2. 先輩


 講義ごとに出席の取り方は異なる。環境科学の講義では、出席カードという、学籍番号と名前を書いて提出する紙を使う。講義の最初に配られ、講義の最後に提出するものだ。


 一般的な大学の講義において、出席数は単位に大きく影響する。けれど、講義に出るのは面倒くさい。


 そんな学生は、知恵を絞って講義に出ずに出席を勝ち取ろうとする。その知恵と労力を勉強に回せばいいのに、などと中途半端に真面目な私は思ってしまうのだが、どうも学生というものは遊びたがる人が大半らしい。


 代返というのが代表的な方法だが、出席カードでも、最初にもらったものを提出せずにコピーする、という手法が存在する。


 教授の方も、ただではやられるものかと言わんばかりに、週ごとに出席カードの色を変えてきたり、座る席を指定したり、はたまた、そういったことが面倒になったのか、出欠を取らずにレポートとテストだけで成績をつけたりする。


 配られた出席カードに名前を記入しながら、横目で隣の席を見る。

 静電気の彼も、私と同じようにカードに名前を記入しているところだった。


 彼は記入が終わったカードを、机の左の方に置く。

 本人にばれないように、眼球だけを動かしてその出席カードを見る。


 陣内夜空。


 男性にしては少し控えめな文字が、綺麗にバランスよく並んでいた。


 じんない、よぞらさん。


 とても素敵な名前だと思った。常識から逸脱していなければ、どんな名前でもそう思っただろうけど。


 学籍番号を見ると、二年生だということがわかった。


 陣内夜空先輩は、背筋を伸ばして教授の話を聞いていた。


 二回目の講義が終わり、陣内先輩が教室を出て行く。

 今回も特に会話はなかった。でも、きっと来週も同じ席に座ってくるはずだ。講義はまだ、十回以上ある。




 三回目の講義で、私は陣内先輩と初めて会話らしい会話をした。


 いつもよりも少し早めに彼が隣に座った。講義が始まるまで、まだ少し時間がある。


 お互いに軽く頭を下げてから。

「おはようございます」

 私は勇気を出してあいさつをした。


「おはようございます」

 彼の方も笑顔であいさつを返してくれる。爽やかさがすごい。


 そしてなんと、彼の方から話しかけてきてくれた。

「あの、学部はどこなんですか?」


「私は、文学部です」

 緊張しながら答える。

「へぇ。珍しいですね。理系の科目なのに」


「まあ。そうですね。数学とか理科も結構好きなので。えっと、陣内さんは、学部は……」

 曖昧に答えつつ、同じような質問をしてみる。


「あれ、どうして僕の名前を?」

 ……やってしまった。熱くなっていた顔が、さらに熱を帯びる。


「あっ、いえ。ただ、その……この前ですね、出席カードが見えてしまいまして……それで」


 それで、覚えました。という部分を省略して、言い訳がましく白状する。これで私も立派なストーカー予備軍だ。


 しかし、陣内先輩は嬉しそうに笑った。

「へぇ。記憶力すごいですね。えっと……」


「あ、片山かたやま美羽みはねです」

 

 そうか。陣内先輩は私の名前を知らないのか。などと当たり前のことを思いつつ、私は名乗る。


「片山さん……ですね。僕は理工学部です。よろしくお願いします」

「いえ。こちらこそ」


 理工学部なんですか。とても似合ってますね。イメージ通りです。という台詞は、そっと飲み下した。


 それから、私たちは授業の前後で小さな会話をするようになった。


 けれどそれは、講義が始まる前や、講義が終わって教室を出て行く支度をする間の、短い時間のこと。あくまで二、三分。よくて五分だ。


 四回目の講義後。


「陣内さんってサークルとか入ってるんですか?」

 私は尋ねた。


「一応、フットサルのサークルに所属はしてるよ。幽霊部員だけどね」

 私が年下だとわかって敬語のとれた陣内先輩は、少し恥ずかしそうに言った。


「片山さんは、サークルとかは?」


「私は軽音のサークルに入ってます。ギターを始めてみたんですけど、なかなか上達しなくて、ちゃんと演奏できるのはまだ先になりそうです」


 なんとなく、大学っぽいサークルに入ってみたかったという憧れがあった。テニスサークルが浮かんだけれど、残念ながら運動は苦手だったので、文化系のサークルを選んだ。


「そうなんだ。上手くなるといいね。じゃ、また来週」

「はい。また。お疲れ様です」


 六回目の講義前。


「あ、片山さん。髪切った?」

「はい。先週末に」


 長さ自体はあまり変わっていないはずだったので、気づいてもらったことが嬉しいのと同時に、少し驚いた。


「似合ってるね」

 優しく微笑む陣内先輩。胸がきゅうっとなる。


「あ、ありがとうございます」


 そういった陣内先輩との小さな会話を、脳内で再生して幸福感を得る。


 これはもう、完全に恋だった。


 一週間に一度の環境科学の講義。私は陣内先輩の隣にいるだけで、会話をするだけで幸せだったのだけれど。


 人間というのは非常に愚かな生き物で、恋というのは酷く厄介な感情だ。満たされてしまうと、より多くを望んでしまう。


 学科の友人と昼食を食べているとき。湯船につかっているとき。ドラッグストアのアルバイト中、仕事がなくて暇なとき。朝早く目が覚めてボーっとしているとき。


 私はつい、陣内先輩のことを考えてしまう。


 彼は今、何をしているのだろうか。


 実験が大変だと言うようなことをぼやいていたから、必死でレポートを書いているかもしれない。


 最近買ったゲームがとても面白いとも言っていたので、徹夜でゲームをしているかもしれない。


 そういうふうに、先輩のことを考えていると、どうしようもなく会いたくなってしまう。


 せめて声だけでも聴きたいなどと思ったところで、陣内先輩の連絡先を私は知らない。まあ、知っていたとしても、連絡をためらって数時間が過ぎることは目に見えているが。


 火曜日の二限になれば、私は陣内先輩に会える。九十分間、先輩の隣にいることができるのだ。


 先輩にとって私は、同じ講義を受けているだけの、ただの後輩なのだけれど。

 今はただ、火曜日が待ち遠しい。


 静電気から、私の恋は始まった。

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