網膜は欠けた


父が死んでから、義母は僕を殺そうとした。あの女が言うには、どうやら僕は人間じゃないらしい。虫ケラのように扱われる生活には飽き飽きした。

丘を下らなければ。

そうすればここではない場所へきっと行ける。確信していた。


しばらく歩いたところに、線路が水没している場所を見つけた。

草の上で靴を脱いで、足を水に浸した。

ぴしゅんと染みてくる水が気持ちいい。

ここには昔、電車が通っていたと聞いたことがある。あるとき大地震が起こり、津波が来た。さらに地盤沈下したことによって線路が海水に沈んでしまったために、廃線になったそうだ。幼い頃、父に教えてもらった。

僕はこの道を初めて歩く。靴を両手で片方ずつ持って、ひたすらに歩いた。


山が見えた。大きな鉄橋も見える。線路は暗く湿ったトンネルに続いている。

ここを越えたら、大きな世界が広がっているのかもしれない。

行くしかなかった。

そのとき。

うねるような音でこちらへ走ってくる列車。強風に煽られながら鉄橋の一部にしがみつく。振り落とされそうだった。

廃線になったんじゃなかったのか。耳に心臓の音がこだまする。ごうごうと速く、やけにうるさい。

ああ、この先へは行けない。行ってはいけない。行ったら何か大切なものを失ってしまう。そんな感触がした。結局ここではないどこかへなんて、甘かった。

柔らかな絶望が押し寄せてくる。あの生活へ戻ること、それに関する全てが僕の中を満たしている。

最悪の気分だった。


呆然としながら来た道を今までとは反対方向に歩いた。振り落とされた希望を拾うことはできない。

僕はただ悲しかった。あの鉄橋を越えれば、誰かに会えるかもしれないと思ったから。僕のことを知らない誰かに。


もう一度靴を脱いで水辺に足を浸す。線路の感触が冷たい。さっきよりも水温は何度も低く感じた。体から水の中へ焦燥感が溶けてゆく気がする。

夕暮れが水面に反射する。眩しくて目を細める。みなもは金色にぴかぴかと光っている。風は爽やかで、なめらかに頬を撫でてゆく。外の世界は美しかった。

後ろのほうで、水の跳ねる音が聞こえた。

振り返ると女の子が立っている。僕と同じくらいの年齢だろうか。真っ白なワンピースを着ている。髪の毛が僕よりも短い。

「どこから来たの?」

唐突な質問は彼女から。

「あっちから」

僕は丘の上の屋敷を指した。

「へー、大きいおうち。私はあっちから」

彼女は海岸沿いを指した。


何かを言うでもなく、僕たちは示し合わせたように並んで線路を歩いた。

「脱走してきたんだ」

「おうちから?」

「そう」

「どうして?」

「それは」

僕は自分自身が受けている仕打ちを誰かに話すのなんて初めてだった。

なんとなく、この女の子には話そうと思った。


「君はなんでここに?」

僕は彼女のことを知りたかった。

「あのね、心が乾ききって耐えられなくなったときに、とっておきの場所があるの」

彼女は微笑みながら、その場所のことを話してくれた。

そのほかにもたくさんの話をした。好きな紅茶の飲み方だとか、好みの枕の硬さだとか、どうでもいいことばかりを。

でもそれがたまらなく心地よかった。

彼女の前だけが唯一、僕が人間でいられる時間のように感じた。


「わたし、こっちだから」

彼女は砂浜へと続く細い階段を指さした。もうあたりはうす暗くなっていた。二人で歩いてきた道は闇を吸い込んでいる。

「今度、その場所へ連れてってほしい」

「うん、またね」

笑顔だった。白百合が揺れたような、屈託の無い綺麗な笑顔。

僕は階段を降りてゆく背中が見えなくなるまでその場に立っていた。

またねという響きがこんなにも温かいものだなんて。


彼女の存在があれば、あのゴミみたいな生活にもきっと耐えられる。

そう思っていた。

だけど僕はあまりにも彼女のことを知らなさ過ぎるのだ。

あの女の子の名前ですら。

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