3. 先輩の彼女
だいたい半分の、七回目の講義。シラバスにも記載してある通り、課題が出された。
文字数が三千字程度とかなり多いうえに、提出期限が来週というのもなかなかきつい。他の講義で課題が出ていないことが、せめてもの救いだった。
「
講義が終わると、
「はっ、はい。昼休みは特に予定もありませんし、三限も空きコマです」
どういう意図の質問なのだろう。淡い期待を胸に抱き、私は答える。三限のことまで言う必要はなかったかもしれない。
「よかったら、一緒に課題やらない?」
「ぜひ!」
願ってもない誘いだった。
私たちは図書室に移動した。
大学の図書室は、高校までの図書室とは全然違い、専門書が大量に並んでいる。自分の専門外の棚に並ぶ背表紙を見ても、何がなんだかさっぱりわからない。一周回って楽しささえ感じるほどだ。
椅子と机もたくさん設置されていて、勉強などができる学習スペースになっている。
学生たちは、本のページをめくりながら課題と格闘していたり、パソコンのキーボードを一心不乱に叩いていたり、気持ちよさそうに寝ていたりする。
私と陣内先輩も参考文献になりそうな本を持ち出して、学習スペースに座る。
「じゃあ、始めよっか」
陣内先輩が、声のボリュームを二段階くらい落として言う。ささやくような声も素敵だ。なんだかドキドキしてしまう。
「はい」
私たちはノートパソコンを机に広げる。
理系である先輩はいつも持ち歩いているのだろうが、私がパソコンを持ってきていたのはまったくの偶然だ。空きコマに動画サイトでも見ていようと思っていたのだが、思わぬ形で幸運へとつながった。
いつもは隣に座っていた先輩が、真正面にいる。
しかも、眼鏡をかけている。似合いそうだという私の勘は当たっていたらしく、黒縁のパソコン用らしきメガネは、陣内先輩を五倍くらい魅力的にしていた。
真剣な顔でディスプレイと向き合っている先輩を、ずっと見ていたかった。
二人で課題を進める。一時間くらいが経過して昼休みが終わり、お腹が空いてきたころ。
「ふぅ。だいぶいい感じに進んだかな」
陣内先輩がパソコンを閉じた。
「片山さんはどんな感じ?」
「私もかなり進みました。あと最後の方だけ書いて、見直せば終わりそうです」
「それはよかった。でも早いね。僕はまだ半分くらいしか書けてないよ」
「参考資料、ちゃんと読まれてましたもんね。きっと、高い評価がもらえるんじゃないですか? それに、半分書ければもうすぐですよ」
私たちは小声で会話をした。内緒話みたいで、なんだかドキドキする。
「そうだといいんだけどね。というか片山さん、今さらだけど、誘っちゃって迷惑じゃなかった?」
「いつもこういう課題はギリギリになっちゃうんで、本当に助かりました。ありがとうございました」
「いや、こちらこそ。一人だとついだらけちゃうから、今日みたいに監視してくれる人がいるとすごくありがたいんだよね」
先輩が微笑みを私に向けてきた。充足感で満たされる。
いや、落ち着け。一緒に課題をしただけだ。
「監視って。面白い表現ですね。あ、あの――」
私が勇気を出して、よければ、これから一緒にご飯でもどうですか? と、言おうとしたそのときだった。
「
綺麗な女性が、陣内先輩の隣に現れた。
猫を連想させるような、ぱっちりとした二重の瞳。すっと通った鼻梁。白くて綺麗な肌。
紺のブラウスに、黄色のカーディガンを羽織っている。花柄のスカートからすらりと伸びる足は、細くて羨ましい。
決して派手ではないけれど、凛としたタイプの美しさがあって、ファッション誌から抜け出してきました、という感じの人だった。
そして、陣内先輩のことを、親し気にファーストネームで呼ぶその女性は、きっと恋人なのだろう。
私は直感的にそれがわかってしまった。そして同時に、完膚なきまでに敗けた、とも思った。
「紹介するよ。彼女のさくら」
陣内先輩は、はにかみながら恋人を紹介した。
「
小渕さんはとても自然体で、余裕のある口調で、大人っぽい表情で言う。彼氏が他の女と二人きりで課題レポートに興じているにもかかわらず。
ああ、もう少し私が綺麗だったりお洒落だったりしたら、小渕さんはもっと焦るのだろうか。そんなことを考えてしまう。
「あ、いえ……。私の方こそお世話になってるといいますか……」
一方の私は、動揺していてうまく喋れない。
