【三一九《それは衝動的に》】:一

【それは衝動的に】


 ハンバーグ屋のトイレの前で、俺は正面に立つ石川に向かって口を開く。


「久しぶりだな」

「…………俺は別にお前と会いたくなかった」


 ブスッとしていてばつが悪そうにも見える石川は俺から視線を逸らす。その反応は、後ろめたさがあるというよりも『余計な人物に知られた』というような反応に見えた。


「俺もお前と会いたかった訳じゃない。でも、お前が凛恋に近付いてる。それは見過ごせない」

「俺は同じ研究室の仲間と遊んでただけだ」

「ツイてるとは思っただろ? 同じ研究室の仲間が凛恋と仲良くなって」

「遠距離なんだってな、八戸と」


 相対する石川は、俺の話を無視して右手の拳を握って俺を睨み返す。石川と会わなくなって随分時が経った。でも、多分高校の時からこんな感じで、人のことなんて気にせず、自分中心で物事が回っているような振る舞いをするやつだったんだと思う。


「だからどうだって言うんだ」

「俺の邪魔するなよ」

「はぁ? お前、何言ってんだ」


 邪魔をするな。その言葉に込められたものを理解は出来ない。だが、俺は勝手に想像した。

 記憶を失って高校時代に石川からされた様々なことを忘れた凛恋に、石川について話すな。そして、石川が凛恋にアプローチするのを黙って見ていろ。そういうことだと想像した。……想像した結果、純粋な怒りが生まれた。


「これは俺に来たチャンスなんだ。俺は高校を卒業しても八戸のことが忘れられなかった。それでずっと思い続けてやっと来たチャンスを邪魔されたくない」

「凛恋は俺の彼女だ。お前だけじゃなくて誰にも渡さない」

「勝手に言ってれば良い。研究室の仲間に協力してもらえば、今の八戸となら距離を縮められる」


 まともに話しても意味がない。会話をしていてそれはヒシヒシと感じる。


「先週の土曜、カフェで凛恋と二人で居たのも仲間に協力してもらったのか」

「だったらどうだって言うんだ。何を使っても八戸が俺を好きになれば俺の勝ちだ。それに俺は大手建築会社に建築士として就職が決まってる。月ノ輪出版よりも平均年収も上だし、お前みたいな安月給の男より俺と結婚した方が――」


 石川の話を無視して、トイレの前から自分の席に戻る。


「凛恋、友達と話せた?」

「うん。急に予定をキャンセルしたのもちゃんと謝れた」

「凛恋、この後も俺と一緒で良いよな?」

「うん。もちろん凡人くんと一緒に居たいけど」

「じゃあ、行こう」


 凛恋の手を引いてハンバーグ屋を出て歩き出す。


「凡人くん、どうしたの? あの人――敦くんと何か話してたみたいだけど?」


 凛恋の優しい言葉を以てしても、心の中に渦巻く黒く濁った思いは晴れない。

 嫌で嫌で仕方なかった。あいつが、石川が凛恋の近くに居るのが。それに、近くに居るだけでは飽き足らず、俺から凛恋を奪う気でも居る。そんな状況で平静で居られる訳がない。


 凛恋が石川みたいなやつになびくとは思ってない。そうじゃなくて、石川が凛恋と付き合おうとしていて、更に結婚にまで妄想を膨らませていることが気持ち悪くて仕方なかった。

 あいつが高校時代、凛恋と自分を題材にした小説を書いてたのは知っている。でも、それは誰かに見せびらかす物じゃなかった。だけど、今回は隠すことなく俺に向かってひけらかしてきた。

 凛恋の手を引いたまま、飲み屋街を抜けて凛恋の家に向かって住宅街を歩く。その途中、後ろから手を引っ張って引き止めた凛恋に、俺は振り返らされて正面から抱き締められた。


