【三二一《未来への激動》:一】

【未来への激動】


「うん。私、高校の頃に石川くんと知り合いだったみたい。それで、昔の私と彼氏に酷いことをしたらしいの。……うん、確かに私は昔の石川くんを知らないし、石川くんにされたことも知らない。でも……私は彼を信じてる。だから、石川くんが一緒に居る時は行けない」


 目を開くと、薄暗い部屋で窓際に立つ凛恋が見えた。

 右手にスマートフォンを持ち左手をカーテンに添えて話をしていた凛恋は、スマートフォンを持った右手を下ろして振り返る。


「凡人くん、おはよう」

「凛恋……」


 俺の眠るベッドに戻って来た凛恋は、寝起きの俺の頬へキスをしてから優しく俺を抱き締めて笑う。


「起きたらお昼過ぎちゃってた」

「え? ――ッ! ごめんッ! 寝過ごし――」

「私もさっきまで寝てたし大丈夫だよ。予定変更。もう少し部屋でゆっくりしてから観光に出よう。……私ももう少し凡人くんとこうしてたい」


 布団に入った凛恋が俺の頭を撫でてキスをする。


「今日は京都でお買い物しながらブラブラしない?」

「そうだな」


 京都にしかない世界文化遺産を巡るデートもデートだが、京都にしかない店を回って買い物をするのもデートだ。それに、そういうデートが一番俺達らしい。


「ご飯どうする?」

「せっかくだし外で食べよう」

「うん。……凡人くん」

「ん?」

「怒らないで聞いてね」

「なんだ?」


 不穏な前置きをした凛恋は、俺を強く抱きしめ震えた声で言った。


「私、実は凡人くんと会えない二週間で、凡人くんに会ったら別れようって考えてたの」

「凛恋……」

「凡人くんは毎日大変なのに、私のせいで余計に苦労を掛けてる。だから、私が凡人くんと別れたら凡人くんは楽になれるって思ったの」

「そんな訳ないだろ。俺は凛恋が居ないとダメなんだ」

「今はそんなこと思ってないよ。別れることじゃなくて、どうやったら凡人くんと一緒に居られるかを考えてる」

「思い直してくれて良かった。俺、凛恋が居ないとダメなんだ」

「うん。私も凡人くんが居ないとダメ。凡人くんともし別れてたら、絶対に私は一生独身だよ。凡人くん以上に格好良くて優しい人なんてこの世に居ないもん」


 ムギュムギュと胸を押し付けながら、凛恋はニコニコ笑う。


「ねえ、凡人くん」

「ん?」

「もうお昼過ぎてるし、今からお昼食べてると夕飯食べれなくなるでしょ?」

「まあ、軽めに食べれば良いんじゃないか?」


 確かに今、がっつり昼飯を食べてしまったら夜は更に遅くするか少なくするしかない。でも、軽く喫茶店で食べるとかすれば、そんなに影響はないと思う。


「も~っ」

「も~? もーって、どうしたんだよ」

「凡人くん」

「ん?」

「私、凡人くんともっといちゃいちゃしたいです」


 いきなり敬語で言う凛恋は、またキスをして俺の体に触れながら見つめる。


「私、凡人くんが旅行に行こうって言ってくれた時、旅行に行ける嬉しさよりも、凡人くんと一緒に居られる嬉しさが大きかった。…………ねえ、凡人くん」

「ん?」

「私って可愛いの?」

「は? 可愛いに決まってるだろ。凛恋は世界一可愛い!」

「筑摩さんより?」


「もちろんだって。信じてく――」

「信じてるよ? でも、ちょっとだけ優越感が欲しかったって言うか。私が凡人くんに愛されてるってことを感じたかったって言うか」

「そんなことしなくても、俺は凛恋のこと」

「じゃあ、キスしてくれる?」


 凛恋に可愛らしく強請られて、軽く唇を重ねる。すると、凛恋は唇を尖らせて拗ねた顔をした。


「え~、短いよ~。…………もっとエッチなキスしよ」


 凛恋から唇を重ねてくれて、布団の中で俺の上に乗っかってくる。そして、俺のシャツに手を掛けた。


「凛恋? 昼飯を――」

「お昼より、凡人くんと一緒に居られる時間の方が大切なの」


 首筋に凛恋の唇が触れて、手を俺の体に触れさせる凛恋が耳元でクスッと笑った。


「やっとその気になってくれた」

「し、仕方ないだろ。なんか、今日の凛恋、いつもよりエロいし……」

「だって、一昨日も昨日も凄く幸せだったんだもん。だから、もっと幸せを感じたいって思っちゃったの。ダメ?」

「ダメじゃない」


 凛恋とベッドで抱き合うと、凛恋がホッと息を吐いて俺に身を委ねる。

 京都まで来て、良い旅館の部屋で凛恋とまったりする。そんな贅沢な日の使い方が出来ることが幸せだ。


 どこか観光地に行くのも良い。それも立派なデートだ。でも、どこかへ行くことだけがデートじゃない。大事なのは、一緒に過ごす時間で何を感じ合って何を考え合って何を想い合うかだ。




