4. 恋が終わる


「今度の土曜日、何人かで集まってバーベキューするんだけど、よかったら片山かたやまさんも来ない?」


 私が陣内じんない先輩に誘われたのは、十回目の講義が終わったときだった。十二月に入り、すっかり寒くなっている。


「行きます!」

 私は即答していた。


 陣内先輩に恋人がいると知ってショックを受けてから三週間。先輩とは、なんとか普通に接することができている……はずだ。


「じゃあ、連絡先教えて」

 先輩がスマホを出して言った。


 先輩の彼女——小渕こぶちさんの存在を知らないときの私だったら、舞い上がっていただろう。


「はい」

 今でもかなり嬉しい。私はまだ、陣内先輩のことが好きだった。


「じゃあ、また場所とか連絡するね」

「はい。よろしくお願いします」


 笑顔で手を振る陣内先輩に、私は頭を下げる。


 バーベキューか……。学科でもサークルでも、そういったイベントはあまりなかった。もしかすると、私が誘われていないだけなのかもしれないが。


 つまり、バーベキューなどという、いかにも大学生っぽいイベントに出席するのは初めてで、私の胸には不安と期待が同居していた。


 けれど、大学外で陣内先輩と会えるのだと思うと、心が温かくなる。




 その週の土曜日。バーベキューが行われた。


 せめて十人くらいだと思っていた参加者は、二十人近くにも上っていた。陣内先輩の友人が主催していて、何人かがバラバラなコミュニティから色々な人を連れて来ているらしい。


 当然だが、知らない人がたくさんいた。人見知りというほどでもないけれど、社交性が高いわけでもない私は目が回りそうになった。


 そんな私を、陣内先輩がフォローしてくれた。元々優しい性格というのもあるし、私に声をかけたのは自分なのだから、という責任を感じているのかもしれない。おかげで、気の合いそうな女友達もできた。


「片山さん……だっけ? 久しぶり」

 小渕さんも参加していた。当然のように裏表のなさそうな笑顔で話しかけてくる。


「お久しぶりです。小渕さん」

「あら。覚えててくれたんだ。嬉しい!」


「もちろんです!」

 だって、好きな人の彼女ですから。


「どう? 楽しめてる?」

「はい。陣内さんに声をかけていただいたおかげです」


 先輩に誘ってもらったことを強調して、私は言った。小さな反撃。……だったのだが。


「そう。よかった」


 発した言葉以外の意味など何もないかのようにふわりと笑う小渕さんに、自分がどれだけ醜い存在であるかを突きつけられたみたいで、お腹がじわ、と痛んだ。


 夕方の四時半。日は沈みかけていて、気温も下がってきた。

 陣内先輩をはじめ、男性陣が慣れた調子で片づけを済ませる。


 私は友人になった女の子と連絡先を交換し、手を振って別れた。彼女とは、今度一緒にパンケーキを食べに行く約束をしたけれど、社交辞令かもしれない。まあ、どちらでもいいか。


「陣内さん、今日はありがとうございました。楽しかったです!」


 道具を友人の車に積んでいた陣内先輩は、振り返って優しく笑ってくれる。


「それはよかった。ところで、これから僕の家で二次会しようと思うんだけど、片山さんもどう?」


「行きたいです!」

 あまり考えずに返事をしてしまったけれど、私なんかが参加してしまっていいのだろうか……。しかも、先輩の家。


 いや、でも陣内先輩から直々に誘われたわけだし。

 なにより、先輩ともう少し一緒にいたいと思ってしまったのだ。


 やっぱり理由をつけて帰ろうかな。迷ったけれど、結局何も決断できないまま、私は陣内先輩たちの後ろを歩いていた。


 近くのコンビニでお酒とお菓子を購入し、先輩の家へ向かう。


 合計六人。私と陣内先輩と小渕さんと、男性二人に女性一人。まだ名前をちゃんと覚えられていない。


 陣内先輩の家に入るのは緊張した。彼女である小渕さんもいるとはいえ、私はなんとなく、いけないことをしているような気持になった。


 小渕さんはとても優しい人で、私にも笑顔で話しかけてくれる。

 彼女が私の気持ちに気づいているかはわからない。


 もしかすると、気づいていながら、陣内先輩をとられるようなこともないだろうと思われているのかもしれない。それはおそらく正しい。


 陣内先輩は、小渕さんのことが大好きだ。誰が見てもわかる。


 先輩が小渕さんに向ける顔は、他の誰に向ける顔とも違うのだ。




 二次会と称された宅飲みが始まった。


 私以外の五人は互いに面識があり、私だけがちょっと浮いているような感じだった。最初の方は色々と質問をされて緊張したけれど、すぐに、とても話しやすい人たちだと気づいた。さすが陣内先輩の知り合いだ。類は友を呼ぶらしい。


