閑話2 ローガンさんの晩酌
「イーリアよ。ミリーもすっかり大きくなった。明日は麓の街まで一緒に行くことになった」
銅板に語りかけ、火酒の入ったジョッキを傾ける。ローガンの妻、イーリアは天突く岩の氏族の生まれではない。一生をかけて各地にあるドワーフの集落を渡り歩く、地の声を語り継ぐ氏族の出身だった。
ローガンが若い頃、天突く岩を訪れた一団の中にいたイーリアに一目惚れをし、その滞在中に口説き落としたのが結婚に至る顛末だった。地の声を語り継ぐ氏族は常に旅に身を置いているが、定住する氏族の者と結婚して腰を落ち着けることもあれば、反対に村から若者を連れ出していくこともあるという。
イーリアが病で命を落としてから、もう何度天が灰色に染まっただろう。オババをはじめ、長老連中からは幾度か後添えをもらってはどうかと言われたが、きっぱりと断った。ローガンの槌はイーリアと、そしていまは残されたミリーだけに捧げられているのだ。
手元にある本をパラパラとめくる。幾度も読み返したせいで、縁が手垢で汚れ、擦り切れてしまっている。内容は勇気ある四人の冒険者が、世界中を旅して各地の邪悪な魔物を退治して回るという王道の冒険譚だ。人間の戦士と魔術師、ドワーフとエルフの精霊術士が一行の内訳である。
この本はイーリアが嫁入り道具のひとつとして持ち込んだもので、とくにお気に入りの一冊だった。ドワーフたちの言い伝えを記憶し、語り継ぐことを使命として生まれた妻だったが、物語であればどんなものでも好み、人間の書いた本も何冊も収集していた。
いま思えば、この本をとくに好んだのは旅の生活を懐かしんでいたせいかもしれない。
ミリーが幼いころは、これが文字を覚える教材となった。お腹の袋から顔を出すミリーに、イーリアが物語を読んで聞かせる姿がつい昨日のことのように思い出される。おかげで、ミリーもこの本が大好きになった。常に居間に置いて、ふとしたときに読み返している。
母の血の影響なのか、幼い頃のミリーはよくこの本の内容を少しだけ変えた物語を作ってローガンに話してくれた。主役はローガンに置き換えられ、残りの二人はミリーとイーリアだ。数が足りないが、ミリーとしては問題ないらしい。どうも、元のお話の中でドワーフの活躍が少ないのがお気に召さなかったようだ。
ミリーの空想の中では、家族三人はいつも世界中を旅し、各地のものを味わい、そして強大な魔物を退治して回っていた。といっても、山を一飲みにする巨大な竜も、世界を滅ぼそうとする邪悪な魔王も、ローガンの槌の一撃で倒れてしまうのだが。あまりの強さにローガンも苦笑いするしかなかったが、幼いミリーの目には、それだけこの腕が太くたくましく見えたのかもしれない。
こんな冒険譚が好きだったせいか、それとも父の影響なのか、ミリーは小さな頃から戦鎚を振り回すのが好きなお転婆娘になってしまった。天突く岩の氏族で女が戦いに加わることは基本的にないが、我流で戦鎚を振るって怪我をされても困る。
ローガンは半分仕方がなしに、そして残り半分はたしかにこの子は我が娘なのだという喜びでミリーに戦鎚術を教えた。いまではそこそこの腕前で、数匹の岩ゴブリン程度ならひとりで追い払える程度にはなっただろうと見ている。
ローガンはふと想像を巡らせる。イーリアとミリーと、三人で世界各地を旅する姿だ。ひょっとしたらそんな人生もあったのかも知れない。見知らぬ土地を歩き、魔物でも狩って路銀を稼ぐ。飲んだこともない酒を味わい、食べたことのない料理に舌鼓を打つ。おいしいおいしいとはしゃぐミリーの横に、なぜかドヤ顔の嬢ちゃんが胸を張っていた。
突然割り込んできた
「……ったく、つまらねえことを考えちまった」
これはありえないことなのだ。天突く岩の氏族は地霊との絆が深すぎるため、その加護が薄い土地では生きていけない。生まれてから歳を重ねるごとにその絆が強まるので、およそ五十歳を過ぎた頃には麓の街周辺までしか足を伸ばせなくなる。そしてローガンはもう八十歳を過ぎている。旅に憧れるには歳を取りすぎてしまった。
「だが……」
とも思う。ミリーはまだ三十歳だ。並のドワーフに比べれば地霊の加護が強いとはいえ、天突く岩を離れられないほどではない。もし仮に、ミリーが旅に出たいと言ったらどうするべきだろうか。
嬢ちゃんが話す地球や日本という地方の話を目を輝かせながら聞いているミリーの姿を思い出す。娘は世界中を旅して回って、様々なものを見て、触れてみたいのではないだろうか。嬢ちゃんに着いて旅をしたいと言い出すミリーの姿が妙に真に迫って脳裏に浮かぶ。
「イーリアよ、あの嬢ちゃんとだったら、安心できるか?」
嬢ちゃんには我が家に伝わるものと言って渡したミスリルの戦鎚は、正確に言えばイーリアの形見のひとつだった。しかし、それを話せば受け取りを拒まれると思い、せいぜい数ある家宝の中のひとつという程度にしか聞こえない軽い調子で伝えた。ミリーの命に釣り合う物などローガンは持ち合わせていない。本当なら、あのミスリル槌でもまったく足りないのだ。
あのミスリル槌はとんでもない重さで、ローガンでも十全に振るうことはできない。そのため普段は居間に飾っているだけだった。だが、あの嬢ちゃんなら使いこなせるだろう。ドワーフの男どもよりも力のある加護なしの女など聞いたこともないが、この目で見てきた数々の事実から判断したことだ。きっと間違いはない。
あの嬢ちゃんと一緒なら、旅の安全は大幅に増すだろう。ミリーも並の加護なしの戦士に比べれば強いだろうし、初歩的なものだが精霊術も扱える。嬢ちゃんの旅の力にもなるだろう。
ここまで考えて、また火酒を傾ける。先走りすぎだ。ミリーは明日麓の街までの買い出しに同行するだけではないか。旅に出たいなど一言も口にしていない。
「お父さーん、明日早いんだから、いつまでも起きてるとよくないよ」
居間にミリーが入ってきた。ローガンの隣に座って空のジョッキと酒の肴を置く。なんのことはない。注意と見せかけて、火酒の分け前を預かりに来たのだ。肴は最近嬢ちゃんが作った新作の干し肉だ。なんでも鶏ジャーキーとか言うらしい。程よい歯ごたえがあり、噛めば噛むほど味が出る。ローガンも気に入っている一品だった。
「ねえねえ、お父さん」
ジャーキーを噛みながら、ミリーが話しかけてくる。先ほどの想像を思い出し、思わず身体がぴくりと動いてしまう。
「お父さん、明日みさきさんが作ってくれるお弁当どんなだと思う?」
一瞬の緊張が抜けたローガンは思わず大声で笑ってしまった。娘が旅に出るとしたら、世界中のあちこちを見て回りたいではなく、食べて回りたいと言うに違いない。
「ちょっとお父さん、なんで笑うの? 変なのー」
ミリーの困惑を置いてけぼりにして、ローガンは目の端に涙がにじむまで笑い続けた。
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