【三一九《それは衝動的に》】:二

 運転手さんの目を気にして小声で話し掛ける凛恋に答えると、凛恋はまだ狼狽えた様子で俺に顔を近付ける。


「だ、だって京月庵って一泊――」

「お金の話はするなって言ったろ」


 相当京都について調べているのか、凛恋は今日泊まる旅館のことを知っていたらしい。


「確かにそう言ったけど、京月庵は――」

「一度くらい、見栄を張っても良いだろ。彼女に良いところを見せたいって思うんだよ」


 凛恋の困惑は仕方ないと思う。今日泊まる旅館は、二二、三の社会人になったばかりの男が彼女を連れてくるような場所じゃない。きっと、世の中の大人な男性達から「一〇年早い」と眉をひそめられる。そんな場違いな場所なんだと思う。


 凛恋とはそう頻繁には無理かもしれないが、これからも旅行に行く。その度に今回みたいな、いわゆる高級旅館と呼ばれるような場所に連れて行ける訳じゃない。でも、今日は俺が社会人になって初めての凛恋との旅行だ。最初くらい見栄を張って良いところを見せたい。


「凛恋は人を財力で判断するような人じゃない。それは当然分かってる。でも、最初の旅行くらいは俺が無理して連れて行ける最高の場所にしたいんだ。それくらい、俺は凛恋のことを大切に想ってるって分かってほしい。それに、これからも大切にするから。……絶対に絶対」

「……ありがとう。ちゃんと伝わってるよ? 凡人くんの気持ち」


 座席に座りながら、凛恋が俺の手を手繰り寄せるように握って指を組む。そして、甘えるように身を寄せてくれた。

 タクシーがすっかり日が沈んだ街中を走る。その間、凛恋はずっと俺の肩に頭を置いて寄り掛かってくれていた。

 目的の旅館前に着いてタクシーを降りると、着物姿の仲居さんが俺と凛恋に丁寧な出迎えをしてくれた。


「いらっしゃいませ。ようこそ京月庵へ」

「多野凡人です」

「はい。多野凡人様と八戸凛恋様ですね。お部屋へご案内します」


 荷物を受け取ってくれた仲居さんとは別の仲居さんが俺と凛恋の前を歩いて部屋へ案内してくれる。

 自分で予約したは良いが、高級旅館に泊まるということで少し構えていた。でも、想像していたよりも落ち着いた雰囲気で派手さは全くないし場違いさも感じなかった。

 廊下を歩いて仲居さんに付いていくと、鍵付きの障子戸の前で仲居さんが立ち止まる。


「こちらがお部屋になります。ご入浴はお部屋に露天風呂がございますので、お好きな時間にお使い下さい。お食事はどうなさいますか?」

「凛恋、風呂に入ってからご飯にするか?」

「うん。少しゆっくりしてからが良いかな」

「じゃあ、食事は入浴後にお願いします」

「かしこまりました。ご入浴が終わりましたら、フロントの方まで内線でお伝え下さい。すぐにご準備いたします」

「はい、ありがとうございます」

「失礼いたします。ごゆっくりおくつろぎ下さい」


 部屋の中へ荷物を運び入れていた仲居さんが戻ってきて、二人揃って俺と凛恋に頭を下げて歩き去って行くのを見送り、俺は凛恋の手を引いて部屋に入る。


「わぁ~、凄く綺麗……」


 部屋の中は落ち着いた雰囲気の和室で、部屋の奥には露天風呂が見える。その露天風呂の先には、竹で作られた柵、建仁寺垣(けんにんじがき)があった。


「凛恋?」


 急に正面から俺へ抱き付いた凛恋に戸惑っていると、顔を上げた凛恋がキラキラとした目を向ける。


「良いのかな? こんな良いところに泊まっちゃって」

「ちゃんとお金も払ってるんだから気にしなくて大丈夫だって。それに、凛恋くらい可愛い彼女を連れてくるなら、それ相応の旅館じゃないと凛恋に失礼だろ?」


 ちょっと気取って言うと、凛恋がクスッと笑ってから背伸びをして頬にキスをしてくれた。


「凡人くんくらいイケメンの彼氏と旅行に行けるだけで私は凄く幸せ。それに凡人くんに凄く凄く大切にしてもらってるって分かるからもっと幸せだよ」


 抱き合いながら褒め合っていた俺達は、自然と言葉を発さなくなってどちらからともなく唇を重ねる。

 部屋の入り口で突っ立ってキスを交わしながら、凛恋の腰を抱き寄せて自分に引き寄せる。


 何年経っても、どれくらい互いの絆を深めて想いを積み重ねても、俺はまだ周りから認められない。

 俺が凛恋の彼氏で居ることを。

 凛恋が認めてくれていれば、凛恋の家族が認めてくれていれば、俺は凛恋の彼氏で居られる。だから、石川や他の男にどれだけ否定されても、その否定は無意味だ。だけど、現実には何の意味を成さない否定でも、俺の心には少なからずひっかき傷を付ける。