「凡人くん、話して? 凄く辛そうな顔してる。そんな顔、私は凡人くんにさせたくない」

「…………歩きながら話そう。あまり遅くなるとお母さん達が心配する」


 凛恋の手を引いて歩き出して、一呼吸置いてから話し出す。


「石川は俺と凛恋の、高校の同級生なんだ」

「え!? そんな話、敦くんは言ってなかった……」

「それに、高校の頃から凛恋のことが好きだった。それで、ことある毎に俺は凛恋に相応しくないって言って、俺と凛恋の仲を邪魔しようとして来た」


 高校時代を回顧して、初めて石川に会った時のこと、修学旅行で突き飛ばされたこと、他にも大小の石川に突っ掛かられたことが記憶に蘇る。


「高校の頃は両親が居ないことで色々周りから言われてた。石川もそういうやつの中の一人でしかない。でも、今でもあいつは凛恋のことが好きで、凛恋に好かれようとしてる」

「私が好きなのは凡人くんだけ。私は――」

「凛恋の気持ちを疑ってるんじゃないんだ。ただ、あいつが――石川のことが全く信頼出来ないんだ」


 人を好きだと思った時、真っ当な方法でアプローチする人がほとんどだ。でも、石川の場合はそういう真っ当な人間だと言い切れない。

 あいつは高校の頃、俺を凛恋から引き離すために母親を焚き付けて、俺を退学にしようとした。そこまで周りを巻き込んで大事にして、人の人生を顧みず自分の欲望を叶えようとする人間が、真っ当な方法で凛恋にアプローチをするとは思えない。いつか、自分の思い通りにならなかった時、凶行に及ぶ可能性がないと言い切れない。

 でも……今、俺は凛恋の側に居られない。


「私、もう敦く――石川くんと会わないから。友達とも女同士でしか会わないようにする」

「たとえそうだとしても、石川は凛恋の周りをうろつく。高校の時は教えてない凛恋の自宅の前をうろついてたんだ。だから、凛恋が避けてもあいつは諦めるようなやつじゃない」


 それに今、石川は久しぶりに凛恋と再会して気持ちが盛り上がっている。その状態では、平常時以上に理性が緩くなって善悪の判断基準が自分よがりになる。


「凛恋を怖がらせたい訳じゃないんだ。ただ、俺が何があっても守るって言える状況じゃない。……また三日後には離れる。それでまた来週会うまでの間、俺は凛恋を守れない」


 気持ちはどんなに離れていても変わらない。不安から多少揺らいだりぐらついたりしたとしても、俺が凛恋のことを好きな気持ちは変わらない。これからずっと先も永遠に。でも、だけど……物理的に離れた距離は気持ちでは解決出来ない。

 地震の時から思っていた。それで、その物理的な距離の残酷さは凛恋の事故でより鮮明に俺の前に突き付けられた。でも、あれから時間が経った今でも、その物理的な距離の残酷さは解決していない。


 俺が居なくても、凛恋にはお父さんとお母さんが付いている。だから、俺の思っていることはただ俺自身の問題でしかない。ただ俺が、凛恋の側に居られないことに、いざという時に凛恋を守れないことに無力さを感じているだけだ。ただそれだけのことだけど、俺の心は簡単に不安に煽られる。

 凛恋の腰を抱いて引き寄せて、力いっぱい凛恋を抱き締める。それで凛恋の感触を確かめて必死に安心を得ようとする。


「ちょっとお母さんに電話して良い?」

「ああ」


 凛恋に言われて、まだ安心を蓄え切れていない俺は名残惜しさを押し殺して凛恋から離れる。そして、目の前で凛恋はスマートフォンを取り出して電話を掛け始める。


「もしもし、お母さん? 今凡人くんとご飯を食べたところ」


 お母さんと電話をしている凛恋は、にっこり笑って俺の手を握る。


「それでね。今日から日曜の夜まで凡人くんと旅行に行ってくる。うん、凡人くんと久しぶりに会えたし、凡人くんが日曜まで休みになったらしくて。ありがとう」

 電話を終えてスマートフォンを仕舞った凛恋は、俺に向かって舌をペロッと出しておどけてみせる。


「お母さんに嘘吐いちゃった。でも、これで三日間ずっと一緒に居られる」


 唐突に凛恋が吐いた嘘に、俺は何の計画性もなく思い付いたまま答える。


「嘘にしなきゃ良い」

「えっ? 凡人くん?」


 凛恋の手を引いて、俺は元来た道を引き返して駅に向かって歩き出す。


「旅行に行けば良いんだ。本当に旅行に行けば凛恋が嘘を吐いたことにはならない」

「で、でも、私旅行に行くためのお金なんてないし、準備も――」

「着替えとかは買えば良いだろ。それに掛かる金は全部俺が出す」

「それはダメだよ! 凡人くんに凄く迷惑掛けちゃう」

「俺が何のために働いてるって思ってるんだ。凛恋と会って、凛恋と一緒に楽しいことするために毎日毎日泊まり込みで頑張ってるんだ。ここで使わないでどこで使うって言うんだ」