 私たちは中身のない話で盛り上がった。たまに出てくる身内ネタも、私にもわかるように話してくれた。


 お菓子と飲み物が少なくなってきた。


「何か追加で買って来ようか?」

 小渕さんではない方の女性が言った。


「そうだね。行こっか」

 小渕さんも立ち上がる。


「じゃ、俺も行くわ。ほら、お前も」

 と、男性二人もそれに続いた。


「さくら、これ」

 陣内さんは自分の財布からお札を一枚抜き出して、小渕さんに差し出した。


「いいよいいよ。この前ラーメンおごってもらったし。夜空よぞらくんは梅酒でいい?」

 小渕さんは笑顔で言う。

「うん。サンキュ」


 二人の仲の良い会話を聞いて、胸の奥がきゅっと軋んだ。


「僕は部屋で待ってるけど、片山さんは行く?」


「あ……えっと、私も待ってます」

 少し考えて、私はそう答えた。


 小渕さんたちが買い物に出かけた。

 部屋に残っているのは、私と陣内先輩だけだった。


「先輩は、小渕さんのどういうところを好きになったんですか?」


 陣内先輩と二人きりになった部屋で、私は問いかける。

 普段の私だったら絶対にしないような、踏み込んだ質問だと思う。


「片山さん、いきなりどうしたの? 酔ってる?」


 先輩は困ったように答える。小渕さんのことが大好きなんだと、その照れた表情が、言葉よりも雄弁に語っていた。


 私が入る隙間なんて、一ピコメートルもないのだと、改めて思い知らされる。


「いえ。酔ってません。そもそもお酒、飲んでないですし。未成年ですし」


 決定的な出来事があったわけではない。

 今まで溜めこんできたの先輩への気持ちが、心の許容量を超えて、溢れそうになっているだけだ。


「陣内さん」


 無防備な陣内先輩の肩に両手を置いて。


「え?」


 私は先輩を床に押し倒した。


「油断しすぎですよ」


 床に押し倒した先輩の顔に、私の顔を近づける。


 陣内先輩は呆気にとられた表情だ。


 今までにないくらい近い。

 あと数センチ動けば、お互いの唇が触れてしまう距離。


 もし、もしも。

 先輩がキスしてきたらどうしよう。

 何も考えていなかった。


 けれど、されたらされたで、いいか。

 行動も思考も大胆になっている自分に驚いていた。


 もう、止まれない。


「片山……さん?」


 先輩は怒ったりせず、ただただ困惑している様子だ。


 じっと見つめ合う。時間が止まったみたいだった。


 実際のところは三秒程度だったと思う。


 私はおもむろに体を起こした。


「ふふ。もう少しで、浮気になっちゃうところでしたね」


「やっぱり、酔ってる?」


 陣内先輩も体を起こして座り直す。どこかほっとした様子だ。


「いえ。酔ってません。お酒、飲んでないですし」


「だったら、どうして……あんなこと」


「どうしてか、聞きたいですか?」


 どうして私があんなことをしたのか、きっと、陣内先輩もわかっていると思う。

 先輩は人より少し距離感が近いけれど、決して鈍感というわけではない。


 陣内先輩はどう答えればいいのかわからない様子で、戸惑っている。


 私は先輩を真っ直ぐに見つめたまま、先輩は視線をテーブルの空いたグラスに落としたまま、その場は静寂に支配される。


 時計の音だけが響く、好きな人の部屋。


 先ほどの出来事が脳内で再生される。


 至近距離で見つめた先輩の澄んだ目。感じた吐息。うるさいくらいに鳴っていたのは、どちらの心臓の音だったのだろう。


「ごめんなさい。ちょっと……いたずらのつもりというか……。気にしないでください」


 今になって、恥ずかしさがこみあげてきた。恋人がいる男性を押し倒して、キスをしようとした。


 私は何をしているのだろう。どう考えても、人として最低でしかなかった。


「あ、うん。大丈夫」

 先輩は、静かに答えた。


 何が大丈夫なのだろうか。別に、私に押し倒されても、なんとも思わなかったということだろうか。


 もしもそうだとしたら、それはとても残酷な答えだ。


 先輩がどんな表情をしているか知りたかったけれど、とても目を合わせることなんてできない。


「やっぱり、酔ってるかもしれないので、もう帰ります。おやすみなさい」


 私は一気に言って立ち上がり、小走りで玄関までたどり着く。


「待って。外、暗くて危ないよ!」


 靴を履いていると、背後から陣内先輩が慌てて駆け寄って来た。


 先輩が心配してくれていることに、嬉しさを感じつつも、それは私だから心配しているわけではないと、心の冷静な部分では理解する。


 きっと、私じゃなくても、先輩は同じことを言うだろう。


「大丈夫です! 私の家、ここから近いので!」


 叫ぶようにして、陣内先輩の家を飛び出した。


 私は歩く。できるだけ、何も考えずに。


 今ここにあるのは、冬の夜の冷たい空気と、行き場のない静寂だけ。


 時間を確認しようと、ポケットからスマホを取り出す。

 陣内先輩から、メッセージが届いていた。


〈片山さんの気持ちには応えられない。ごめんなさい。もし、何言ってんだこいつって思ったら、スルーしてください〉


 律義だ。思わず、頬が緩んでしまう。


 恋人がいるから、という理由がついていないのも、すごくいいなと思った。


 私はたぶん、先輩のそういうところを好きになった。


〈あと、無事に家に着いたら教えてください〉


「お母さんか」

 追加で届いたメッセージに、私は苦笑してしまう。


 例えば。もしも先輩が軽薄な人だったら。そして、私も彼の恋人になれとしたら。

 私の恋心は一瞬で蒸発するのかもしれない。


 こんなにもままならない恋があるのかと、私はおかしくなった。


 もし、先輩が小渕さんと付き合う前に、私が先輩のことを好きになっていたとしたら。

 そのときは、私にも可能性はあったのだろうか。


 そんな意味のない妄想をしてしまうくらいには、今の私は弱っていた。


 日付が変わろうとしている深夜。私はみっともなく泣きながら、自宅への道を歩く。


 この涙が一緒に、陣内先輩への恋心も流し去ってくれればいいのに。


 わかっていたことだけど、やっぱり、私の恋は叶いそうになかった。


 だから私は、この恋をしっかり終わらせなくてはならない。

 明日からまた、生きていくために。


 まずは、次の火曜日の講義で、普段通りにあいさつをする練習をしよう。

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90分だけ、彼の隣 蒼山皆水 @aoyama

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