【三二〇《溢れ出した本音》】:一

【溢れ出した本音】


 朝、着替えを済ませて朝食を食べていると、目の前でニコニコと微笑みながら箸を進める凛恋の姿が見える。


「朝もすっごいね」

「ああ。夕飯みたいに色んな品々が沢山出てくる訳じゃないけど、どれも上品だし手が込んでる。朝ご飯に焼きおにぎりの出汁茶漬けなんて料理が出てくるとは思わなかった」

「うん」


 良い具合に焦げた醤油の香りが漂う焼きおにぎりに昆布ベースの出し汁が、寝起きの体に優しく染み渡る。


「凡人くん、本当に私が決めたルートで良いの?」

「昨日見せてもらった凛恋がまとめてたルート、丁度二泊三日の想定だっただろ? 昨日の夜に京都に来たから正確には三泊四日にはなるけど、今日から凛恋のルート通りに行動すればピッタリだし」


 凛恋が俺と京都へ行く時を想定して作っていた観光ルートは、偶然か必然か、二泊三日の日程にピッタリ合っていた。


「一泊でも嬉しいんだけど、妄想の中だから贅沢に二泊三日にしよ~って思ってて」


 恥ずかしそうにはにかんだ凛恋は、クスッと笑ってジーッと俺を見た。


「凡人くん、ありがとう。私が突然言い出したことに付き合ってくれて」

「俺も凛恋と旅行に行きたかったんだって。もし今回の三連休がいきなり決まったことじゃなかったら、絶対に旅行に行こうって凛恋に言ってた。次、三連休以上の休みになるのはきっとお盆だろうし」

「出版社って忙しいんでしょ? お盆も仕事じゃないの?」


「まあ、忙しいは忙しいけど、お盆になると仕事関連の他社も休みになるから、うちだけ動いてても仕事にならないしな。ただ、そうなるとお盆前後が物凄く忙しくなる」

「そっか……。でも、それを聞くと凄く心配。お盆前後は無理しないで良いからね? 今度こそ私が凡人くんのところに行くから」

「いや、俺が帰ってくるよ。ちゃんと新幹線の定期券も買ってるし。せっかく買ったんだから元を取らないと」


 凛恋を心配させないように元を取りたいと言ったが、もう何度も帰っていて元は取っている。ほとんど毎週帰っていれば当然と言えば当然の話だ。


「私、アルバイトを始めようと思うの」

「アルバイト?」

「うん。病院の通院ももうすぐ必要なくなるし、今みたいに何もせずに家にずっと居るのは良くないって思うから」

「アルバイトか……」


 凛恋がアルバイトをすると聞いて、前向きに応援したいという気持ちはあるのに不安が真っ先に出てきてしまった。


 凛恋は高一の時に萌夏さんの家でアルバイトをしていて、俺はそこで凛恋が出会った萌夏さんの兄に危うく騙されて凛恋との関係を壊されそうになった。それに、高二の頃、一度別れた俺とロンドン旅行へ行くための資金を稼ぐためにアルバイトをしてくれていた凛恋は、コンビニのアルバイト先でストーカーに付きまとわれて一生消えない心の傷を負ってしまった。そして、大学生になってからもケーキ屋でアルバイトを始めて、お世辞にもアルバイト先が良いところとは言えず、都合の良いアルバイトとして扱われていたし、お互いのアルバイトが忙し過ぎてすれ違いを起こしてしまった。


 凛恋がアルバイトをすることが悪い訳じゃない。でも、凛恋がアルバイトをした結果、凛恋が関わった周りの人間のせいで凛恋が傷付くかもしれないことが不安だった。


「反対?」

「いや、反対じゃない。ただちょっと不安かな。高校から大学までで、凛恋がアルバイトを始めた時に結構喧嘩じゃないけどすれ違いになることが多くてさ……。やっぱり、お互いに忙しくなると時間が合わなかったりするし」

「そっか。確かに何も考えてなかったけど、アルバイトした結果、凡人くんが休みになる土日にアルバイトが入ったら会う機会がなくなっちゃうしね……。土日休みのアルバイトとかあるのかな~」

