人間だから。
本来あるはずの机と椅子が、無かった。
表面では気にしていない風を装っているくせに、一丁前にショックを受けていた。
視線を、左へ、右へ。
机は、見当たらない。いつもなら教室の隅に動かされていたり、教卓の隣に置かれていたりだけれど。
「……はぁ……」
今日は、ベランダか。
よくもまぁ毎日毎日、朝早くから力仕事をするもんだ。
それに、バリエーションも豊富。
まぁ、虫を食べさせられたりしていないだけ、幾分もマシか。
「よっこら、せっと」
一人ベランダに出て、机を動かす俺を、クラスのみんなが半笑いで眺めていた。誰も手伝おうとなんてしない。
別に、それで良いけど。助けようとして自分も標的になるのは嫌だろうし、俺でも、多分、そうする。
だって、所詮、人間だから。
人間の根幹にあるのなんて、結局は自己愛のようなものだし、誰かの為に何かをしてやろうとか、施しをしてやろうなんて、結論として、自分の為に過ぎない。
困っている人を助けている。偉い。
いじめられている子を守った。偉い
貧しい人々に自身の富を分け与えた。偉い。
人が何かをする時、求めているのはその後にあるベネフィットなんだ。
ドリルを買う人が欲しいのは、ドリルではなく穴である。なんて言葉もある。
人は人を助けたいのではなく、助けた結果に得られる賛同や
自身になんら価値をもたらさない行為が出来る人間なんて、その実どこにもいないんだろうなんて、度重なるいじめの中で、悟った。
けれど、こんな場所で、くだらないこの空間で、俺はそんな、根拠もなく抱えていた確信を、いとも簡単に崩されたのだ。
三年間で、たったの一度しか話さなかった、同じクラスのアイドル的、存在。
佐藤、千尋に。
■
きっかけは、ほんの些細なことだった。
さして何か大きな出来事があったわけでもない。
強いて言うなら、俺が彼女に、恋心のような、憧れのような感情を抱えていた、ということだけ。
高校三年、最後の日だった。
■
卒業式だのというくだらないイベントが終わり、俺はそそくさと帰りの準備をしていた。
嫌がらせに苦しんでいたこの場所を去れるという事実からか、不思議と気分は上々。ほとんどの荷物を前もって持ち帰っておいたおかげで、俺は手提げバッグ一個という軽い荷物で帰宅出来るのだから。
多分、俺のこの高校での想い出は、この小さな手提げバッグにでも入りきるくらい、入っても隙間が出来るくらい、小さい。
けれど、それももう、今日までだ。
死ぬ気で勉強をした。学校で起こる嫌がらせを全てはねのけるくらいの、寧ろ糧にするくらいに、必死に。
だって、気が付いたんだ。
俺がこの高校でいじめられてたのって、周りがみんなバカだからなんだ。
バカだから、平気で人を傷つけられる。
バカだから、人の嫌がる姿を見て笑える。
バカだから、自身より優れている人間を妬む。
俺はきっと、周りのバカより、いくらか優れていたんだろう。
証拠に、日本でも有数の高偏差値を誇る名門私立大学に合格した。そこに合格したのは、学年で俺だけ。
そもそも、歴代で合格したのは、俺だけだ。
俺がいじめられていることに気付いていながら見て見ぬフリをしていたバカな教師は、「君のおかげでこの学校の宣伝文句がまた一つ増えたよ!」なんて嬉しそうに言っていた。
だから俺は「嬉しいのは学校の宣伝じゃなくて、自分が担任をしていた生徒が赤学に行くことでしょう」なんて返した。
その時のあいつの顔と言ったら、写真を撮らなかったことが少しばかり後悔だ。
まぁ、それだけの場所へ行けば、人をいじめようなんて考えを持っているやつなんていないだろうと、そう思ったのだ。
――結望はきっと、もっと良い大学に行っているんだろうな。
なんて、中学時代の友人を思い出す。てんで連絡を取っていないから、現状は知らない。
学校で少しばかり話しても、プライベートな関わりはなかったから。
さて。ようやく、俺はこの学校を卒業したのだ。
一歩、二歩と、教室を出て、歩き始めた。
背後では、バカの騒ぎ声が聞こえてくる。
この学校に、想い出なんてない。未練もない。後悔もない。
本当に、そうだろうか。
佐藤千尋。彼女に思いを伝えずに、それで悔いがないと言えるのだろうか。
「ま、どうせ玉砕玉砕。別にそんなに好きだったわけじゃないし」
「え、瀬井君って、好きな人いたの?」
脳内で念仏に似た何かを唱えていた俺は、いつのまにやら何かを口走っていたらしい。
そしてそれは中々面白い話題だったようで。
そしてそれは、一番聞かれたくなかった人に、聞かれてしまった。
「あ、佐藤、さん」
「やだなー、千尋でいいよ。で、好きな人って誰なの?」
