俺はきっと、竜宮城から帰らない
「落ち着いたか?」
湯船に浸かりながら、俺の胸板に寄りかかるように座っている結望に、そんな質問。
「そっちこそ、随分興奮してたね」
さっきまであれだけよがっていた身分のくせに、こと今となってはなんてことなく落ち着いた風体を見せる結望が、どことなく可愛らしく見えた。
「ちょ、急に抱き締めないでよ」
「いや、可愛いなって思っちゃって。嫌ならやめるよ。はい」
込めていた力を、スッと抜く。口ではそんなことを言っていても、名残惜しそうに、小さく零れた「あ……」なんて一言を、俺は聞き逃すわけがなかった。
「どうしたの?」
「バカ、意地悪」
「嫌い?」
「ん、好き」
「俺もだよ」
そう言って、また抱き締める。結望の髪から漂う甘い香りで、一度は落ち着いたはずの俺の色情が溢れそうになる。
「ていうか、幽人って好きな子いたんじゃないの?」
不意に、唐突に、結望が胸元にある俺の手を握り、言った。
好きな子がいる。それは確かに事実だけれど、それは千尋でもあって、今宮でもある。それに、結望でも。
でも、それが間違えたことだという認識だってある。勝手気ままに、いくつもの女の子に愛を振り撒いているということが、在るべき恋愛ではないと、理解している。
けれど、俺にとってはそれが普通で、当たり前で、当然で。
けれど、それを分かってくれる人は、多分俺の周りにはいなくて。
きっと俺は、将来泥棒になるのだと思う。
「それは、結望が勝手にそう思っただけでしょ? 俺は、結望のこと、好きだよ」
これまでに、いくつもの嘘を重ねてきたから。
嘘つきは泥棒の始まり、なんて言うから。
本当は、「結望のことも好きだよ」って言わなきゃいけない。他に好きな人がいるのだから、それが正しい言い方だ。
それでも、どこはかとなく嬉しそうな結望を目の当たりにすると、そんな罪悪感はどこかへ消えていってしまうのだ。
普段は少しばかり気が強いくせに、俺に甘える時だったり、照れる時ばかりしおらしくなるそのギャップが、俺はたまらなく好きなのだと思う。
「そっか。そっか。ねぇ、もうちょっとくっついてもいい?」
「お好きにどうぞ」
「へへ……そっか」
「さっきからそっか、しか言ってないよ?」
「別に、いいじゃん。別に」
「ま、いいけどさ」
それから、少しの間、シャワーから垂れる水滴の音だけが、浴室内に響き渡った。一定のリズムで生まれるその音よりも、俺の鼓動は早かった。結望の背中越しに伝わるそれも、同じように。
「結望、背中洗ってあげるよ」
どうして、男という生き物は――俺だけかもしれないけれど――可愛らしい女の子に、少しばかりの意地悪をしてやりたくなってしまうのだろう。
「え? あ、あぁ~、それは自分で出来るから良い……かな?」
背中が弱い結望にとっては、この程度のことでも、案外辛いらしい。辛い割に甘ったるい声を漏らすのも不思議な話だ。
「ふーん。俺じゃ嫌なんだ。はぁ、じゃあ俺は先に出て一人悲しくヤケ酒でもしようかね」
「え、ちょ。わ、分かったから……でも、その……」
分かりやすく、絵に描いたようなうろたえっぷりが、見ていて楽しい。引きつりながら、逸らした目。けれどその中には、どこか期待の色も滲んでいた。
二度も身体を重ねたのだから、流石にもう分かる。
結望が、焦らされながら、やめることを懇願しても止まらない快楽を与えられることが、好きで好きで仕方がないなんてことくらい。
多分、結望は俗に言われるマゾヒストってやつで、この構図で言えば俺はサディストなのだろう。
でもそれは俺が結望に応えているからなんかじゃない。どこもかしこも体液まみれで快楽に狂う様子を見ることが、俺は素直に好きだから。俺はきっと、生粋のサディストなのだろう。
やっぱり、結望は、
「その、優しく気持ち良くして欲しい……かな……」
なんて、快感を求めてくるのだ。
やっぱり、俺が背中を撫でる度に、結望は身体をくねらせる。いつまでも満足しない俺に体力と恥辱の限界を迎えた彼女のビンタが飛んでくるまで、俺と結望の快楽は続いていた。
■
「ってて、なにもビンタすることないじゃなんか」
ヒリヒリと痛む頬を冷やしながら、目の前でツンとそっぽを向いている彼女にそう吐き出した。
手加減の仕方も分からないのか、顎が外れるかと思った。