「まあ、面接の時に入れる曜日とか聞かれるし、きっとシフトを決める時に希望も出せると思うけど」


 ただ、大学生の時のケーキ屋のアルバイトで、凛恋はアルバイト先の先輩達に気を遣って自分の希望を抑えていた。それは凛恋が優しい性格をしているのもそうだし、周りに気を遣う性格だからだ。その性格は凛恋の長所だし魅力に決まってる。だけど、それで凛恋と会う機会が減ってしまう可能性がある。


「無理にアルバイトはしなくても――」

「でも、今のままじゃ凡人くんに相応しい彼女じゃない」

「…………ん? どうしてそうなるんだ?」


 アルバイトをするかしないかの話をしていたら、アルバイトをしていないと俺に相応しくないという話をしていた。そもそもの話、俺の方が凛恋に釣り合えてるか不安なんだが、その話はとりあえず置いておいて、なぜ凛恋が相応しくない話になったのか分からない。


「だって、筑摩さんはアナウンサーとしてバリバリ働いてるし」

「いや……理緒さんは友達だって」

「でも、凡人くんのこと好きだって言ってたもん。露木さんだって学校の先生だし、切山さんだってフランスの有名なパティシエールだし、神之木さんだってまだ学生なのに海外にもコンサートに行く人気のヴァイオリニストでしょ? 私だけだよ……何もしてないの」


 俺は立ち上がって、シュンと俯いて仕舞った凛恋の隣に座る。そして、凛恋の手を握っておでこをくっつけながら凛恋の目を見る。


「俺は、女子アナが好きな訳でも、学校の先生が好きな訳でも、パティシエールやヴァイオリニストが好きな訳でもない。確かにみんな凄く良い人達だよ。だから、今の職業っていうか、人から評価される立場に居られてるんだと思う。でも、俺にとっては凛恋が一番なんだ」

「凡人くん……」


 ギュッと凛恋を抱き締めると、凛恋もそっと俺の背中に手を回して抱き締め返してくれる。


「もし、凛恋がただ焦って何かやらなきゃって思ってるなら何もやらなくていい。自分が前へ進めるから進むんだって思えた時に、前へ歩けば良いんだ」


 俺は、俺が今言った自分の言葉が世の中からしたら甘い言葉なのは分かっている。

 世の中は絶対に止まらないし振り返らないし手を差し伸べない。世の中では、少しでも立ち止まったら人は置き去りにされる。もちろん、立ち止まっても後から物凄いスピードで追い付くことは出来るし、一発逆転で誰よりも先頭まで躍り出ることだって出来る人も居る。だけど、それにはそれ相応の努力が必要だし、消費される労力や削られる精神力は膨大になる。それによって少なからず自分を傷付ける必要も出てきてしまう。


 甘いのは分かってる。でも、俺は凛恋に傷付いてほしくなかった。いや……俺が分かる範囲で、俺が防げる範囲で凛恋が傷付くことを許容したくはなかった。

 守るのと甘やかすのは違う。でも、俺は凛恋を完璧な形で見守っていけるほど完璧な人間じゃない。どこかでミスが出て、どこかで大切な何かを見落としてしまう可能性が全く無いと言えない。それが、俺と凛恋にとって致命的な問題になってしまうかもしれない。


 もしそうなって、もう二度と凛恋の側に居られなくなってしまうなら、誰かに甘やかしているだけだと罵られたとしても、確実に凛恋と居られる選択肢を選ぶ。


「凡人くん? ……大丈夫だよ」


 凛恋が首を傾げて俺の顔を覗き込む。その俺の様子を確かめながら、凛恋は優しく声を掛けて指を組んで手を握る。そして、下からそっとすくい上げるようにキスをした。

 凛恋の首に手を添えて、髪を手で梳きながらうなじを撫でてキスへ没頭する。凛恋は唇の隙間から可愛く甘い吐息を時折漏らしながら、俺のシャツを必死に掴んでいた。


 俺は、凛恋との絆を簡単に解けないように固結びでキツく結んだつもりだ。でも、俺は人との正しい絆の結び方なんて分からない。だから、闇雲に結んだ結び方では、いつかどこかで綻んで仕舞うんじゃないかといつも不安になる。


