陽色の肖像

夕目 紅(ゆうめ こう)

陽色の肖像

 心の中にはいつだって一枚の風景がある。

 ところどころ罅割れた土壁に飾られた、遠い異国の風景。空は青く、海はそれよりも濃い青をしている。光を浴び、きらきらと輝いている。潮騒の音が聞こえるのよ、と彼女は言っていた。でもその時の俺はまだ海を見たことがなかった。というより、生まれた場所以外の土地を知らなかった。どんな音かと尋ねると、ざわん、ざわん、そんな音だと彼女は言った。胡麻を擦る時のような音かと聞くと、大きな声で腹を抱えて笑い出した。

「あんたってほんと馬鹿な子」

 思い出というのは、時間の梯子を失った日々のことを言うのだろう。

 それはいつまでも色褪せることのない感情で心を支配する。喜びも悲しもすべて、欠けるものは何ひとつない。

 無邪気だったあの頃、過ぎ去るはずであった無垢の季節、あれは、そう……。


 ――確か、先生と会う前日のことだった。


「……」

 ギイィィ、と悲鳴に似た音が響いて、思わず俺は息を止めた。

 窓からはまだ夜明け前の、夜と呼ぶには浅い藍色が差し込んで室内の様子を薄っすらと浮かび上がらせていた。凝った刺繍の入った赤い敷物の先には古びた椅子が置かれている。背もたれにかけられたカーディガンが人影に見えて、一瞬背筋が凍り付いたが、ただの幻影だ。テーブルの上、溶けかけた蝋燭が留守を任された騎士のような寡黙さで鎮座している。

 ホッと胸を撫で下ろしたのは、自分でも失敗だったと思う。忍び足を一歩伸ばすより早く、本当なら足元に伸びる影がひとつ多いことに気付くべきであった。心配性の彼女が、すやすやと寝入っているはずもないのに。

「まーた朝帰り?」

 冷ややかな声に、指先の温度が急速に下がるのを感じた。

 振り返ると、玄関ドアの裏にこっそり隠れるようにして、ジト目でこちらを睨む女性が一人。オレンジ色の瞳が俺を捉えている。

「いや、これは、その……」

「ああ、ねえやねえやって後ろをついて回っていた我が弟もすっかりケダモノになって、嘆かわしや」

「別に、そういう訳じゃ……」

「相手はどなたかしら? 幼馴染のエミリー? 最近やたらちょっかいかけてくるリッタ? 大穴で隣村のビアンカとか?」

「だから、そういうんじゃないって――」

「じゃあ、どういう理由?」

 ぐいっと身を寄せられると、細長い眉が綺麗に伸びた面立ちが視界いっぱいに広がる。ろくに化粧もしていないというのに肌は陶器のように白く、父親譲りの髪は美しい陽色に染まっていた。唇だけが妙に艶めかしく赤々としている。

「村一番の美人を放っておいてでも会いたい女の子は、誰かしら?」

 そんなことを自信満々に、しかし嫌味すら感じさせずさらりと口にしてしまえる彼女は本当に美しい。近づくと不思議と花の香りがする。頭がぐらぐらする。心が揺らめく。そんなこと、あってはいけないことなのに。

 紅潮する頬を見られまいと、俺は足早に自室へ向かって歩き出した。

「言ってろ、バカ」

 ぽろりと漏らした強がりも、やっぱり彼女の掌の上だ。

「照れてやんの」

 そう言ってくすくすと笑う声が風鈴と共に響く。ああ、じめっと暑い夏の日が始まる。ぼんやりとした頭でそれを認識すると、堪えていた眠りの波があっという間に押し寄せ、俺は薄い毛布の中へ顔を埋めた。

「可愛いやつ」

 ぼそっと一言。無垢で、純粋で、何気ない彼女の言葉を、どす黒い喜びと苦悩が受け止める。なぜ、どうして。繰り返される疑問を心の奥底に押し込む。意識と共に沈んでしまえ。そう出来た試しもないのに念じて、俺は浅い眠りの中に意識を溶け込ませた。


 十七歳だった。


***


「……ねえ」

 今もその声を鮮明に思い出すことが出来る。

 例えばこうして商売女の体を組みしだいている時、そのテカテカと滑ってみせる赤い唇を貪る時、柔らかな乳房から生ける者の獰猛な熱を感じ取る時、くすぐったげに零れ落ちる乾いた吐息が耳元に触れる時。

 俺が思い出すのはいつだって、姉という存在だ。それは美しさの象徴だ。

 柔らかな頬の曲線も、痩せた痩躯に似合わぬ豊かな胸も、折れてしまいそうな手首の白さも、桜色に輝く爪先も。

 何もかもがあまりにも美しくて、鮮やかで、微笑む姿が何度も瞼の裏で再生される。

 ……それに比べて、目の前の女は何だ?

