第23話


         ※


 暗闇の中、足掻いていた。四肢を振り回し、必死に上昇を試みる。

 水よりも粘性のある不快な液体の中で、空気を求めて必死に光の差す方へと身体を押し込む。


 だが、光はその位置を刻々と変えていく。どっちに行けばいいのか分からない。

 それでも光を求めて、俺は両手両足をバタつかせる。

 何故だ? 何故こんなことをする? 皮膚感覚はだんだんと失われ、息苦しさも薄まってゆくというのに。


「駄目だ……」


 液体の流入にもかかわらず、俺は呻いた。


「その人を……連れていっちゃ駄目だ……!」


 俺は直感していたのだ。あの光の向こうに、リアン・ガーベラ中尉がいる。彼女を向こう側へ、闇の向こうへ連れて行っては駄目だ。

 何故か? 家族がいるからだ。リール・ガーベラ軍曹。彼女は精神障害を負っている。その病状を安定させるには、リアン中尉の存在が必要不可欠なのだ。


 いいや、それは言い訳だな。本当に中尉のことを必要としているのは、俺の方だ。だからこそ、こうやって両腕を振り回して――両腕?


 自分の四肢が無事であることに、俺はようやく違和感を覚えた。すると、まるでその時機を見計らっていたかのように、左腕が指先から消失し始めた。


「ま、待てっ!」


 俺は今度こそ叫んだ。しかしすぐさま理解が追いつく。

 そうだ。俺は左腕を失ったのだ。死んでいてもおかしくない。ここは、極東の言葉でいうところ『三途の川』か? そこで俺は溺れているのか?

 では、この液体――川の水流の向こうにいるリアン中尉は既に、もう。


 中尉……!


         ※


「リアン中尉‼」


 俺は身を起こそうとして、見事に失敗した。まともに身を起こせなかったのだ。

 普段の俺なら、周囲の状況がよく分かったことだろう。清潔な部屋に、衛生的なベッド。そこに横たえられた俺の身体。五体満足とはいかない。左腕を失った痛みと、それを上回る喪失感は、俺の胸に深く刻まれている。それを現実として、冷静に受け止めていたはずだ。


