ユウの召喚

 魔法というものが、どういう仕組で発動するのか、実のところよくわからない。

 この世界に呼び出されただけで、わたしという存在は日本にいたときと、何一つ変わっていない。

 色素の薄いショートボブの猫っ毛の髪も、未発達で凹凸の少ない体も、コンプレックスのO脚ぎみな足まで、まるごと「一星夕」の体のままだ。何も生まれ変わっていないのに、この国に居るときだけ魔法が使えるというのは、なんも不思議な感覚だ。


 こうして「召喚するぞ」と意識を集中するだけで、肌の一番外側に触れた薄い空気の層が、チリチリとざわめく。普段は意識しない頬の産毛が光にそよぐような感覚がして、サワサワとくすぐったい。この世界の空気の中には、酸素とか窒素とかの成分の他に「魔素」というものが混じっていて、わたしの意識に反応してくれているのだと思う。


 杖を手の一部に馴染むように、強すぎず弱すぎず握り込む。両手の熱が荒く削った杖の表面にすっかり溶け込み、握り込んだ指先の境界線が曖昧になった。体の周りの光がふわふわと溢れ、夏の蛍のように瞬いた。肺の奥の奥の肺胞の先まで行き渡るよう大きく息を吸って、トンと魔法陣を叩く。水面を揺らすように、魔法陣がきらめいた。

 精神と魔法陣がひとつに繋がったような、不思議な感触が後頭部にジーンと響いている。


 魔法陣に杖を当てるのは、釣り糸を垂らす感覚に似ている。

 夏休み、田舎の山でおじいちゃんに教えてもらった、川遊び。糸を垂らせば、自然と思いが川の中へと向かう。そこにはどんな生き物がいるのか。いま、どんな姿で泳いでいるのか。どこに隠れているのか。……意識を陣に集中して、浅く長く呼吸をする。


「勇者サマは、どこ……?」


 魔法陣の向こう側を探るように、瞼を下ろした。採光が少ない石造りの部屋では、目を閉じるだけで真の闇が体の輪郭を塗りつぶす。召喚された時のような、銀幕の宇宙の中に漂っている感覚を脳に染み込ませながら、もう一度、ノートに描いた勇者を強く思い描いた。平和を大切にする勇者のことを思った。



 世界を救ってくれる勇者を。

(わたしを、この世界から救ってくれる勇者を――!)

 


 それから随分と長いこと、釣り糸を垂らす時間を過ごした。瞼を下ろしているのか上げているのか、現実と空想の輪郭が曖昧になったころ、ふと、いつもと違う感触が足元に漂った。

 杖先から伝わる気配も、召喚部屋の空気も、なんだか、いつもと違う。

 いつもなら、チョンチョン、と小さい生き物にローブの袖を引かれるような不思議な感じがするものだけれど。

 今回は違う。


(土の、湿った匂い……? 雨の匂い……? 懐かしい、落ち着く匂い)


「……!」


 今度は上から、だ。一瞬で部屋の天井が取り払われ、広い夜空が頭上に広がった感覚。星の輝きも、星の配置もそのまま、頭上にあるみたいだ。冷たい夜の気配が、すうとローブの背中から滑り込んでくる。思わず目線をあげそうになったが、それでも集中を逃さないように強く杖を握った。力を込めると、鈴が鳴るようような高い音が遠くから聞こえる気がした。


(なにかが、いる……!)


 頭の上の空に意識を集中していると、今後はぞろり、と陣の真下に大きな気配を感じた。


(近っ……!)


 背筋がゾッとした。いつからか、または、最初からか。すぐそばに、何かがいる。

 大地の下に大木の根のように揺るがない、しかし雷光のように鮮やかな光の柱のような……。目を離せない大いなる力、存在が、そこにある。少しだけ杖を動いてみようとしたが、杖先がまるで地面に埋め込まれたように動かない。


(重たい……ッ!)


 なんて重たいんだろう。魔力だけで、埋まった大岩を掘り返すようだ。私は腕力でなんとか「物質の杖」を持ち上げて、もう一度魔法陣を強く穿った。りん、と鈴の音がもう一度鳴る。神が空を渡るような神聖な音を聞いて、わたしには確信した。


(勇者につながっている……!)


 ついに、ハズレばかりを引いていたわたしは、アタリを引き当てたのだ!

 

 絶対に掘り返すのだと意気込んで、わたしはもう一度杖を握り直す。すうと息を吸い、


「お願い!! 平和をもたらす勇者さま!! 来てーーー!!!」


 と大声を上げて、その杖を魔法陣から引っこ抜いた。

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