陣内先輩の方をちらりと見る。彼の視線は小渕さんに向けられていて、その視線だけで、彼女のことを大事に思っているのだろうということがわかってしまった。
どうして、気を持たせるようなことをしたのだろう。舞い上がっていた私がバカみたいじゃないか。
けれどよく考えれば、陣内さんは同じ講義をとっている私に、課題を一緒にしようと持ち掛けただけ。
これがもし、二人で映画でも観に行かない? とかなら、それはなんだかデートっぽいけれど、映画じゃなくてお勉強なのだ。
たぶん、陣内先輩はただ単に、普通の人よりもちょっと距離感が近いというだけで。
私が感じているような、異性として気になる気持ちなんて、少しも持ち合わせていなかったのだろう。
「じゃあ、そろそろ行こうか」
陣内先輩は小渕さんに向かって言った。
二人はこれから昼食を食べに行くみたいだ。ちょっと高めのレストランでパスタを食べる二人も、コンビニでおにぎりを買って公園で食べる二人も、想像すればそれはとてもお似合いで。
陣内先輩と小渕さんは、自然体な、素敵なカップルだった。
「あ、そうだ」と、小渕さんが私の方を振り返る。「片山さんも、お昼はまだだよね?」
「はい。まだです」
私は答える。
「私たち、これからお昼ご飯食べに行くんだけど、よかったら一緒にどう? いいよね」
「うん。課題にも付き合ってもらったし、お礼におごるよ」
陣内先輩もうなずく。
「いえ。私も、友達と一緒に食べる予定があるので……」
お邪魔になりますし、なんて言ったら、全然邪魔じゃないよ、なんて気を遣わせてしまうことが予想できたので、私は嘘をついて断った。
私は食堂で、一人で昼食をとっていた。
悔しかった。
陣内先輩に恋人がいたこともそうだし、その恋人である小渕さんにお昼ご飯に誘われたことも。
小渕さんは、私が陣内先輩と二人でいたことに対して、何も感じていないみたいだった。
普通は、彼氏が別の女の人と一緒にいたら、怒ったり、機嫌が悪くなったりするのではないか。
陣内先輩は、私のことを異性としてなんとも思っていない。小渕さんはそういうふうに考えているのだろうし、きっと実際にそうなのだろう。
別に小渕さんが嫌いなわけではない。むしろ、綺麗で優しくて、ふわふわした雰囲気だけど、しっかり芯は持っていそうなところが、とても素敵だと思う。
ちょっと抜けているところのある陣内先輩のことを、ちゃんと支えてあげられるような人だと思う。
ときには逆に、甘えたりもするのだろうか。その様子も、簡単に想像できてしまう。ああ、本当にお似合いの二人だ。
劣等感に押しつぶされそうになる。
好きになった人には、彼女がいた。
つまり私は、失恋したという状況下に置かれていると、一般的に考えることができる。
けれど、私の中で、私の恋は終わってはいなかった。
私はまだ、陣内先輩のことが好きで、陣内先輩に好きになってもらいたいと思っていた。
いつの間にか、陣内先輩のことを、こんなに好きになってしまっていた。
もし、もっと前に恋人がいると知っていたら、そこでブレーキを踏んでいたと思う。でも、それを知らずにアクセルを踏み続けた私は、もうブレーキなんて効かないくらいに、スピードを出して恋に落ちてしまっていたのだ。
陣内先輩には、素敵な恋人がいる。
先輩は小渕さんのことが好きで、小渕さんも先輩のことが好きなのだろう。
でも、私だって陣内先輩のことが好きだ。
例えば、小渕さんに隠れて、メッセージのやり取りをしてみたり、一緒に遊びに行ってみたりして……。
そのうち、先輩は私のことを好きになってくれて……。
そんなことを自分が考えるなんて、少し前だったら想像もできなかった。
けれど私の好きな先輩は、そういうことをしない人だ。嘘が苦手そうな、誠実そうなところも含めて、私は先輩のことが好きになったのだから。
それに、私なんかでは、どうあがいても小渕さんに勝てそうにない。
では、大人しく身を引くべきなのか。それとも、フラれることをわかったうえで気持ちを伝えるべきなのか。そんなこと、恋愛経験値の乏しい私には全然わからなかった。
ただ一つわかるのは、私が陣内先輩のことを、どうしようもなく好きだということだけだった。
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