90分だけ、彼の隣

蒼山皆水

1. 静電気


 私——片山かたやま美羽みはねには、気になっている男の人がいる。


 背は少し高めで、やせ型で、穏やかで優しそうだけど、ちょっぴり頼りないようにも見える、どこにでもいそうな人だ。


 メガネが似合いそうだけど、かけていない。寝ぐせなのか、セットしているのかわからないふわっとした髪型。


 IT企業に勤めていそうな雰囲気を醸し出している。私の知り合いに、IT企業に勤めている人なんていないけど。


 学部も学年も、名前すらも知らない。


 初めて会ったのは、私が通う大学のキャンパス内だ。


 一目ぼれというほどではなかった。すれ違ったとき、あ、素敵な雰囲気の人だな、なんかいいな、と思っただけだった。


 小説などではよく、一目ぼれのことを『体に電撃が走った』なんて表現するけれど、私のそれは静電気くらいだった。


 あ、素敵な雰囲気の人だな、なんかいいな。


 中学のときの生徒会長にも、高校のときのクラスメイトにも、同じような印象を抱いていたことを思い出す。そのどちらも、恋には発展しなかったし、今では顔もちゃんと思い出せないけれど。


 それからも、静電気の彼とは同じ場所で何度かすれ違った。おそらく、受講している講義の関係で、決まった時間帯にお互いにそこを通るのだろう。


 運命でもなんでもない。ただの偶然だ。


 向こうはこちらに気づいていない。私が勝手に意識しているだけだ。気づいてほしいとは思わないし、話しかけようとも思わない。今回も、私のこの気持ちは恋にならずに終わるのだろう。


 というのが、大学一年生の私の前期の話。


 長い夏休みを経て、彼の存在は私の頭の中から綺麗さっぱり消えていた。




 秋。私は静電気の彼と、再会を果たすことになる。


 大学の後期のカリキュラムが始まった。

 火曜日の二限にある、環境科学という一般教養の講義を、私は受講していた。


 一限がなかったため、少し早めに教室に到着し、窓際の真ん中あたりの席を確保していた。今日の講義が初回だったので、印刷してきたシラバスを念入りに読む。


 最低限出席してレポートを出せば単位が取れるような、学生に人気の講義とは違い、最後に実施されるテストが成績に大きく影響するという評価基準。


 どうやらなかなか厳しめのようだ。興味本位でとった講義で、今のところ過去問などの情報もない。大丈夫だろうか。まあ、落としたら落としたで、別にいいかな。


 私がシラバスを眺めながらそんなことを考えていると、

「ここ、空いてます?」

 斜め後ろ上方から声を掛けられた。


「あ、はい」

 見上げて、心臓が止まるかと思った。


「僕の顔に何かついてますか?」

「あ、いえ。なんでもないです」


 全然なんでもなくない。初めて見たときよりも強めの静電気が、体に流れた。


「じゃあ、お邪魔します」

 双子かドッペルゲンガーでなければ、微笑んで私の隣に座ったのは、もう接点なんてないと思っていた彼だった。


 教授を待つ間も、教授が来て講義の説明をしているときも、私の心臓はバクバクと音を立てて激しく脈打っていた。


 講義が実際に始まったころにはある程度落ち着いていたけれど、それなりにそわそわしていた。


 いったん落ち着こうと思い、周囲を観察する。

 環境科学ということもあり、ほとんどが理系の学生らしい。八割が男子だ。


 理系の学生は直角を測るためにチェックのシャツを着ている、というようなジョークを聞いたことがあった。実際に多くの人がチェックシャツを着ている光景を見ると、もしかして本当なのかもしれないと思えてくる。そんなわけがないのだけれど。


 ざっと見た感じでは、この講義に学科の知り合いは一人もいない。というのも当然だろう。私は文学部の哲学科だ。


 卒業のためには一般教養で指定された単位数を取らなくてはならないが、数ある講義の中から自由に選択をすることができる。わざわざ難しそうな理系の科目を選ぶような学生なんて普通はいない。