 俺はどす黒い感情に押し潰されていく。かさつく肌、枝毛の目立つ長いだけの髪、微笑むと顔のアンバランスさが一層強調される。苛立ちのあまり思わず指先に力を込めると、女はそれを情熱と勘違いしたのだろう、甘ったるい声をあげてもっととせがむ。それが余計に俺の心を苛む。なぜ、どうして。いつまでも繰り返される疑問は、もう二度と解かれることがないことを俺は知っている。

 思えば、遥か昔のことのように遠い。歳を数えることすら忘れ、ただ時間と憎悪に追われるがまま前に進み、それでも止まり木を求める渡り鳥のように各地を転々とする暮らしだ。

 にもかかわらず、どんな火をくべても、満たされることのない心が今夜も怒りを募らせていく。

 ちょっと痛い、と少し冷静になった女が上目遣いで俺に言う。知るか。火が、熱が、足りない。いつまで経っても凍えるように寒いんだ。もっと強く、もっと激しく、燃え盛れ。

 俺は何も言わず女を抱き寄せる。それで女は皆黙る。


 ――照れてやんの。


 誰か一人でもそんな風に切り返してくれれば、心は少しぐらい、慰められるのに。


***


 鈍い頭を振りながらゆっくりと起き上がると、既に夕陽は沈みゆこうとしていた。そんなにも寝ていたのか。茫然と呟き、慌てて俺は着替えを済ませる。今日が最終日だ。せっかくここまでやって来たのに、最後でヘマをやらかす訳にはいかない。

 台所からリンゴを一個かっぱらい、服の裾でゴシゴシ拭って一口かじった。甘い果汁が寝起きの喉を心地よく湿らす。口いっぱい頬張りながら家を飛び出すと、微かに涼やかな風が駆け抜けていった。

「どこへ行くんだい、少年?」

 足早に歩き出すと、庭先から見慣れた姿が飛び出してきてギョッとする。

「……姉さん」

 彼方の空は青と紅に染まり、境界線は白く輝いていた。その中心に立つ彼女はやっぱり世界中の美しさを集めてきたかのように、ただただ世界の何よりも鮮やかで綺麗だった。

 なぜ、どうして。

 俺は、姉という存在に心惹かれてしまっているのだろう。

 いつもの疑問を抱えながら、それでも不思議な心の高揚を感じていることに、またしても苛立ちが募る。

「……散歩だよ」

「ふうん。それじゃ、あたしも散歩しようかな」

「もう夜だよ。女が一人で出歩くなって」

「一人じゃないもん。あんたが守ってくれるでしょ」

 そんなことを事も無げに言ってくる彼女の無神経さが、どうして心地よく心に響いてしまうのだろう。

 何も言わず歩き出すと、彼女もまた歩幅を合わせて隣を歩く。荒い砂利道が靴裏をゴツゴツと押し返す。二つの足音が響く。夜がゆっくりと下りてくる。遠く、野良犬の鳴き声が聞こえる。耳鳴りのするような沈黙が、体を火照らせていく。ちらっと盗み見る彼女の横顔は、ぬるりと白く、その冷ややかさに思わず手を伸ばしたい衝動に駆られる。

「……ありがとね」

 長い静寂を破ったのは彼女の方だった。不意に立ち止まってそんなことを言うもんだから、俺もまた数歩歩いた先、振り返らざるを得なかった。

「何が?」

「あんたが夜何やってるか、あたし知ってるよ」

 それを知っているのは、これから向かう店で同じくこっそり働いている友人しかいない。絶対に言うなと言ったのに、大方美貌を振り翳す姉にぐいぐい迫られ、すぐにゲロッたのだろう。その様子が容易に想像出来、心の中で舌打ちする。

「……別に、姉さんの為じゃないよ。俺が行ってみたいと思ったんだ」

 空よりも青く、ざわん、ざわんと音が鳴るという、海と呼ばれる場所へ。


***


「また海へ行ってみたいわね」

 あの時、俺が生まれる前の日々に想いを馳せて、彼女はそんなことを言った。

 先程、潮騒とは胡麻を擦る時のような音かと尋ねたことで大いに笑われた俺は、不機嫌そうにそっぽを向いていた。そんな俺を見て苦笑を漏らし、悪かったわよ、と姉はニヤニヤしながら言う。まったく悪びれていないその様子に、俺は白い眼差しを返す。数秒を経て、ふっと彼女はまた遠い眼差しで風景画を見つめる。

