第十四話 恐怖、消して!
痛みを堪えつつ土煙の向こうに目を凝らす。わたしの背丈を軽く倍は超える人影。でかい。徐々に土煙が収まってくる。無数の砂利を敷き詰めたような肌。あの肌が擬態となり周囲の岩に紛れていたようだ。二腕二足の人型に見えたが、右脇からさらに二本、左脇から一本、細い腕がだらりと垂れている。口が二つ。上下に重なるようにある。鋭く尖った
「なんなの……あれ……?」
震える声が漏れる。冷たい汗が首筋を落ちるのを感じる。
「瘴気領域の主、と呼ばれる存在の一種ですね。
セーラー服が普段と変わらない調子で応じる。短い付き合いだがわかる、こいつには感情がない。あるのは合理的な判断とあの女神モドキから与えられた使命だけだ。それがいまは無性に腹立たしく、羨ましい。
だらだらしている暇はない。早く助けなければ、ローガンさんがあの化け物に殺されてしまう。だが足がすくんで動かない。呼吸が浅い。全身が震える。腹の奥が冷たい。逃げなきゃ……という感情が沸き起こる。逃げちゃいけない、という感情とせめぎ合う。ダメだ、迷ってるんじゃない、すぐ動かなきゃ。すぐ動かないとローガンさんが。ああ、でもあんな化け物に。早く逃げなきゃ。早く逃げなきゃわたしが死ぬ。
口を空けたままハッハッと浅い呼吸を繰り返していると、「犬みたいだな」という場違いな感想が思い浮かぶ。実家で飼ってたポチは勇敢な子だった。小型犬のくせして、自分よりも大きな犬に平然と向かい合うのだ。やたらに吠えることもなく、堂々と冷静に相手を見つめていた。あはっ、こんなときに何を思い出してるんだろ。走馬灯ってやつ?
突然脳裏に浮かんだノスタルジックな思い出に少しだけ冷静になる。そうだ、冷静になれ。急いては事を仕損じる、急がば回れだ。慌てる乞食はもらいが少ない、とも言う。だいたいあの怪物がローガンさんを殺すつもりなら、これまで何回だってそうできたんじゃないのか? わたしがこうしてブルってる間にもできたはずだし、そもそもわたしがここに来るまでにだって時間はたっぷりあったはずだ。なぜだ? なぜだ? なぜだ? 思考が空回りする。何も思い浮かばない。落ち着けわたし、ポチみたいに冷静に。冷静になって脳みそを働かせろ!
そうだ、脳みそ。脳みそだ!
「恐怖、消して!」
「了解、ご主人」
目の奥から何か熱いものがじわっと拡がるような感覚がする。体の震えが収まり、痛みが遠のいていく。ぼやけていた視界がくっきりしていく。そうだ、向こうにいるのはデカイだけの猿だ。手もちょっと多いけど。ビビるような存在じゃない。人間様をなめるんじゃないぞ。
「ノルアドレナリン、エンドルフィン、ドーパミンを主とする複数の脳内化学物質を合成、投与しました。一時的なものですが、痛みも軽くなり、集中力も高まるでしょう」
歯をむき出しにしてにやっと笑ってみせる。痛みが引いた右腕をぐるぐると回してみせる。バカでかい岩猿が困惑したように見えた。表情がわからない。錯覚かもしれない。錯覚でもいい。気持ちで呑まれたらお終いだ。威嚇して、ビビらせて、冷静になって時間を稼げ!
思考を少し前に戻す。どうしてローガンさんは生かされている? ローガンさんは岩に足を挟まれて身動きの出来ない格好の獲物だ。踏みつけるでも、拳を振り下ろすでも、どうやったってジ・エンド。楽勝のはず。あいつがローガンさんを生かす理由として考えられる可能性があるとしたら……。
「……
負傷させた兵士をわざと生かしておき、それを救出に来た兵士を殺す。そういうテクニックが地球の戦争でも存在したと何かで読んだ記憶がある。あいつにどの程度の知性があるかはわからない。しかし、ふらふらのわたしに突っ込んでくることもなく、ローガンさんのすぐそばで立ち続けているあいつの狙いを合理的に説明するなら、それしか考えられない。
ではこの場におけるわたしの最適解はなんだ? プランA、ローガンさんを見捨てて逃げる。論外。プランB、突貫してローガンさんを救出する。それができたら苦労しない。さっき軽々と跳ね飛ばされたばかりじゃないか。却下。となるとプランCしかない。
「このまま待つよ。すぐ動けるようにだけ準備してて」
「了解、ご主人」
そう、この場での最適解は待つことだ。さっきはドワーフの面々も混乱に陥っていたが、本来は岩ゴブリンの群れを狩る勇敢な人々なのだ。落ち着きを取り戻せば救助隊を編成してこちらに送り込んでくるに違いない。
わたしのこの場、この瞬間で果たせる最大の役割は待つこと。救助隊が来る前にあいつが焦れて、ローガンさんに危害を加えようとするかもしれない。あるいは、予想もしない不測の事態が起きる可能性もある。そうなったら、覚悟を決めて突撃し、時間を稼ぐしかないだろう。
「お父さん! お父さん! だいじょうぶなの!?」
不測の事態は、直後に起こった。
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