Era skor är här.
本当はわかっている。彼女が無理をしてここへ来たこと。大きな目から透明なしずくを流して、履き慣れた白いハイヒールを捨てたこと。
「どうして?」
彼女は僕に問う。僕はただまっすぐに続く水平線をながめていた。
寒そうにゆれる波たちが騒いだ。
「ねえ、あの白い靴は捨てた?」
波音でなにも聞こえなかったふりをして、彼女へ問いかけた。
「…ええ、捨てたわ。だってもう必要ないもの」
このときの彼女はたぶん、不安そうな顔をしていたんじゃないかと思う。
「少し寒くなってきたわね」
「潮風は体を冷やすからかな」
「そんなのはじめて聞いた」
振り返って彼女を見る。思ったより彼女の表情は暗くなかった。
少しだけ安心して、口元が緩んだ。
「海はすき?」
「嫌い」
「…そう、知らなかった」
本当は知っていた。以前にも同じ質問をしたからだ。そのときはいい思い出がないから、とだけ言って不機嫌になった。
でも僕は知らないふりをした。彼女を傷つけている自分を少しでも愛するため。僕は自分のことが可愛かった。
どうでもいい嘘をついてしまったことにきっと彼女は気づいている。
僕は誰にでも良い顔をするくせがあった。特に彼女には。
「どうしてわたしをここへ呼んだの?」
「あいたかったから?」
今度はちゃんと答えた。けれど僕はまた嘘をついた。彼女には気づかれていないようだった。
「嘘がうまいのね、あなたは。知っているわ」
彼女はそう言って笑った。
全部ばれたのか、それともかまをかけているのか、僕には見抜けない。
砂浜につながる段差の大きい階段に座って、彼女とあまり意味の持たないことを話した。
女の子の話はいつまでも尽きないし、話題があちらこちらへと飛んでいくのをそばで見ているのが面白くて好きだ。
「あ、あの星。とても明るいわね」
彼女は突然、空の彼方を指さした。
「あれは金星。どうしてあんなにも明るいのか知っている?」
「知らない」
彼女は大きな目をきらきらさせて僕の顔を食い入るように見た。
「金星は太陽に近いだろう?そして硫酸の分厚い雲におおわれているから、太陽の光を反射しやすいんだ」
僕は天体の話をするのが好きだった。研究者でもないのに、くだらない知識を溜めこんだ僕を笑わないのは彼女たったひとりだけだった。
「へえ、物知りね」
僕に向けられる彼女の微笑みは、何度見ても美しかった。
大好きな友達にもらったという白いハイヒールは彼女の歩き癖が悪いからか、何度もかかとを修理していると聞いた。
僕にはそのくたびれた合皮の靴が、彼女の足かせになっているように見えた。
「おさがりをくれた女の子とは、二年前くらいに連絡が取れなくなって以来会っていないわ」
そう彼女が悲しそうに教えてくれたことを思い出した。
「そうだ、新しい靴をプレゼントしようか」
「いらない」
「どうして?」
「本当はあの靴、捨てられなかったの」
隣に座る彼女の肩が震えた。
「わたしね、靴をくれた子のこと、きっと、好きだった」
彼女はゆっくりと話をした。できるだけ柔らかい言葉を選んで。
海が嫌いなのは、大好きな友達が海で入水自殺の未遂を何度か繰り返していたからだった。
僕は黙って聞いていた。彼女の口から零れてくる少女への想いはきっと本物だ。
簡単に抱きしめることもできない自分の不甲斐なさに絶望した。
「やっぱり、君には新しい靴が必要だ」
「いらないわ」
「前から思ってたけど、君にはハイヒールじゃなくてバレエシューズが似合うよ」
「……あんな真っ平らな靴なんて、きらいよ」
さみしそうな目をした彼女がいま誰の顔をみているのか僕にはわからない。
彼女は立ち上がって空を見た。僕もつられた。あたりはもうすっかり夜で、星がたくさん見える。
「あの星にも名前があるのね」
「今度ひとつずつ教えてあげる。そのかわり、一緒に靴屋に行こう」
「………………わかった、行くだけね」
視界の端で、砂浜沿いの道に並んだ街頭の明かりがぼんやりと光っていた。
水平線に救いがない。
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