「この絵ね、お父さんが描いたのよ」

 透き通るような青と砂浜。

「家族で行った、最初で最後の旅行だったわね」

 美しく、ただ幸福ばかりが満ちている風景。

「どう、上手でしょ?」

 得意げに微笑んでみせる彼女に、俺は曖昧な返事を返す。

 自分が含まれていない風景は、どんなに鮮やかでも、心には残らない。

「……そう、だな」

「そういえばあんたも絵が上手だったわね。やっぱり血筋ってやつかしら」

 俺が生まれてすぐ、俺の父親は死んだ。話ばかり聞かされて見たことも話したこともない相手の面影を覗き込まれても、俺にはどう返せばいいのかも分からない。だから普段、そういうことを言われるのは嫌だった。

 でもその時だけは、悪い気がしなかった。

 海へ行ってみたいと思った。母と、姉と、自分の三人で。

 そして今度は、自分の手で風景を描くのだ。空は青く、海はそれよりも濃い青をしている。光を浴び、きらきらと輝いている。この耳で確かに触れた潮騒の音が聞こえる。ざわん、ざわん。母は穏やかな眼差しで俺達を見つめている。姉は満面の笑みで鮮やかさの中心に立っている。そんな風景を、この手で――。


***


「あんたってほんと馬鹿な子」

 姉はそんなことを言って笑う。

「言ってろ」

「照れてやんの」

「うるさいな」

 うん、と彼女は言った。胸に込み上げてきた感情を握り締めるように胸元に手を当て、小さく頷いた。

「きっとこれで最後だから。だから、一緒に海へ行こう」

 すっぽりと夜に覆われた世界で、その言葉が砂利道に転げていくと、何だか一層現実味がない気がした。

 半年後、彼女は婚約する。別の男のものとなり、あの十数年共に過ごした家を出ていく。

 そう思うと随分と切なくて、心が苦しくて、思わず唇を小さく噛み締めると、ねえ、と彼女が言う。

「ありがとね」

 感謝の言葉をもう一度口にして、にっこりと微笑む。

「そういうあんたが好きだよ」

 衒いもせずにそんなことを言える。そんな陽色の肖像を、いつまでも胸に抱いていたかった。それは、全部本当だ。

 でも心底幸せそうに、満面の笑みを浮かべる姉を見て、俺は少しだけ安心したんだ。

 それも、本当だ。


 ……きっとこの感情は一時の病だ。ふとした時に俺を苛むことはあっても、やがて時間がそれを癒していく。ずっと、なぜ、どうしてって俺自身を責め立てていたけれど、何も悪いことなんてない。ただ、過ぎ去りゆく一枚の風景に過ぎないのだ。

 それでいいんだ。それでいいって、ようやくその瞬間、少しだけそう思えたんだ。


 ……だから。

「こっちこそ、ありがとう、姉さん」

 素直にそう言えたことを誇りに思いながら、小さく手を振った。そしてお互い踵を返して、姉は我が家へ、そして俺は旅行資金を稼ぐために店へ。もう一日だけ朝帰りさせてもらって、もらったお金をきちんと数え上げて、母と姉に見せびらかしながら旅行計画を立てよう。

 きっと、忘れられない旅になる。

 そう、思っていた――。


***


 夜明け前だというのに、随分と明るかった。最初は星でも落ちてきたのかと思った。続いて轟音が鳴り響き、あちこちから悲鳴が響き渡るまでは。

 激しい熱風に吹き飛ばされ、俺は一時気を失っていた。そして次に目を開いた時には、もう町全体が跡形もなく壊れていた。燃え盛る炎に飲み込まれ、誰の家も、働いていた店も、もう元の形を留めていない。人の姿はどこにも見えない。さっきまでは、何もなかった、何も起こっていなかった、皆が生きていた、それがもう、変わってしまった。

 吐いても吐いても吐き足りないと言わんばかりに炎を噴き続ける四つ足の魔物、二本足で歩く魔物はその炎に構わず建物を潰し、中に手を突っ込んで、肉の塊を探している。そのうち一体は、俺の目の前にいる。右のすねをひしゃげさせ、左の足に体重を逃がしながら、俺を見下ろしている。

 俺は本能で絶叫した。懸命に走り続けた。何かを考えているようで、何も考えられなかった。何も想像出来なかった。何でこんなところにいるんだ。何で俺は走っているんだ。どこへ向かっているんだ。怖い。嫌だ。助けて。母さん。姉さん――。

 ひゅっ、と喉元から声にならない悲鳴が漏れた。目の前の風景を何一つ受け入れたくないのに、どうしてか目を大きく見開いて、俺はそっと地に膝をついた。

 見つけたのは、右腕だけだった。婚約指輪が灰になってポロリと落ちた。他には何もない。母が愛用していた古びた椅子も、凝った刺繍の入った赤い敷物も。ところどころ罅割れた土壁に飾られた、父が描いた異国の風景画も。何も……。

 眼前には先程とはまた異なる魔物が立ち尽くしていた。その右腕は何十本もの丸太を束ねたかのように太い。振りかぶられる様はあまりにも大仰で、迫っているはずの死も、恐怖も、何も感じられなかった。そう、俺は失った。何もかも、あの瞬間、失ったんだ。ただひとつの感情を除いて。


 ……本当は、この感情こそ失われなければならなかった。

 それは本来、時間と共に自然と失われるはずだった。

 美しすぎる姉に対する、幼くも少し邪な感情は、ゆるりとした時間の流れの中に少しずつ溶け出していく。気が付いたらそんなこともあったねと笑いあって、そしてもう二度と振り返ることはない。姉と、姉が愛する男と、俺と、母と、家族皆で笑いながら談笑する、そんな風景を描き出すはずだった。

 なのに、俺はすべてを奪われた。

 この想いを失う機会すら、奪われたのだ――。


 刹那、青い炎が、魔物の全身を一瞬にして焼き尽くした。不気味な音が耳を刺す。踊る炎に包まれて、魔物はもだえることも出来ぬまま灰になって風に流されていく。

 涙に塗りたくられて濁った視界で、何もかもが嘘だったかのように、青い炎がすべてを洗い流していく。煙だけが名残惜しそうに、夜明けの空へと身を躍らせている。破壊され、燃やされた村が、静かに目を覚ましている。もう誰の眠りも呼び起こすことのないまま。

 たん、と耳元で足音が響いた。降り注ぐ影を見上げると、白い肌、灰色の髪、灰色の外套が映り、それから悲しげな表情が目に留まった。何であんたがそんな顔をしてるんだ。それは本来、俺が抱くべき感情だろう?

 そう問いたくなるほどに深い嘆きを携えて、男は言った。

「大丈夫か?」

 出会うべきではなかったのかもしれない。

 でも、出会ってしまった。空っぽになった心を揺さぶる、唯一の人に。


***


「……もう、激しいんだから」

 くすくすと笑いながら商売女が俺の名を口ずさむ。その度に、心は萎れ、くたくたになった。それから乾いた涙が人知れず零れ落ちる。あれから何年の月日が経過したことだろう。心はとっくに腐り落ち、感情だってあの頃の形は保っていない。俺は大人になった。姉への幼い思慕は、消え去ることはないにせよ、少しずつ形を変えている。だからもう、こんなにも心囚われなくてもいいだろうに。

 なのに、いつまでもずっと、心に在り続ける。こんな時でも、どんな時でも。

 ああ、と俺はその瞬間にぼんやりと思う。

「お兄さん、泣きそうな顔して凄く荒いね」

 ああ、そうか。

 俺は、俺はただ……。


 ――ただ、あの人のように、陽の光のように真っすぐに俺という存在を見つめて、大きな声で笑って、そして馬鹿にして欲しいのかもしれない。


 でも先生は、あの人は、あまりにも真面目過ぎて、きっとそういうことが出来ないから。

 満たされることのない心と体をまた女に絡ませて、くすぐったげに鳴く女のしゃがれた声を聞きながら、酒と香に溺れていく。

 いくつもの夜で、夜風と唇を食む。

 描くことの出来なかった陽色の肖像を胸に抱きながら。

 俺という存在と真っすぐに向き合ってくれる誰かを思い描きながら。

 大きな声で笑って、そして俺のことを馬鹿にしてくれる、そんな風景を夢見ながら。

「サージュ」

 ――そういうあんたが好きだよ。

 呪いのように響き続けるそれが消え去るその日まで。


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陽色の肖像 夕目 紅(ゆうめ こう) @YuumeKou

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