 否定されることが嫌な訳じゃない。俺以外の男が凛恋を好きで、凛恋を俺から奪おうと目論んでいることに腹が立つ。俺以外の男が凛恋の心や体を求めていることが、気色悪くて考えることさえ許せないくらい腹が立つ。


 そういう男から凛恋を守りたい。そういう想いに遠距離という状況は障害になってる。いや……遠距離を障害と思うのはそれだけが理由じゃない。

 単純に、凛恋が自分の側に居ないことに耐えられないんだ。我慢は出来ても、それを平然とした態度で当然だと受け入れられない。


 凛恋と二週間振りに会えてつくづく思う。やっぱり俺には凛恋が必要なんだと。そして、より強く思う。もう、俺は限界なんだと。凛恋が側に居ない状況にこれ以上耐えられないんだと。

 でも……それを単純に解決出来る方法はない。


「――ッ!? 凛恋!?」


 抱き寄せてキスをしていた凛恋の体から急にスッと力が抜けて、俺は慌てて凛恋の体を支えて凛恋の顔を覗き込む。すると、真っ赤な顔をした凛恋が俺に視線を返した。


「腰、抜けちゃった……」

「え?」

「凡人くんのキスで腰が抜けちゃったの……。いつもより長かったし……それに、ちょっと――ううん、結構エッチだった」

「ご、ごめん!」


 凛恋を座椅子に座らせながら謝ると、深く深呼吸をした凛恋が俺の首に手を回してゆっくり唇を重ねた。そのキスは、俺から言わせれば、いつもより長くてねちっこくて、かなりエロいキスだった。


「これでおあいこね」


 唇を離した凛恋は真っ赤な顔のままそう言って微笑む。そして、俺の手を握って可愛らしく首を傾げた。


「お風呂入ろっか」

「そうだな。ゆっくり入って疲れを取ろう」


 部屋の中で凛恋が途中で買ったバッグから着替えを出すのを見てから窓の外に視線を向ける。当然と言えば当然だが、建仁寺垣があるから窓の外からは部屋の中は見えない。でも、凛恋が着替えるのを見ると、つい他の男に覗かれないかを気にしてしまう。そんな心配はあり得ないんだが。


