1-3 人間に生きる価値はあるか
生命、あるいは人間に生きる意味はあるか。ある。完璧にある。言い切ってしまったが実際あるのである。それは、物理法則だけで動く宇宙に反逆し、まったく別の新しいシステムを提供する存在としてだ。
物理法則とは何であるか。諸説あるが、ビッグバンで始まった宇宙が広がり続け、星々を作り、破壊し、さらに広がり続け、最終的には熱力学の第二法則にしたがって冷えてもなお広がり続け、最終的にはどの素粒子もどこまでいっても他の素粒子にぶつからない、完全に冷えた宇宙に成り果てる。宇宙の一生についての一つの仮説である。ちなみにこの冷え切った宇宙、仏教の涅槃の概念に非常に似ていると思うので宇宙の涅槃(ニルヴァーナ)と私は呼んで一人悦に入っている。
ちなみにもう一つ、宇宙はある一定の所まで行ったら収縮を初め最終的にはビッグバン――ビッグクランチに戻るという仮説もある。それはそれで宇宙の最終戦争(ハルマゲドン)みたいだなと思っている。
この一文は余談になるので読み飛ばして貰ってもかまわないのだが、宇宙の仮説がそれぞれユダヤ教、キリスト教、イスラム教の終わりや仏教の極地に類似しているのは、宇宙の観測に人間の意思が強く介在したとしても、すごく意味深なことではないだろうか。
さて、いままで物理法則が導く宇宙の始まりと終わりを見てきたが、生命はなにをこの物理法則が支配する宇宙でするのかというと、たった一つのことである。それは好き嫌いである。と言っても良いかもしれない。え? と思うかも知れないが、それは好き嫌いなのである。以下に説明しよう。
生命は物理法則とは異なる力で、物質を選別し、つまりは好き嫌いをし、ある物質を必要な物――好きな物としてため込み、またある物質をいらない物――嫌いな物として排泄する。
例を挙げれば、植物が光合成で二酸化炭素を取り込み、炭素を必要な物としてその身にため込み、残った酸素分子をいらないものとして排泄する。その行為である。
それが一体何であるのか? それが全てである。
そう、このような選別に見える行為は、これまでどのような物理法則でも到達し得なかったこと――生命が介在して始めてできたことなのだ。
そう、生物は物理法則にできなかったことを代わりに行う。それは一種の反逆行為であると言って良い。
物理法則に反逆するとはなんであろうか。もう少し見てみよう。たとえば鮭が物理法則とは別の仕方で生きる良い例だ。海で栄養を――好き嫌いをして蓄えたその体を、決して物理法則では戻り得ない方法――ひれと体を動かすことで、生まれ育った川に帰って産卵し、そして死に、陸の多岐にわたる生き物――たとえば熊とかにその栄養を与えるように。もしも鮭がいなかったら陸は海に栄養を流すばかりで、やがて陸の栄養素は枯れ果て、海の栄養は陸に帰ることは無く、陸は今よりも栄養の乏しい世界になるだろう。
ところでこれを大規模に行っているのが人類である。海藻や魚など海の栄養を吸い上げ、陸に戻って消費している。あるいは地下に封印された過去のエネルギーも、今の地表に戻して使用している。まあそのことが、さまざまな環境問題などを引き起こしているわけであるが。
まとめよう。生命は物理法則を破ることまではしないが、物理法則に従いながらも一部反逆を実行する。これまでの物理法則では決してできなかった、重力や慣性の法則に逆らって物質の選別、収集、排泄、蓄積などを行う。これは物理法則が直面した一個のかつ、ささやかな反逆である。だがこれほどの挑戦を未だかつて物理法則は受けたことがなかったのだ。
だから、我々は、この挑戦を応援しなくてはならない。生き物としての人間はこの反逆行為を応援、支援し、できうることなら地球を飛び出し、この生き物の反逆行為を宇宙に轟かせなくてはならない。それはやがて来る宇宙の平熱化――熱力学第二法則の涅槃を救い、宇宙を永遠にかき回すための匙になるだろう。
ここまで生物の有効性を見てきた。次は人類である。人類ももちろん生物であるから、好き嫌いを行い、物を集めたり、捨てたりする。それもこの上もなく大規模に。
体の内側だけではなく、体の外にも好き嫌いを大いに行う。感覚を使って好き嫌いを行うのだ。それは動物に見られたことではあるが、人間はもっとすごい。彫刻や絵画などの芸術作品を作り、集め、果てには皆に見せびらかす。ちょっとの違いを偽物として排除する。
さて、人類も生命であるから、いずれ星の領域に手を伸ばさなくてはならない。もっとも星の領域に近い存在は人類である。人類は今もまさに星の領域に手を伸ばそうとしている。
それはなにも人類がそのままの姿で宇宙を旅しろと言うのではない。宇宙には宇宙の旅姿という物がある。それはおそらく肉体ではなく機械やデータと言った状態での宇宙空間への伝播という形を取るかも知れない。
それで気になるのが生命の起源である。生命宇宙発生説という物を聞いたことはないだろうか。もともと生命は宇宙にRNAだかアミノ酸の形で存在していて、それが隕石で地球に降ってきてそこから生命が発生したという、仮説である。もしかしたら人類の先輩に当たる生命は、この形で宇宙に命を拡散させようと思って、そうしたのかも知れない。
では命の究極の目的は何だろう。それはいずれ物理法則を完全に破る存在を見いだし、作り、育て、生むことかも知れない。それはニーチェが超人の思想で叫んだように。それはまあ、私が先走って幻視したにすぎない。
結論づけよう。人間や生物には生きる価値が明らかにある。我々は一個の匙である。宇宙をしっちゃかめっちゃかにかき回し、恥じ入ることのない匙である。匙らしく生きようでは無いか、兄弟よ!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます