1-1 『心』が『強く』って何だ?
さて何の気の無しに使ってしまったがそもそも『強く』とは何だろう。そしてもっとも重要なことだが『心』とはなんだろう?
心には諸説あるが、自身の内面を司る分野と考えて貰ってかまわない。つまり考えたり感じたりする部分だ。脳と言えばいいのかも知れないが、ここでは心と呼ぶ。そして心は本来ならば束縛されない。たとえば日本国憲法でも内心の自由は保障されている。つまり考える分なら何をしても罰せられないと言うことだ。
しかし実際には心は様々な規制によってがんじがらめになっている。生まれや育ち、これまで学んできたこと、言語に性別、肉体能力などの身体的要素もそこには含まれる。
これから自由にものを考えることは難しく、心は常に湾曲していると言って差し支えないだろう。もしあなたが誰かの心がまっすぐに見えたとしたら、それは視点の問題によってそう見えただけに他ならない。
さて心はこれくらいにして次は『強く』について考察してみよう。心が強いとは一体どういうことだろう。
肉体的な頑健さ、さえもさまざまな視点があって、計りがたいというのに、さらに心の強さなどどう計れば良いのか。疑問視する人もいるかも知れない。
しかし結論から言えば、計らなくても良いのである。なぜか。
それは人によってその人生で要求される強さはまちまちだからである。
簡単に言えば心の強さはせいぜい生まれて死ぬまで――あるいは意識がある間までの期間、その強度を保っていれば良く、そして寿命は人によってまちまちであることから一定の強さを持っていれば大丈夫と言った指針もない。まったくその人個人にゆだねられている。
それに、心の強さの量と言う概念は、心の数量化という一つのイデオロギーによって生み出されたものに過ぎない。また、人の心の強さは不安感とか恐怖感とは関係ない。たとえば広い場所にいると不安だとか、おばけが怖いなどと言ったことも心の強さとは全く関係ない。
では心の『強さ』とは何か。
それは心がしなやかであることである。折れないことである。折れない心を学ぶにはしなやかさが必要である。そしてしなやかであることを学ぶには、物事の多面性に気づくことが必要である。つまりは先に述べた『まとも』を疑うようなことも、また多面性の気づきにたいへん有益である。さあ、次は『多面性』について考えてみよう
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