 一日の半分以上を旅館でまったり過ごし、外で夕食を済ませてから凛恋が行きたい場所へ向かう。ただ、どこへ行くかは教えてもらっていない。

 タクシーだと行き先が分かるからと、俺は凛恋と目的地までバスに乗っている。

 もう二日目も終わってしまう。凛恋と一緒に居られるのはあと一日しかない。


 来週になればまた会える。でも、この連休の後、一週間に一日か二日しか会えない日々がいつまで続くか分からない。

 世の中には、俺達より長い期間会えない遠距離恋愛をしている人達も居る。そういう人達と比べれば――なんてことはもう何度も考えた。でも……どうしても、他の人達が出来ているから自分達も出来るはずだと思ってみても、結局俺は凛恋と会えないことが苦しい。


 テレビで凛恋が他の男と映っているのを見た時、不安だった。凛恋が浮気なんてするはずないと信じていたけど、凛恋くらい可愛い女性に誰も言い寄らないなんてあり得ないと思った。それに、もしテレビを見た時に、凛恋と一緒に映っている男が石川と分かっていたら、俺は全てを投げ出して地元に帰っていたかもしれない。

 バスから降りた凛恋は、俺の手を引いて人混みの中を歩いて行く。


「凡人くんと行きたかった場所は醍醐寺(だいごじ)。ここの夜間拝観に行きたかったの。行こ!」

「でも、夜間拝観は予約が必要だって」

「大丈夫。京都に来る時の新幹線で予約したから」


 入り口にある看板を見て心配した俺に笑い掛けて、凛恋は入場手続きを済ませて中に入って行く。

 薄暗い参道には、淡い光のライトが足元に設置されていて、明かりに照らされる木々が幻想的な雰囲気を作り出していた。


「私ね、凡人くんが居なかったら、今こうやって外を歩けてない」

「そんなことない。凛恋はリハビリをちゃんと頑張ってたんだから、俺が居なくても退院出来た」

「私がリハビリを頑張れたのは、凡人くんと色んな場所に行きたいって思えたから。凡人くんといっぱい色んなところに行って色んなことしたいって思えたから、私は頑張れたの。それで、今、凡人くんと沢山の時間を過ごせてて嬉しい」

「そうだとしても、頑張ったのは凛恋だ。だから、凛恋の頑張りのお陰で俺も凛恋と楽しい時間を過ごせてる。ありがとう」


「もー……じゃあ、今幸せなのは私達二人の頑張りのお陰、それなら良い?」

「ああ。二人のお陰だな」

「凡人くんって本当にすごーく恥ずかしがり屋。褒められるとすぐに、自分は何もやってないよーって顔する」

「凛恋が退院したのは本当に、凛恋の頑張りがあったからだろ」


 俺は首を横に振って、暗い参道をゆっくり歩き出す。

 凛恋は生死の境から戻って来てくれた。そして、今は通院の必要もなくちゃんと自分の足で歩けるようになっている。その結果の全ては、凛恋が頑張ったから得られた力だ。


 もちろん、凛恋が自分以外の誰かから頑張るための活力を得たこともあっただろう。そのうちの一人に俺が入っていたのは嬉しい。だけど、やっぱり俺と凛恋が得られている今は、凛恋の頑張りの賜物なんだ。


「記憶がない私でごめんね」

「えっ?」


 隣を歩く凛恋がそう呟く。そして、俺に顔を向けた凛恋は涙を流していた。


「凛恋……なんで、そんなことを……」

「凡人くんと楽しい思い出が積み重ねる度に私は幸せで、それを思い返す度に嬉しくなる。でも、凡人くんは思い出を思い返したら、絶対に記憶をなくす前の私とのことも思い出す。私はそれを知らないから、一緒に笑い合えないし思い返せない」

「俺は凛恋が無事で居てくれるだけで良いんだ。思い出だってこれから――」


「これからはまだある。でも、これまではもう二度と戻って来ない。分かるよ、私だって今、凡人くんが私のことを全部忘れちゃったら…………忘れちゃったら……絶対に耐えられない。耐えられなくて辛くて、でも凡人くんに心配掛けないように笑おうとする。そんな思いを凡人くんにもさせてることが……本当に凡人くんに申し訳なくて……ごめんね」


 凛恋の手を握り返して、俺は凛恋の顔を見つめる。


「俺が、昔いじめられてたことは話しただろ?」

「うん。……その話を聞いて、凄く苦しかったし辛かったし、凄くムカムカした。凡人くんは何も悪くないのに」

「俺はそのいじめられる中で、人なんてみんなクソ野郎ばかりだと思ってたし、周りに近付く人間は全部敵だと思ってた。笑いながらすれ違う人みんなが俺を嘲笑ってると思ってたし、立ち話をしてる人はみんな俺の悪口を言ってるって思ってた。それくらい、精神的に追い詰められてたんだろうし心が荒み切ってた」