 歩き出して、小さく息を吐いてから凛恋に笑いかける。


「どこに行こうか。流石に海外は無理だけど、新幹線で行ける場所ならどこでも良いぞ」

「え? どこでも?」

「大好きな彼女との旅行なんだ。それに、遠距離で寂しい思いをさせてるし、今回は全部凛恋の要望に応える。どこか行きたい場所とかないのか?」

「い、行きたいところならあるけど……」

「どこだ?」


 本当に旅行へ行くことになって戸惑っている凛恋は、俺の手をギュッと握って恐る恐る俺へ口を開いた。


「京都……とか、良いなって思ってた」

「よし、じゃあ京都にしよう。京都行きの新幹線も今取ったし」


 話を聞きながらスマートフォンで新幹線のチケットを取った俺に、凛恋は可愛く戸惑ってオロオロとしている。


「は、早いよ!」

「嫌だった?」

「嫌じゃないけど……凡人くんに凄く迷惑を――」

「俺も凛恋と旅行に行きたかったし、日曜までずっと一緒に居たかった。そんな俺に凛恋が旅行に行こうって提案してくれた。お互いのタイミングが合っただけだろ? それに、せっかく旅行に行くって決めたんだ。凛恋にも思いっ切り楽しんでほしい」


「ありがとう。うんっ! 今回はいっぱい甘えさせてもらうね」

「決まりだな」

「凡人くんって結構強引なところあるよね」

「凛恋が旅行に行きたいって言ったんだろ?」

「でも、本当に連れて行ってくれるとは思ってなかった。それに私が京都に行きたいって思った瞬間に新幹線のチケットも取っちゃうし。……でも、嬉しかった。凡人くんと旅行に行きたかったから」


 もう申し訳なさは見せなくなった凛恋は、嬉しそうに微笑む。成り行きというか勢いで決めた感じだが、旅行に行こうと言って良かった。

 駅に着いてしばらく待ってから、到着した新幹線に乗って京都を目指す。

 座席に座ってすぐ、凛恋がスマートフォンを見てニコニコと嬉しそうに笑いながら鼻歌を歌い始めた。


「何してるんだ?」

「スマホのメモを見てるの」

「メモ?」

「そう。凡人くんと京都に行ったら行きたいところをメモしてたの。……凡人くんに会えなくて寂しい時に楽しいこと考えると寂しくなくなるから」

「ごめんな、寂しい思いさせて」


「凡人くんが謝ることじゃないよ! 仕方がないことだって言うのは分かってるし」

「今日から日曜の夜まで目一杯楽しもうな」

「うん! 凡人くんは行きたいところある?」

「観光場所は凛恋の行きたいところに全部行こう。でも、泊まるところは俺に任せてくれないか?」

「え? 泊まる場所?」

「そう。泊まる場所は行きたいところがあるんだ」

「凡人くんに行きたいところがあるなら良いよ。……あっ」

「ん?」


 ニコニコ笑っていた凛恋が、急に顔を真っ赤に染めて俯いた。そして、上目遣いで俺を見る。


「凛恋?」

「私はラブホテルが良いな」

「…………いや、流石に彼女を旅行に連れて行ってラブホに泊まる訳ないだろ。気を遣い過ぎだって」


 真っ赤な顔であたふたする凛恋に目を細めると、一瞬目を見開いた凛恋が恥ずかしそうに俯いて顔の赤みが増した。


「だって……新幹線代も出してもらって、それに加えて宿泊代も払わせちゃうし」

「言ったろ? 旅費は全部出すって」

「ごめんね。凡人くんだけにお金を出させてるのが申し訳なくて、つい……」

「もうお金の心配はなしだからな」

「ありがとう。凡人くんも一緒にどこ行くか決めよ」

「良いぞ。凛恋のメモを見せてくれ」


 京都に着くまでの間、俺は隣の凛恋と顔を近付け、凛恋がメモした京都の観光名所について調べる。

 突然決めた旅行は始まったばかり。でも、まだ始まったばかりでどこにも行ってないのにもう楽しい。

 これからもっと楽しくなることを考えると心が躍る。それに、やっぱり俺は凛恋と居る時が一番楽しくて、凛恋と居る時が一番リラックス出来る。




 京都駅に着いた時には、もう観光するという時間ではなかった。でも、金土日とまだまだ時間はある。


「新幹線、疲れただろ?」

「ううん。ずっと凡人くんとどこ行くか話せて楽しかったから全然気にならなかったよ」

「じゃあ旅館に行くか。今日は明日に備えてゆっくり休もう」


 駅から少し歩いてタクシー乗り場に行き、そこからまたしばらく順番を待ってタクシーに乗り込む。


「京月庵(きょうづきあん)までお願いします」

「え?」

「はい。承知しました」


 俺が運転手さんに行き先を告げると、凛恋が驚いた声を上げる。だが、その凛恋の驚きには構わず運転手さんは車を発進させ、俺は俺で少し恥ずかしくなって窓の外に視線を向けた。


「か、凡人くん。京月庵って」

「今日泊まる旅館だよ」

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