた。

確かにそうだ。

最近は、何かを飲むのも食べるのも、ただの作業だったかもしれない。

ただの作業だったから、そもそも何を口にしたかもろくに覚えていない。

ああそうか。こんなことじゃ、味が分からなくなるのも当然だ。


「大丈夫ですよ。ここはそういった方のための店ですから。

美味しいコーヒー、お出ししますね。」


店主はいったん出したコーヒーを下げ、カウンターの方へ歩いていくと、

コーヒー豆をミルに入れ、ガリガリと手で挽き始めた。

どうやら淹れるところから見せてくれるようだ。


「こうやって豆を挽く時が、1番香りがするでしょう?」


そうすると、ふわりと香りが広がった。


「あ…匂い、わかったかもです」

「お、いい調子です。」


店主はニッと笑いながら、作業を続けた。


しばらく目をつぶって、ガリガリと豆を挽く音と香りを楽しむ。

音がんだと思い目を開けると、店主は挽き終えた豆をドリッパーにセットしていた。


沸騰して少し経ったお湯を、少しずつ円を描いて淹れ、いったん手を止めてしばらく蒸らし、またお湯を淹れる。

ポタポタと、抽出されたコーヒーが、サーバーに溜まってゆく。


「出来ましたよ。」


店主が新しいコーヒーをテーブルの上にことりと置いた。


「ゆっくりでいいです。思い出しながら、どうぞ。」


促されて、両手でカップを持ってみる。

さっきはなんの熱もなかった陶器の器が、じんわり、あたたかくなってきた。

中身を覗くと、深い焦げ茶のコーヒーが、手に持った揺れで揺らめいている。

湯気もふわりと立ち込めて、

ほろ苦くて香ばしい香りが、胸にゆっくり広がった。


そしてカップを傾け、そのまま一口。


「…‥…どうですか?」


「……最高です。」


すると店主は満足そうに、そうですか、とだけ答えて笑った。



ピピピ、という目覚ましの音で目が覚めた。

午前6時半。

いつもはイライラしながら止める目覚まし時計も、何故か今日は全然気にならなかった。


夢を見ていた気もするけど…なんの夢だったかな。

まぁ、いいか。


「…さて、コーヒーでも淹れますかね」


なんだか今日は少しだけ、良い日になるような予感がした。



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名前の無い喫茶店 星うめ @wakamori

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