「凡人くん?」

「いや、何でもない」

「大丈夫だよ。凡人くん以外の前で着替えなんてしないから。私のこれを見せられるのは凡人くんだけ」


 シャツを脱いだ凛恋のお腹には事故の時に出来た傷跡がある。それをさり気なく凛恋が手で隠そうとして、その手を邪魔するように俺は凛恋の体を後ろから抱き締めた。


「女性の凛恋が気にしちゃうのは分かるよ」

「凡人くんが気にしないで居てくれてるっていうのも分かるの。……でも、凡人くんに見られるなら綺麗な体が良かったなって――」

「凛恋はめちゃくちゃ綺麗だよ。スタイルも細身で綺麗だけど、お尻の形も胸の形も良いしめちゃくちゃ女性らしい。それに肌もすべすべで柔らかいし」

「ありがとう。だから、凡人くんなら安心して見せられるの。凡人くん、お昼もエッチしてる時、ずっと可愛い可愛いって言ってくれたし、私の体見て目をギラギラさせてたし」


 後ろから俺に抱き締められる凛恋がクスクスと声を出して笑う。その凛恋に唇をとがらせながら、俺は後ろから抱き締める手に僅かに力を込めた。


「仕方ないだろ? 二週間振りだぞ、二週間振り。めちゃくちゃ辛かったんだから……」

「ごめんね。凡人くんのためだって思って私も我慢してたけど、お互い辛いだけになっちゃったね」


 ゆっくり凛恋の体から離れると、振り返った凛恋が俺のシャツを引っ張り上げて脱がせる。


「ほら、早くお風呂入らないとご飯の時間がどんどん遅くなっちゃうよ」

「分かった。し、下は自分でやるから!」

「凡人くんを待ってると遅くなっちゃうからダメ~」


 ケタケタ笑いながら服を脱がす凛恋に抵抗しながら、俺も凛恋に釣られて笑う。

 俺達のやってるじゃれ合いは高級旅館の部屋でやるようなことじゃない。でも、俺達にとっては凄く自然で、俺達らしい温かな時間だった。




 お風呂も夕食も終えて、俺と凛恋は温かいお茶を飲みながら並んで座椅子に座ってくつろぐ。


「やっぱり良い旅館はご飯も豪華だったね」

「旅館って、勝手に精進料理みたいなのが出てくるって思ってたけど、こんな分厚いステーキも出てきてビックリした」


 指でステーキの厚さを表現しながら言うと、凛恋がニコニコ笑って頷く。


「うんうん。でも、全部上品な味だったし、見た目も凄く綺麗でついつい写真撮っちゃった」


 クスクスと笑った凛恋は、伸ばした足の上で両手をもじもじと弄り、ゆっくりと俺に視線を向ける。


「凡人くん、今日は色々疲れたよね? 私のために急に旅行に連れて来てくれたし」

「ん? まあ、新幹線での移動はちょっと長かったからな」

「そっか……じゃあ、もう今日は寝ないとだよね」


 ニコッと笑った凛恋はテーブルに置いたスマートフォンを充電器に繋ぐ。そして、部屋の照明を落として俺を振り返った。


「明日は朝から京都観光だし、もう寝よっか」


 電気を消してから、凛恋は布団を敷いている奥の部屋まで歩いて行く。その凛恋を追い掛けるように立ち上がって、俺は後ろから凛恋の体を抱き締めた。


「生殺しか」


 凛恋を抱き締めながら、後ろ手に手探りで襖を閉める。すると、顔を後ろに向けた凛恋が目を潤ませた。


「だって……凡人くん疲れてるし」

「それを言うなら俺の方だぞ。長時間の移動もあったし、凛恋は体力的に辛いんじゃ――」

「そんなことない! 私、結構体力あるよ! それに、今、私……凄く凡人くんとエッチしたい」

「凛恋ってエロいよな。そういうところも大好きだけど」

「エッチなのは凡人くんもでしょ? お昼にあんなにしたのに、また夜にもって」


 俺のからかいに、顔を赤くした凛恋が対抗する。でも、言葉で対抗するのを諦めたのか、背伸びをしてキスをしてから俺の腕を引っ張って布団上に引き倒す。


「俺、凛恋に襲われてる?」

「うん。こんなこと出来るの――こんなことしたいって思うのは凡人くんだけ……」


 浴衣の帯を解かれてはだけさせられ、上に跨がった凛恋は俺の胸をそっと撫でる。


「初めは私、自分がおかしくなっちゃったって思ったの」

「おかしくなった?」

「まだ病院に入院してる時から、凡人くんとエッチしたかったから……。結構悩んだんだよ?」

「それ、彼氏としてはテンション上がる話だけど?」

「だって、まだ付き合ってないのにだよ? エッチもだけど凄くキスしたくて。その時は凡人くんに彼女が居るかもって思ってたから、勝手に凡人くんが他の子とキスとかエッチしてるって思って凄く辛かったし……。もっと早く私と凡人くんが付き合ってるって言ってほしかった」


 上から顔を下げた凛恋が俺の真上でムッとした顔を向ける。


「ごめんって。記憶をなくしたばかりの凛恋には、いきなり彼氏だって言われても困るって思って」

「全然困らなかった。凡人くんのこと、会った瞬間から好きだったんだから。でも、今はおかしいって思わなくなった。全部、凡人くんが受け止めて受け入れてくれるって分かってるから」


 上から俺を抱き締めてキスをする凛恋を、俺は下から背中に手を回して抱き締める。

 自然と凛恋の体を布団の上に押し倒していて、今度は俺が凛恋の浴衣の帯を解く。

 浴衣がはだけた凛恋は息を飲むほど色っぽく、つい目を釘付けにされる。

 浴衣の裾から伸びた凛恋の綺麗な太腿に手を添えると、凛恋がピクッと少し体を跳ねさせた。その反応が堪らなく可愛い。


「凄く綺麗で可愛い」

「凡人くんは凄く男らしくて格好良い」

「石川になんて、絶対に渡すもんか」

「私は凡人くん以外の人なんて全然見てない。ずっと凡人くんだけ、凡人くん以外の人に好かれたくないもん」


 下から引き寄せられてキスをされ、そのままピッタリと凛恋の肌に自分の肌を重ねた。

 肌へ直に伝わる凛恋の温もりが、俺の中に渇望を湧かせる。

 渇望に吐き出させられて手を凛恋の体に触れさせると、下から凛恋が俺の頬を撫でて微笑む。


「安心して。凡人くんが私に何しても、凡人くんのこと嫌いになんてならないから。凡人くんが私にしてくれること全部、凡人くんの優しさが詰まってるって分かってるから」


 頬に添えられた凛恋の手が俺の髪を撫でてから頭の後ろに回る。その回した手で、凛恋が俺の頭を抱き寄せた。

 やっと感じられた凛恋の存在が温かくて、その温かさがどんどん重なって煽られ熱くなる。

 そしていつも通り、俺と凛恋は互いに境界のない二人の世界へゆっくりと沈んでいった。

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