強く生きるための哲学書
陋巷の一翁
1・哲学は何の役に立つのか
はじめに。哲学ほど何の役に立つのかと人に問われる学問はないだろう。そんなものを学んで何になるのかと。なかには哲学なんて勉強すると自殺するんじゃないかとか、まともな企業で働く意思がなくなるんじゃないかとまで言う人がいる。
これらはどちらも正しい。圧倒的にまでに。まずは後者から行こう。まともな企業というという『まとも』という言葉は人が哲学を学べばすぐにカチンとくるようになるだろう。
『まとも』とは何か? 誰が決めるのか? みんなそうが言っているから『まとも』なのか? 良い業績を上げているから『まとも』なのか? そもそも『良い』とはなにか? 理由は何にせよそういったところに噛みつくのが、哲学の作用であることは疑いようがない。
だから面倒なんだ! 人は言うだろう。確かに面倒だ。
しかし人が言う『まとも』を鵜呑みにすることの方がその実、危険は大きい。
人が言う『まとも』な会社に勤めて結果生じる『まとも』ではない自分、適応できない自分という問題に直面した時、会社ではなく自己を責める、自分をゆがめる可能性があるからだ。
その結果生じるのが精神の危機――つまり心の危機である。
言ってしまえば人間は長く生きていけばいくほどに、何度も何度でもそういった危機的状態に自然と直面することになる。それは特に世の言う『まとも』――たとえば生き方とか考え方――と自分自身が衝突する時に激しく起こるだろう。
それならば若いうちに『まとも』を疑ってしまった方が、生きるにおいて楽になること疑いない。大学や高校という時代は、これら『まとも』疑うのにちょうど良い時間だ。中学や小学でも良いかもしれない。
続いて前者、哲学を学んだら自殺するんじゃないかという疑問について答えよう。
たしかにそれは作用としてあるかも知れない。学問としての哲学は他の学問と比べると恐ろしいほど自己の死と近しいものを教えもする。
そんな学問を教えるなんて! と、人は言うかも知れない。
だが少し待って欲しい。人は、若者は思った以上に死に近しいものだ。とくに自殺と若者は何もしなくても近親性が高い。
(統計学上では中高年の自殺の方が高いのだが、一旦それは横に置いておく。青少年の死因の一位が自殺によるものであることを私は考慮している)
何を彼らに教えれば自殺を防げるのか? 道徳か? 倫理か? 否違う、哲学である。
哲学は死について教える。死について考えさせる。それは学んだ人にとって抗体のような働きをする。
そして哲学は必ずしも死んではいけないとは教えない。それを乗り越えて生きてみないかとは呼びかける。つまりあえて死のレッスンをすることで生の意欲を学ぶのである。
あれだ。ライオンが我が子を千尋の谷に突き落とすようなものだ。それよりはずいぶん優しいが哲学にはそういった学びを教える。しかしいったい何のために。真理か? 善か? 正しさか?
それらは違う。
なぜ人は哲学を勉強せねばならないのか。それは強くなるためである。体を鍛えることも重要であるが、心を鍛えることもまた重要である。
そして主に心を鍛える学問。それが哲学である!
言い切ってしまったが、それをこれから論証してみようと思う。
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