不思議だった。
同じクラスだったのは、一年と、三年。二年間同じクラスだったのに、一度も話したことはなかった。
理由ってほどでもないけれど、学園のアイドルみたいな人だったから、常に周りには人がいた。
そんな人に紛れていくほど、俺に勇気はなかった。
それがまぁ、少しばかり後悔か。
「好きな人なんていないよ。俺のことを嫌いな人は、まぁ沢山いるけどさ」
皮肉交じりに、そう言った。
彼女だって、いじめられている俺を見て……。
流れゆく回想、高校生としての走馬灯。そうして、気付く。
彼女は俺に、何もしていないのだ。
いじめに加担もせず、笑いもせず、当然手を差し伸べるようなこともせず。
本当に、何もしていなかったのだ。
理由は、分からない。それを聞くのも、何か違う。同窓会かなんかで再会して、もし話す機会でもあれば、聞いてみよう。
そもそも、俺が呼ばれるかは、分からないけれど。
「えー? 私は好きだけどな。瀬井君のこと」
「……ふーん。君が学園のアイドルって持て囃されている理由を垣間見たな」
「それ、嫌味?」
「どうだろう。素直に、凄いと思って。君はきっと、誰にでも等しく、適切な関わり方が出来るんだろうね。なんていうか、距離感にしても何にしても。だから君は人気者なんだろう」
個々を尊重した立ち振る舞いって、案外難しいものだから。
「褒められてる気はしないけどなぁ。でも、私の言う好きは、周りの人たちに向けて言っていた好きとは、きっと少し違うんだよね」
「好きに複数の定義ってあるのか? 好きは好き、嫌いは嫌いだろう。あるのはその感情に行き着く理由だけ。その感情自体に種類はない」
俺は、千尋が多分、好きだ。
それに行き着いた理由が、今分かった。
俺に、何もしてこなかったから、なんだ。
彼女は、少なくとも俺のいじめに加担をするつもりはなかったのだろう。けれど、俺を守ったとて、どんな結果が生まれるかを、明確に理解していたのだ。
だから、何もしなかった。
俺は、いじめに耐えかねていた俺は、きっと。
何もしてこない人を、正義だと信じていたのだ。
「ふーん。まぁとりあえず、同じクラスだったんだし、写真くらいは撮ろうよ。ね?」
「この両目も隠れるようなボサボサの薄気味悪い妖怪夫婦の間に生まれ落ちてしまったこの世の闇みたいな俺とか?」
本当に、ナリは妖怪そのものだ。
「卑屈禁止。もっと自信持ちなよ。確かに、瀬井君は性格に難があるけどさ」
「ほっとけ」
「良いところも沢山あるの。優しいところとか、頭の良いところとか。他にもあるんだけど……私の頭じゃ上手く言葉に出来ないや」
「君は別に、バカじゃなかっただろ」
「でも瀬井君よりはバカだよ。んーん、この学校の誰もが、瀬井君よりはバカ。ほんと、嫌になるよ」
ずいぶんな物言いだ。それに、俺のことをすこし買い被りすぎている。
「でも、さ。瀬井君の合格した大学ならさ、もっと、頭のいい人は沢山いると思う。瀬井君ほどいい人をいじめる人なんて、絶対にいないと思う。だからさ、大学、楽しんでね!」
「あ、りが、と。で、佐藤さんの進路は?」
何で聞いたのかは、分からない。なんとなく、だ。
「えへ、恥ずかしながら浪人です」
「あ……えと、ごめん」
想定しうる限りで一番最悪な答えが返ってきてしまった。
「いいの! 元々私の頭じゃ厳しいところだったから! でも、来年はもっと頑張って絶対に合格するよ!」
「そっか。頑張ってね」
「はい! それじゃ瀬井君の合格祝いと私の浪人決起を兼ねて、はい、チーズ」
髪の隙間から、眩しいフラッシュ。こんなものを、高校で浴びるとは思わなかった。
「ありがとう。瀬井君。大事な写真にするね」
「三日後には忘れてると思うよ」
「そんなことない。あ、この後友達と予定あるんだった! じゃあ行くね! 大学生活楽しんでね」
「うん。ありがとう」
素直にお礼が言えたことに、驚いた。
「まずはそのだらしない髪型をどうにかして、表情をもっと豊かにして、姿勢も正せば絶対モテるよ! 少なくとも私からは、ね! じゃ、ばいばい! 写真は後でMINEで送るね!」
少なくとも私からは、って……学園のアイドルともなると、まぁここまで自意識過剰になるのか。ま、無理もないよな、何を言っても周りが持ち上げてくれるわけだし。
とはいえ彼女の言葉で最も引っかかったのは、彼女は間違いなく俺のMINEを知らないだろうな、っていうことだけれど。
それじゃ、まぁ。
――大学生活に向けて、大幅イメージチェンジでもしてみるとしようか。
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