「そ、それは、あたしが何回ももう無理って言ったのにやめてくれないから……」
「いや、もっとして欲しそうな顔してたし」
「してない! そんな顔!」
「ふーん。ま、なんでもいいけど。可愛かったし」
正直な気持ち。対して赤面する結望。意外と楽しい思考回路らしい。
可愛い、と言われる度に、結望は分かりやすく照れるし、喜ぶ。分かりやすいというか、素直というか。
それでいて、ただ一言「ばか」とだけ言うものだから、俺は自分の頬が緩むことを防ぎきれなかった。
「何笑ってるんだよ。こっちは真剣なのに」
「それじゃ俺が結望に真剣じゃないみたいじゃないか」
「……ばか」
それだけ言って、結望はまた、ツンとそっぽを向いた。
「ねぇ、結望」
「なーに」
「舌切りすずめって、知ってるか?」
どうして、そんな話をしようと思ったのか、俺には分からなかった。
なんでも受け入れてくれそうな、結望の雰囲気に飲まれたのかも知れない。それを後押ししたのは、俺の体内に未だ残留するアルコールだろう。
「知ってるよ。優しいおじいさんと、意地悪で強欲なおばあさんの話でしょ?」
「そ。あれってさ、おじいさんは小さな箱を選んだから幸せになって、おばあさんは大きな箱を選んだから不幸になったんでしょ?」
「そんな話だったね」
「でもさ、おじいさんって、お年寄りで大きな箱を運べないって理由で小さな箱を選んだよ? じゃあ、裏を返せば、若ければ大きい箱を選んでいたってことだよね」
唐突に始めたおとぎ話への屁理屈にも、真剣な眼差しを向けてくれる結望。
「そうなるの、かな?」
「で、お年寄りだけれど大きな幸せを手に入れようと頑張ったおばあさんは不幸になったんだって、それっておかしくない?」
「でもおばあさんって性悪の酷い人だったんだよ?」
「んー、じゃあさ、俺と結望で例えようか。二人とも性悪じゃないし、酷くもない。もし結望の前に、大きな箱と小さな箱が差し出されたら、どっちを選ぶ?」
「……舌切りすずめの前提は?」
「おじいさんが小さな箱で幸せになったとこまでは知っていて良いよ」
つまり、小さな箱で得られる確実だけれど小さな幸せと、大きな幸せか大きな不幸が潜む箱を選ぶ、二者択一。
「じゃあ、それは小さな箱だよ。だって大きな箱には幸せが詰まってるとは限らないもん」
「小さな箱に、幸せが詰まっていることを知った上で、小さな幸せを選びとりたい、ってこと?」
「もちろん。だって不幸な目に遭いたくないじゃん」
「ま、そうだよね」
それから、少しばかりの静寂。あるのは、部屋の隅で動く空気清浄機が放つ微かな音だけ。
「――俺はさ、大きい箱を選ぶんだよね」
「ふーん。幽人が変なのは中学の頃からだけど、なんでまた」
「だって、その方が幸せじゃん」
「……ん? 何言ってるの?」
まるで理解が出来ませんとでも言わんばかりに、結望の首が大きく傾いた。
「だから、俺はさ、その箱を運び続けるんだよ。開けないで」
「開けなきゃ分からないよ?」
「それが、良いんだ。大きな幸せが詰まっているかもしれないし、大きな不幸が詰まっているかもしれない箱。で、俺は大きな幸せを夢に見るんだよ」
「あー……なんとなく、分かったかも」
「そういうこと。俺はさ、幸せになれるかもしれないという夢を見る幸せを、ずっと持ち続けたいんだよね」
「へー、なんか変わってるっていうか」
「そんな俺は、やっぱり不幸になると思う?」
「どうだろうね。あたしといて、幸せ?」
「そりゃ、当然」
「ならいいんじゃん?」
「まぁ、そうかもね」
それはつまり、そのまま今の俺。
千尋も、結望も、今宮も。全てを欲張って欲しがる俺は、決して答えなんて求めていないんだ。
俺の根幹にあるのは、三人もの女の子と関係を持つという大きな箱。
それを開ければどうなるかは分からないけれど、その大きな箱を持っているという幸せを、いつまでも噛み締めたいという、欲張りなおばあさんと同じ考え。
もし、それがおとぎ話のままなのなら、俺はきっと、不幸になるのかもしれない。
そうなったら、そうだなぁ、今度はいじめられている亀でも助けてみようと思う。そうして、俺は竜宮城から帰らないさ。
――もちろん、竜宮城にいるのは結望と千尋と今宮でお願いしよう。
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