第二章【俺の想い。ちひろの想い出】

明日、会おうよ、ちひろ

 起きたらそこに、結望の姿はなかった。

 俺は一限があるわけでもないし、ゆっくり寝ていた。けれど、結望の朝は早かったようだ。


 何か一言連絡でもよこせよ。なんて考えたとき、俺達はお互いの連絡先を知らないことに気が付いた。

 俺と結望は、それくらいの関係なのだ。だというのに、一夜を共にしたのだ。


 それがなんとなく心が躍るようなシチュエーションであるとも思えたけど、やはり大きいのは罪悪感の方だった。


「まぁ、同じ大学なら、会おうと思えば会えるだろうし、別に良いか」


 多分、言い聞かせるように、そう言った。もしかすれば、彼女ともう二度と会えないのかも知れないなんて考えたら、どうにも怖かったから。


 スマホを、起動。大量の通知。

 全てが流星からのものだった。


 普段からそこまで無理矢理連絡をしてくるようなやつではなかったから、俺は少しばかり、ただごとじゃないんだろう。と思った。

 流星がすぐにでも俺に伝えたかったとすれば、百円拾っただとか、その程度のことなわけがない。


 とりあえず俺は、流星に電話をかけることにした。


 幾度か鳴り響くコール音。もう昼前だ。多分起きているだろう。


『ようやく起きたかこのボンクラ』


 予想通り、流星は発信に応じ、開口一番に俺に侮蔑の言葉をぶつけた。


「なんだよ急に。で、なんだよ。気が狂ったようにメッセージ送ってきて」

『お前、今から出てこれるか?』


 話題転換。だから俺も考えることをやめた。


「あ、まぁ、大丈夫だけど」

「じゃ、秋葉原集合で。一時間後で大丈夫か?」

「いいよ。で、なんだ、またJKリフレに行くのか?」

「ま、そういうこった」


 相も変わらず、強引な男だな。


 そんな約束を交わし、俺は待ち合わせに向けて準備を始めた。とはいえ一時間後に秋葉原という中々無理難題な約束だったから、準備らしい準備はしていないけれど。


 ■


「みゆちゃんの誕生日だから行きたいって、なんだって急にそんなこと」


 集合した流星曰く、そういうことらしい。


「それがさぁ、本当は明日は休みのはずだったんだけど、深夜に急に出勤するとかつぶやいてて、ソッコーで予約ぶち込んだわけ。しかも営業時間まるまるだぜ?」

「ふーん」


 なんかあったんじゃないの。彼氏と別れたとか。

 そもそもJKリフレで働いている子に彼氏がいるかどうかは分からない。


「まぁ良かったじゃん。で、俺も付き合わされる訳だ」

「まぁいいじゃないか。リフレンドだろ? 俺達」

「流星が一方的に言ってるだけだけどね」


 とはいえ、だ。今日は千尋も出勤している。昨日あれだけのことがあってどの面をひっさげて会いに行くのかというところではあるけど。


「そんじゃ、出発だぁ! 予約時間まではあと二十分! 急ぐぞ!」

「あのさ、俺、千尋の予約してないんだけど」

「あぁ、俺がもうしておいた。ねじ込んだよ。ただ今回ばかしはかなり埋まっててな、60分だけど我慢してくれ」

「そうかい」


 十分、長いよ。今の俺と千尋じゃあ。


 それから、既に見慣れた道を歩き、到着。開くドア。響く爆音。


 また、来ちゃったな。


 来るつもりがなかったわけではないけれど、ちょっと早すぎやしないかな、なんて。


 いつかのように受付が済んで、入室。今回は違う部屋。ピンク色が映える、そんな部屋。


「き、昨日ぶりだね。ユージン」


 今回は、早かった。この前は五分くらい待ったような気がしたけれど。それは場の空気に飲まれた錯覚だったのかもしれない。


「あ、うん……」


 なんとも言えない、気まずさ。それはきっと千尋も理解していて、やはりどこかよそよそしい。

 何を言えば良いのかなんて分からない。けれど、言うべきことは、決まっている。


「昨日は、変なことを言ってごめん」


 それだけ。


 ただ、謝るだけ。


 自分一人の感情で、勝手な嫉妬心で、俺は千尋に八つ当たりをしたんだから。謝るのは、当然なんだ。


「ふん」


 どうやらやはり、千尋の機嫌は良くなかった。

 しかめっ面でそう言って、近くのクッションに腰を下ろしたかと思えば、また一言「ふん」

 そうして俺から顔を逸らす。


「なにが……」

「え?」

「なにが女の子が泊まりにくるーよ! なにがお世辞にしちゃお粗末ーよ! 私だってね! 私だって! 私……だって……!」


 途端に、千尋の頬に、一筋の涙が流れた。

 一滴、また一滴と流れる感情のメタファーは、際限なく流れ続けた。

 それでも、千尋はどうにか絞り出すように、言ったんだ。


「嫉妬のひとつやふたつ……するよ……」


 そんな、どうしようもない俺に向けるには、あまりにももったいない言葉を。


「ねえ、ユージン。いやだよ。他の女の子のところにいかないでよ。私とだけハグしてよ。私とだけキスしてよ……ねぇ、お願い……」


 涙ながらにそう告白する千尋を、今すぐにでも、抱き締めたかったけれど、それでも俺は必死に我慢して、口を開く。


「うん。そうする。ねぇ、千尋。一つだけ言って良いかな」

「なぁに?」


 後ろめたさや、罪悪感が残る結望との一夜の中で、俺は結望に、恩返しもしきれないほどの言葉を貰った。


『幽人、変に意地張るところあるんだから気を付けなよ。もっと素直になんな』なんて。馬鹿らしいよな。言われなきゃ、そんなことも分からないなんて。どうしようもなく馬鹿だ。


