一時間と三十分
「うまく歩けないのは下ばかり見ているからだよ」
そう言った教授は真っ白な綿のシャツを着ていた。
「自転車に初めて乗ったときのことを覚えている?ふらふらとするのは人間が二足歩行をしているからだよ。小さなこまのついていない自転車は人間の足と同じさ」
教授はそう言ったけれど私にはよくわからない。隣に座る人物が突飛なことばかり話すのはよく知っているはずだったのに。私に理解力がないのではなく、彼よりも想像力が乏しいだけなのだ。
「君がうまく歩けずに立ち止まってしまったのは、君の足から、その小さなこまがなくなってしまったからだ」
「君は高校を辞めたことによって様々なものを失った。友達、青春、学習の環境、周りからの期待」
「しかし君は大学生になった。そして私の研究室に入り、私と話をしている。それはなぜだろう?」
教授は淡々と述べた後、私の顔を見た。
「私がすべて望んだことです」
「そうかもしれないね。でも僕はこう考える。君が、自転車に乗れるようになったからなのではないかと。つまりだね、君はこま無しで歩けるようになったということさ」
教授はなんだか楽しそうだ。そして嬉しそうだった。
「僕は君の書く論文が好きだ。君の文章は、美しく洗練されていて、かつ読みやすい。僕は君の人柄が好きだ。君の瞳は子供のように澄んでいて、まばゆい。ああ、これは子供っぽいという意味ではないよ」
はにかむ教授。それは私の好きな表情だった。
「君は僕にとって必要な人間だ。どうか、この研究室に残ってはくれないか。そして」
カチカチと走る時計。すうっと息を吸う音。教授のものと、私のもの。ちいさなゼミ室には珈琲の芳ばしい匂いがしていた。
「願わくば、君の老いてゆく様を見たい」
西の窓から差すオレンジ。にっこりとした教授。それはまるでどこかの歌で聴いた、ロマンだった。
「教授。珈琲、いただきますね」
私たちふたりには他の学生も知らない、ある合図があった。教授の珈琲にミルクをいれたら「いいえ」、そのまま口をつけたら――
「君は、すばらしいね」
教授が笑う景色はつづく。願わくば私の最期まで。
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