 正しい結び方なんて存在しないのかもしれない。きっと、正しい結び方を一生模索し続けることになるんだと思う。何度も解けそうになって綻んで、その度に新しい結び方で結び直すことになるんだとも思う。

 だけど、今自分が正しいと思える結び方でしか結べないなら、それを信じて結ぶしかないんだ。それに絶対、凛恋と俺の絆の糸は簡単に切れるほど細く弱い糸なんかじゃない。




 旅館を出てから、まず凛恋と一緒に来たのは下鴨神社。

 世界文化遺産に登録された歴史ある神社だが、俺はあまりそういうのに詳しくない。


「何か、女性の参拝客が多いな」

「下鴨神社は縁結びに御利益があるらしいの。今よりももっと凡人くんとの縁を強く結びたいから、最初はここが良いなって思って」


 少し恥ずかしそうに言って、凛恋は繋いだ手を引っ張って歩き出す。


「ここはパワースポットも沢山あるし、いっぱいパワーをもらって行こう。凡人くんに良いことがいっぱい起こるように」

「俺も凛恋に良いことがいっぱい起こるようにお願いするから、お互いに良いことが起こりそうだな」

「私はもういっぱい良いこと起こってるよ。凄く格好良い凡人くんに出逢って一目惚れして、そんな凡人くんと私が付き合ってたって分かって、それで凡人くんと旅行に来られてる。本当に良いことが起こり過ぎてる」


「ありがとう。凛恋の良いことに俺が居られて嬉しい。俺も凛恋にまた好きだって思われて嬉しい」

「私と凡人くんは好きになる運命だったんだよ。記憶を失くす前の私のことは当然だけど全然分からない。でも、凡人くんを見た瞬間の気持ちは何となく分かるんだ。もう、本当にびっくりしちゃったの! 世の中にはこんなに格好良くて輝いてる人が居るんだって! 胸がドキドキして、ずっと凡人くんのことしか考えられなくなって!」


 興奮気味に話す凛恋は、指を組んで握った手を強く握り、ギュッと腕を抱きしめる。


「だから、こうやって凡人くんと旅行に行けるなんて幸せ過ぎる」

「喜んでもらえてめちゃくちゃ嬉しい。一緒に沢山楽しもうな」

「うん!」


 凛恋と下鴨神社で今回の旅行が最高の旅行になるよう祈願してから、タクシーで鴨川付近へ行って散策する。

 鴨川沿いの遊歩道を歩いていると、SNSに上げる写真を撮っているのか、沢山の人がスマートフォンを構えて色々とアングルを試行錯誤しているのが見える。


「ただ歩いてるだけでも、凡人くんと歩いてると全部楽しくて、見るもの全部が輝いて見える」

「京都は初めてだし、その新鮮さもあるんじゃないか?」

「確かに京都は初めてだけど、隣に居るのが凡人くんじゃなかったらこんなにワクワクしないよ。こんなに楽しい気分になれたのは久しぶり」

「友達と遊んでる時も楽しいだろ?」

「うん、楽しいよ。でも、楽しさの質が違うの。友達と遊ぶのは単純に面白可笑しく笑える楽しさだけど、凡人くんとは楽しもうって思わなくても楽しめるって言うか。凡人くんと居ると、絶対に楽しいってことが分かり切ってるって言うか」


「なんか、それはそれでプレッシャーだな」

「それが凄いの! 凡人くんと一緒だと絶対に楽しいって分かってるし想像も出来るんだけど、実際に凡人くんと会った瞬間に想像を超えちゃうの。会った瞬間からもう楽しくて嬉しくて。それで、話してデートしたらどんどん想像を超えて行っちゃって! もう、楽しさに押し潰されちゃいそうなくらい楽しくて幸せで。やっぱり、凡人くんと居るのが一番だなって毎回思う」