 けど俺は、間違えたくなかった。

 ただ見ているだけだった千尋が、今こうして目の前にいるんだから、ちゃんと言いたいことを、言いたかった。


「俺は、千尋のことが好きだよ」


 高校時代に言えなかった言葉を、ようやく言えた。


 初めてこの場所で会ったときみたいに、その場の空気に流されてとかじゃなく、心の底から、俺の本心を。


「音楽がうるさくて、ちゃんと聞こえないよ」

「だから、俺は千尋のことが好き」

「もっと大きな声で言ってよ」

「千尋が好き」


 何度言っても、千尋は納得しなかった。

 それどころか、何かイタズラを思いついた子供のような、或いは人間を騙す小悪魔のような笑みで、俺に近付き、耳元で言った。


「聞こえない。だから、もっと近くで言ってよ」


 もう、俺の耳に千尋の唇が触れてしまいそうな距離で。耳に当たる千尋の吐息は、何よりも扇情的で、俺の理性を融解させるには十分すぎて。


 気が付けば、我も忘れて、千尋を抱き締めていた。


「早く、言ってよ」

「千尋が、好きだ」

「じゃあ、もっと強く抱き締めてよ」

「うん」

「もっと」

「うん」

「ねぇ……この前よりもっと気持ちの良いキスをして。ただの行為じゃなくて、私にユージンの証を刻むみたいに、私が溶けてなくなっちゃうくらいのエッチなキス」

「うん」


 言われるがままに、けれど、流されるわけでもなく、俺は千尋を貪った。


 自分でも、二日続けてこんなことをしているの、おかしいって分かっているけど。


 そんなこと、別にどうだって良いじゃないか。


 考えない。考えたくない。

 今ここに在る快楽と興奮だけに支配されて、俺は俺を千尋に刻み込みたかった。


「あのね、ユージン」

「どうしたの?」


 お互いの口が艶めかしい唾液まみれになりながら、千尋が言った。

 僅か数センチだけれど、果てしなく遠いその空間を早く埋めてしまいたかったけれど、千尋の言葉にも、とびきりの興味があった。


「ユージンとのこと、恥ずかしいって言ったのは、私がユージンを本気で好きだからだよ。他の人の誰にも、私とユージンのことを教えたくなかったからだよ。ねぇ、私の気持ちを私が一人占めするのって、いけないことなのかな?」


 あぁ、やっぱり――


「いけなくないよ。でも、千尋だけのものじゃない。それは俺のものでもある。だから、一人占めじゃなくて、二人占めだね」


 ――俺はどうしようもなく、千尋のことが好きだったんだ。


 こんなクサい台詞が言えるくらい脳は蕩けきっているし、今すぐ千尋の制服を奪い取ってしまいたいけれど、この真っ直ぐな感情が、それを制止してくれていた。


 俺は、千尋と、もっと素直に恋をしたい。


 だから、間違っても先走るようなことは、したくなかった。


「ユージン……早く、キスして」


 けれど、だらしなくとろりとした千尋の瞳や、俺の口を、舌を唾液を、それら全てを求めて止まない千尋の扇情的な唇は、どうにか守ろうとする最後の一線以外は、簡単に、いとも容易く蹴散らしてくれるんだ。


「分かってる」


 再びの、口づけ。さっきより、もっと野性的な、お互いの気持ちをぶつけ合う、まるで殴り合いのようなソレは、きっと今までで、いや、間違いなく、人生で一番の幸福を味わっている瞬間だった。

 抱き締め合いながら、お互いの唾液を混ぜ合わせるだけの、行為。


 時折千尋が漏らす喘ぎ声にも似た吐息は、店内に響き渡る電波ソングを塞ぐ耳栓としては、あまりにも上質過ぎた。


 だから、60分という短い時間の予約しかしなかった流星を、無責任にもぶち殺してやろうと思った。

 60分じゃ短い。多分、120分でも。


 でもまぁ、良いだろう。

 また会えば。


 時間を告げるアラームを止めた千尋は、もはや元の千尋とは思えないくらい、性的欲求に支配されていて、俺の言葉が届いているかなんて分からなかった。


「ねぇ」

「んー」


 そんな、怠惰な返事。


「明日、会おうよ、ちひろ」

「……んーん。違うよ」

「え?」

「明日も、会おうよ、ユージン」

「はは、そっか。そうだね。大好きだよ、千尋」


 それから、俺達は従業員が時間になっても出てこない俺達にカーテン越しで声をかけてくるまで、ずっとずっと、お互いの気持ちを確かめ続けた。

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