 雰囲気の良い参道にそぐわない話。でも、俺はその話をただ歩きながら凛恋へ伝える。


「そんな俺に光をくれたのは、世の中には良い人も居るんだって教えてくれたのは凛恋だったんだ。凛恋は、人と深く関わるのを避けてた俺と根気強く接してくれたし、自分を否定してネガティブなことばっかり言ってる俺をずっと変わらず肯定し続けてくれた」

「私は、そんな私を知らない。私はその思い出を――」

「思い出は大切だよ。でも、思い出よりも俺は凛恋が大切なんだ。いくら過去を振り返れても、顔を戻した先に凛恋の居ない道が続いてたら意味ない。隣に凛恋が居ない今なんて、いくら楽しい思い出を振り返れても今がダメなら何もかもダメなんだ。俺が必要なのは思い出じゃなくて凛恋なんだ」


 参道を歩いた先に見えた五重塔を見上げ、小さく笑う。


「結婚しよう」

「えっ?」

「結婚しよう、俺達。やっぱり、もうそうしないと無理みたいだ」


 握った手が震えて、俺は堪らなくなって凛恋の体を抱きしめる。


「俺と結婚してほしい」


 断られる。そう確信しながらも、俺は力一杯凛恋を抱きしめて想いを伝え続ける。


「凛恋と離れてると不安なんだ。また、俺の居ない場所で凛恋が危ない目に遭うんじゃないかって……離れてたら俺はまた、何も出来ずに凛恋が傷付いてしまうんじゃないかって……いや、本当はそんな凛恋を守りたいって気待ち以上に、俺には凛恋が必要なんだ。凛恋は俺にとって、自分の人生を歩く意味なんだ」


 プロポーズは、一日デートをして夜は雰囲気の良いレストランのディナーで、そして綺麗な夜景の見える場所に行って用意していた婚約指輪を渡す。そんな感じにしようと思っていた。それに、もっと凛恋が俺との結婚を考えられるようになってからだと思っていた。でも、手を繋いで暗い参道を歩いているうちに想いが抑えきれなかった。


「職場はみんな良い人ばかりで、仕事に自分が仕事をやる意味とか自分が居る意味って言うのが理解出来て来た。でも、それでも俺が仕事を頑張れるのは凛恋に会えるからで……でも、二週間会えなくて痛感した。俺は凛恋と会えないと頑張れないんだって」


 それはプロポーズじゃなくて、ただ俺が弱音を吐いているだけだ。酷く情けなく弱い自分を凛恋に晒しているだけでしかない。でも、大切な気持ちを伝える時に、自分を良く見せようなんて見栄や、その見栄のための飾りなんて必要ない。


「俺は凛恋に会って仕事の話をするだけでストレスが解消された。凛恋に会って凛恋と話すだけで癒やされた。でも、凛恋に会って楽しい時間を過ごせば過ごすほど帰るのが辛かった。それで、会えない時間にずっと凛恋のことを考えてて、凛恋に会うために頑張ろうとも思えたし、凛恋のことを思って寂しくもなった。それに、凛恋に週末会えないって言われて、本当に心が折れそうだった。それで、今週耐えられなくなって帰って来たんだ」


 いつの間にか、視界に見えていた参道の景色がボヤけて歪む。そして、頬に熱い雫が伝った。


「やっぱり俺は凛恋に側に居てほしいっ……。凛恋が居ないとダメなんだ。だから、結婚して、もう側から凛恋を――」

「もうっ……初チューの時もだったけど、いきなり過ぎたし」

「り、こ……?」


 右手の甲で目を拭って晴れた視界で、俺は凛恋の顔を見る。

 初めてのチューの時もそうだった。その言葉を聞いてハッとする。それに、凛恋の言葉遣いが……。

 その視線を向けた先の凛恋は、明るく笑いながら沢山の涙を流していた。


「"凡人"」

「凛恋? もしか、して……」

「やっぱり凡人って凄い。……やっぱり、いつも私を助けてくれるのは凡人」

「凛恋……記憶が」

「うんっ!」


 正面から俺を抱きしめて、凛恋は俺の背中に回した手を強く締め付ける。


「ごめんねっ……凡人っ。凡人のこと忘れてごめん。私のために人を殴らせてごめん。ずぶ濡れになってクリスマスプレゼント買わせてごめん。御園先生のことで傷付けてごめん。毎週私のために通わせてごめん。石川と二人で会ってごめん。私のために……いっぱいいっぱい無理させてごめんね」

「良かった……凛恋。……本当に、良かった」

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