 鴨川沿いの遊歩道を歩いていると、凛恋が俺の手を引いて遊歩道を下りていく。


「お昼は凛恋が調べてた割烹料理店だっけ?」

「うん! 京都のおばんざいを食べられるお店なんだって。しかも、この辺りの他のお店よりもランチの値段が安いの」

「別に、値段は良いのに」

「値段も大事だよ。でも、ランチを食べるところが川床になってて、鴨川の景色を見ながらランチ出来るところなんだよ?」

「じゃあ、案内してくれるか?」

「うん。ちゃんとスマホでナビもしてる」


 ニッと笑った凛恋はスマートフォンを片手に、初めて歩く道をスイスイと進んでいく。

 凛恋が連れて来てくれた割烹料理店の川床の席に通してもらって注文を済ませると、目の前にずらりと料理が運ばれてくる。店に入ってくる時にランチの値段を見たが、それにしても値段に釣り合わないくらい料理の品数が多いように見える。


「この後はどこだっけ?」

「次は清水寺に行こうかなって思ってる」

「清水寺か~。やっぱり京都に来たら外せない観光地だよな。清水の舞台からの眺めも見たいし」

「うん。やっぱり有名どころは押さえときたいかなって。本当に凡人くんは私の行きたいところで良いの? 凡人くんが行きたいところとかは?」


「そうだな~。今回は凛恋が行きたいって思ったところに行きたい。俺の行きたいところは、次までに考えておくよ」

「え? 次?」

「また来れば良いだろ? まあ、京都ばっかりだとダメだから、次は北海道とか沖縄とかかな~」


 ランチを食べながらそんな話をしていると、凛恋がキョトンとした目を向けてくる。それに首を傾げると、凛恋は俯いた。


「次もあるんだ」

「当たり前だろ。その時のために、俺は仕事頑張って旅行資金を貯めるよ。いや、次にまた凛恋と旅行に行けるって思って仕事頑張る。良いことがあるって思ってないと結構キツいからな~」

「やっぱり辛い?」


「基本、俺の仕事は書類を作ったり経費の計算をしたりって事務仕事だけど、人を相手にする時は精神的にキツい時もあるかな。編集部は良い人ばかりだけど、社外の人には結構理不尽な人も多いからな。俺が新入社員だって分かるとガンガン無理難題言ってくる人とか。まあその辺りは、アルバイト時代の経験でそんな無茶苦茶な注文は受けられませんって断るけど。でも、今日みたいに凛恋とゆっくり旅行出来るって考えたらやる気も出るよ」

「やっぱり私もアルバイト探して協力する。それに、やっぱり私からも凡人くんに会いに行きたい。ちょっと憧れるんだ。仕事帰りの凡人くんにお帰りって言うの。きっと記憶をなくす前の私はそういうこと出来てたんだと思う。でも、今の私はやったことないから」

「家に帰って凛恋が居たら、一発で疲れが吹っ飛ぶと思う」


 笑いながら話して、心の中では本当にそうだったらどんなに良いだろうと思う。

 基本的に、泊まり込みをして次の日の始発で家に帰って午後に出社するということが多い。どうしても午前に来客がある場合はもっと早い時間に出社することもある。


 大学時代、凛恋と同棲、半同棲をしている時、俺は凛恋に出迎えてもらっていた。凛恋が言ってくれる「おかえり、お疲れ様」その言葉に何度疲れを吹き飛ばしてもらって、やる気を補充してもらえたか分からない。それに凛恋が作ってくれる手料理で体調が万全な状態で仕事に迎えたし、一緒に寝て心も癒やしてもらってた。


 そういう記憶があるから、そういう経験が、思い出があるから、今の独りで会社を往復する生活が辛く感じる。きっと、俺と同じような状況の人はいくらだって居るのに、俺だけ特別に辛い思いをしているように感じてしまう。


「私も凡人くんが帰ってくるのを出迎えたい。それで、仕事で疲れた凡人くんに手料理を食べてもらって、マッサージとかして疲れを癒やしてあげて」


 ニコニコ微笑みながら話す凛恋は凄く楽しそうで、その楽しそうな凛恋を見て改めて安心する。

 俺と凛恋の気持ちは同じだと。俺と凛恋の気持ちが向かっている先もピッタリ重なった同じ道なんだと。

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