 しかし、俺は平常心を失っていた。

 ベッドの上でじたばたと全身の筋肉を動かす。しかし、胸部と腰部を押さえつけるように、バンドで身体を固定されている。まるで、俺が暴れるのが見越されていたかのようだ。


「畜生、誰が俺をこんな目に……! 中尉! リアン中尉!」


 俺がリアン中尉の名前を連呼していると、すぐさま視界に人影が飛び込んできた。


「デルタ! 落ち着くんだ、デルタ! 僕だよ、ルイスだよ!」

「中尉……リアン中尉!」

「ルイス伍長、どきたまえ。鎮静剤を注射する」


 ルイスを押し退けるようにして、二人目の人影が視界に入ってくる。

 と同時に、俺は右腕をがっちりと掴まれた。どうやら三人目の人物が俺の自由を奪ったようだ。


「放せ! リアン中尉の無事を確認させろ! 会わせてくれ!」

「急げ、早く鎮静剤を寄越せ!」


 すると間もなく、俺の右腕の上腕部に微かな痛みが走った。と、認識する頃には、俺の意識は急速に混濁し、再びブラックアウトした。


         ※


 次に目が覚めた時、俺はひとまず状況を把握することに努めた。

 まず、四肢。左腕が失われている。こんなにあっさり身体の欠損を認められたのは、やはり少年兵時代から覚悟していたからだろうか。幸い、喪失感もだいぶ薄らいではいる。


 次に気づいたのは、ベッドそばの丸椅子に腰かけ、読書をしている人物がいること。ルイスだ。


「ああ、デルタ。気づいたんだね。痛みは?」

「痛みって……。左腕のことか?」


 しわがれた声が、喉の奥から発せられる。


「そうだよ。幻肢痛とかがなければいいけど」

「痛みどころか、何の感覚もねえよ」


 俺はふーーーっ、と長い溜息をついた。

 気づけば、俺を拘束していたバンドは撤去されている。もう暴れる心配はないと判断されたのか。認めるのは癪だが、確かに今の俺の胸中に暴力性は湧いていなかった。


「俺はどのくらい眠っていたんだ?」

「丸三日。それから、一旦意識が戻った時に鎮静剤を打たれて一日。合計四日間だね」

「そうか」


 と呟いてから、ぞわり、と凍るような冷気が背筋を走った。

 その感覚をなんとか抑えつつ、落ち着いた体を装ってルイスに二つ目の問いを投げる。


「リアン中尉は? 軽い負傷ではなかったはずだが」

「……もう知ってるんじゃないのかい、デルタ」

「教えてくれ」

「もうすぐ医師が診察に来る。その時に訊けば――」

「今すぐ知りたい。お前の知識の方が、俺の記憶より正確だ。どうなんだ、ルイス?」


 するとルイスは、ぱたん、と手にしていた文庫本を閉じた。しかしその視線は、俺の足元あたりに固定されたままでいる。


「……たよ」

「は?」

「僕だって辛いんだ、言い直しをさせないでくれ」

「もう一回、はっきり言ってくれないか」


 するとデルタはポケットから何かを取り出した。窓からの夕焼けの光を受けて、きらり、と輝く。

 無言で放られたそれを、俺は右手だけでキャッチする。


 それは、リアン中尉の認識票だった。

 

「殉職されたよ。ほぼ即死だったそうだ」


 ぽつりと呟くルイス。そんな彼の前で、俺は自分が何を感じ、思い、考えているのかさっぱり分からずにいた。言葉を認識する脳の部分が、突然電源を引っこ抜かれてしまったかのようだ。


 ほぼ即死だった? では、あの口づけは何だったんだ? 『リールをよろしく』という言葉の意味は? 死力を尽くしてリアン中尉が伝えようとした『何か』を、俺は解釈しきれずにいた。


 俺が溜息をつきながら、ぱったりとベッドに倒れ込んだ、その時だった。

 がらり、と個室の扉が開いた。

 誰だ? 警備兵はあっさり通してしまったところからして、それなりの士官なのだろうが。


 さっと立ち上がり、敬礼するルイス。その慇懃な態度を視界の隅に入れつつ、ドアの方を見遣る。そこに立っていたのは、意外な人物だった。

 リール・ガーベラ。リアン中尉の殉職前と同様に、自己中心的な雰囲気を纏っている。


「き、君も敬礼しなよデルタ! 今の彼女は軍曹じゃない、准尉なんだ!」

「それがどうかしたのかよ?」

「偉いんだよ! 軍曹よりも!」

「ああ」


 階級章を見れば分かることではある。だが、俺はまだ頭がぼんやりとして意識を集中できない。薄々感づいていたこととはいえ、ルイスにリアン中尉の死を告げられたからだ。


「あら、デルタ伍長。お目覚め?」

「……はぁ」

「何なのよ『はぁ』って! それが上官に対する態度?」


 その言葉に、俺は意識が一段階明確になるのを感じた。


「リール、お前、唯一の肉親だったお姉さんを亡くしたんだぞ。平気なのか?」

「あなたが敬語を使わないことには目を瞑るとして……どういう意味かしら?」

「家族がいなくなるって、そんなに軽く扱っていい問題なのか」

「ああ、そういえばあなたにはご家族の記憶がなかったんだものね、デルタ伍長。知らなくていいわ。どうせ分からないもの」


 もう一段階、意識の輪郭がはっきりした。リアン中尉の最期の言葉が思い出される。『リールをよろしく』と。

 確かに、俺には家族がいない。だが、あの一言を発したリアン中尉の表情から、『家族として、妹の今後を心配している』ことは痛いほど感じていた。

 それは、『偉くなってほしい』などという低俗な願いのこもった顔つきではなかった。ただただ無事でいてほしいという、切実な祈りだったはずだ。


 それを『どうせ分からない』と一方的に決めつけて、姉の死に涙一滴流さない。俺は意識の輪郭が、べりべりと音を立てて広がっていくのを感じた。

 怒りの炎が燃え盛って、俺の心を焼き尽くしていく。


「お前……。リアン中尉がどれほど思っていたかも知らずに!」


 俺はリールに飛びつこうとして、左腕をベッドについた。と思った瞬間、左側に思いっきり倒れ込んだ。


「ちょっ、デルタ! だ、大丈夫?」

「放せ、ルイス!」

「駄目だ! 上官への反逆罪で軍法会議に送られるぞ!」


 はっとした。ここで俺が戦場から遠ざかれば、リアン中尉の願いを叶えることができなくなる。いや、そもそもここでリールに手を上げたら、彼女の無事を祈った中尉の遺志と相容れない結果を招いてしまう。


 ルイスの力を借りてベッドに戻った俺を、リールはつまらなそうに見つめていた。

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