 理系科目が得意な人間が理系なら、理系科目が苦手な人間が文系なのである。

 私は哲学に興味があって文学部に入ったものの、理系の科目も嫌いではなかった。異端児である。


 この環境科学の講義も、単純に興味があったから選択しただけだ。快適で持続可能な社会の構築を目指す、だなんて、なんだか格好いいじゃないか。


 必修科目でもないし、もし無理でも別の講義で単位はカバーできるから問題はない。そんな軽い気持ちで受講を決めたはずだったのに……。


 その選択が、こんな偶然を生むなんて、思ってもみなかった。


 右隣に座る静電気の彼を視界の端で捉えつつ、教授の話に耳を傾ける。なかなか集中できない。彼は真剣な表情で前を見ているかと思えば、時折眠そうにあくびをする。


 運命だなんて浮かれるほど、私は愚かではない。


 けれど、彼と再会できたという嬉しさは、たしかに私の中にあった。


 半年で少し慣れたと思っていたけれど、九十分はやはり長い。

 途中で要領よく小休止をはさみつつ、教授や講師の説明の中で大事なポイントを逃さずに聞き取る技術が必要になってくる。


 環境科学を担当する教授は、板書が少ないタイプらしい。スライドを使って講義を進めていく。スピードは速いが、説明はわかりやすいため、理系の知識に乏しい私でもどうにか理解はできる。


 講義が終わって、私はゆっくりと息を吐く。未知の用語や概念を長時間浴び続けて、知恵熱が出そうだった。


 教授が教室から退出し、ざわざわと話し声が聞こえ出す。

 隣の彼は、荷物を片付けて教室を出て行こうとしていた。

 思わず何か言おうと口を開きかけたが、言葉は出てこなかった。


 当たり前だ。何を言えばいい? 私はまだ、彼の名前も知らない。そもそも彼にとって私は、隣に座っていただけの初対面の女子だ。来年には二十歳になる自分のことを女子と言っていいのかはともかく。


 けれど……来週の講義でも、今日みたいに彼が隣に座ってくるとは限らない。そもそも、来週も講義に出席するという保証すらない。


 これが最後のチャンスなのかもしれない。


 チャンスって、なんの? 彼にお近づきになるチャンス? お近づきになってどうする? 私は、彼とどうなりたいのだろう。


 そんなことを考えている間に、彼の姿は見えなくなっていた。


「はぁ……」

 私は小さくため息をついて、筆記用具を片付け始める。


 いつもそうだ。私には決断力がない。


 ものごとを慎重に考えられると言えば聞こえはいいが、それはつまり優柔不断なだけであって、しかも迷った末に下した決断を後悔することも少なくない。


 やっぱり話しかけておけばよかった。

 そんなモヤモヤは、一週間続いた。


 どうして勇気を出さなかったのかと過去の自分を責めるけれど、じゃあなんて話しかければよかったのだと反論されると、今の私は何も言えない。


 そもそも、自分から積極的に人とかかわるのはあまり得意ではなかった。

 それは異性に対してはもちろん、同性に対してもそうだ。


 今までは、同じタイプの人といつの間にか仲良くなっていたり、良い意味で馴れ馴れしくしてもらったりしていた。一歩間違えれば、ぼっちになっていたと思う。


 恋愛経験もほとんどない。

 中学生のとき、仲の良かった男子に交際を申し込まれて付き合うことになったが、三ヶ月くらいで自然消滅した。


 それ以降も告白されることは何度かあったが、なんとなく前向きに考えられずに、すべて断ってしまっていた。


 いいなと思える人がいなかったわけではないけれど、一歩踏み出すことが億劫だった。私の恋愛に対する積極性はその程度だった。

 三十歳くらいになったときに後悔しそうだな、などと思う。


 というように、生きることがまあまあ下手くそな私が、名前すら知らない男の人に話しかけるなんて、世界がひっくり返ってもできないと思う。


 だから、あのとき話しかけられなかったのは仕方がない。そう言い聞かせてみたけれど、納得できない自分もいて……。


 つまり私は、世界をひっくり返してみたくもなっていた。




 幸運にも、その次の週の講義でも、彼は隣に座ってきた。


 高校までと違い、講義を受ける席は指定されていないけれど、学生はだいたい同じような場所に座る。野良猫の縄張りみたいだな、なんて、失礼なことを考えてしまう。


 私が同じ席に座っていると、彼も同じように隣に座ってきた。

 ペコリ、と頭を軽く下げて微笑む彼。私も同じように会釈する。


 胸が高鳴った。


 どうやら、私は彼に認識されたらしい。

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