【三一六《解離していく二つ》】:一
【解離していく二つ】
目の前にあるグラスを持って口を付けて横を見ると、未だに火が出るかと思うくらい顔を真っ赤にした美優さんがカクテルの入ったグラスを両手で持って軽く口を付けていた。
まだ帰りたくないと言われて、どうやらまだ飲み足らない感じを察して二軒目としてバーに来た。そこで、俺はカルーア・ミルクを、美優さんはオレンジジュースを使ったカクテルを注文して二人掛けのソファーに並んで座っている。
「ごめんね」
「いえ、飲み足りなかったら言ってくれれば良かったのに」
「でも、今日も凡人くん疲れてると思ったし」
「大丈夫ですよ。明日も明後日も休みですから……」
「ご、ごめん。嫌なこと思い出させて」
凛恋と会えないことでテンションが若干落ちると、隣で美優さんが真っ赤な顔のまま謝る。
「美優さんは何も悪くないんで謝らなくて良いですよ。それにしても、美優さんってそんなに飲む方でしたっけ? 絵里香さんと木ノ実さんは飲む方ですけど、美優さんにそういう印象がなかったんで二軒目に誘われるのは意外でした」
「飲みたかったって訳じゃなくて。……久しぶりに凡人くんとゆっくり話せたのが楽しくて、もうちょっと話したいなって思って」
「話くらい――あ~、まあ気軽に話せる時間は減っちゃいましたね。俺も仕事はありますけど、美優さんも任される仕事が増えてますし」
「うん。それに、職場ではずっと巽さんが凡人くんの周りに付いてるし、凡人くんは凡人くんで週末地元に帰るために毎日根を詰めて仕事してる」
唇を尖らせた美優さんは、カクテルをグッと飲んで頭を傾けながら俺を見る。
「凡人くんは今、凄く無理してるでしょ?」
「無理ですか?」
「特に仕事のこと。この前、仕事のやり甲斐について話してたでしょ? それなのに入社してから誰よりもずっと仕事してる。確かに凡人くんの仕事量は新入社員にしては多いけど、それにしてもずっと仕事をし過ぎだよ。凡人くんのスピードならもっと余裕を持って仕事が出来るはず。でも、今はそのただでも速いスピードをもっと速くしてるようにしか見えない」
「無理しないと時間を作れませんから」
「でも、その凡人くんが頑張って作った時間を、彼女は分かってくれてない」
「分かってくれてはいると思いますよ。でも、家の用事があるなら断れなかったんだと思います。彼女は――凛恋は記憶を失ってて、今も自分の両親と関係を作り上げている途中です。それを、彼氏の俺が邪魔しちゃダメなんです。むしろ、ちゃんと前に進めてるんだって、ちゃんと前に進もうと凛恋が頑張ってるんだって褒めてあげないといけなかったんです」
「それが凄く無理をしてるってことだよ。凡人くんは彼女のために自分のことを全部無理を押し通して抑え付けてる。そういう凡人くんは彼女にとっては理解のある良い彼氏かもしれない。でも、凡人くん本人はただ辛いだけだよ。ただ自分の中に辛さを貯め込んでるだけ。……それを彼女が理解してたらドタキャンなんてしないよ」
悲しそうな表情をしながら、その表情に出た悲しさを押し流すように美優さんはカクテルを呷る。
急に決まった用事だったのかもしれない。その用事がどうしても断れなかったし、後にずらすことが出来なかったから、仕方なく俺の予定を断るしかなかったんだ。そう、思う。
「だって……こっちから凡人くんの地元まで新幹線で三時間くらい掛かるんだよね? それに毎週帰ってるってことは高くない新幹線の定期だって買ってるはず。……でもやっぱり時間もお金も掛かるけど、週末に帰る時間を作るために凡人くんは心も体も疲れてる。だけど……そんなに大変な思いをしても週末に帰るのは彼女のためでしょ?」
「彼女のためじゃないですよ。俺が凛恋に会いたいから帰るんです。俺が帰ろうとしてるのは単純にそれだけです」
俺は凛恋に会いたいと言われているから会ってる訳じゃない。帰って来てほしいと言われたから帰ってる訳じゃない。
ただ俺が凛恋に会いたいから、凛恋に会うために帰りたいから帰ってるだけだ。
「……自分で言ってて気付きました。俺は、凛恋に自分の気持ちを押し付けてただけなんですね」
自分のグラスを持ち上げてカクテルを一口飲んで喉を潤わせて、俺は自分の身勝手を告白する。
「自分が会いたくて会おうとしてるのに、相手が会えないからって怒って当たるのは最低ですよね。ああ……本当に、俺は凛恋になんて――」
「私が――……私が凡人くんの彼女の立場だったら、絶対にドタキャンなんてしないよ。凡人くんは、凡人くんが会いたいから会ってるんだって言うけど、それは恋人同士ならお互いに同じ気持ちに決まってるよ。凡人くんが会いたかったら彼女の方も絶対に会いたいに決まってる。特に遠距離で気軽に会えない状況なら、貴重な会える機会は絶対に大切にする。何よりも最優先にするよ」
「仕方ないんですよ。凛恋は今――」
「仕方なくなんかないっ……」
首を激しく振った美優さんの顔から小さな粒が弾ける。
「私は記憶喪失になったことがないけど、同じ好きな人が居る経験ならあるよ。好きな人が出来たら、好きな人に一秒でも長く会ってたいって思うし、そのために自分自身に出来ることは何でもする。好きな人一人に負担なんて掛けない」
「俺は負担には思ってませんよ。何一つ」
「凡人くんは、毎週彼女が新幹線で三時間掛けて帰って来て、その帰ってくるために毎日泊まり込みで仕事をしてるとしたら、それを彼女に負担を掛けてるって思わない?」
「それは……もし凛恋がそんなことをしてたら、俺の方が頑張って凛恋に会いに行きますよ。凛恋がそんなことをしないでいいように」
「だったら、彼女の方もそうするはずだし、そうするべきだと私は思う」
「凛恋は状況が普通じゃないんですよ。記憶喪失もそうですけど、退院したばかりで体も万全ではないんです。長距離の移動は普通の人よりも負担が掛かってしまう」
「だけど、もしそれで彼女が凡人くんと会う努力をしないとしたら、それは状況に甘えてるだけでしかないよ。恋人同士はどっちかが上でも下でもない対等な関係なんだよ。片方だけが頑張るのはおかしいよ」
「ありがとうございます。でも、美優さんが泣くことないじゃないですか」
泣いて話をしてくれる美優さんの涙を止めようと、俺はハンカチを差し出しながら言う。でも、美優さんは俺のハンカチは受け取らずに手の甲で涙を拭った。
「悔しくてっ……。凡人くんが頑張ってるのを毎日見てるから、その凡人くんの頑張りが全部無駄にされたのが凄く悔しくて悔しくて堪らないっ……」
こんな状況にするはずじゃなかった。焼き肉屋で凛恋のドタキャンの話は終わったし、後は仕事の愚痴とか取り留めのない話をしながらお酒を一、二杯飲むつもりだった。でも、結局は重たい話にしてしまって、全く関係ない美優さんを泣かせてしまっている。
多分、美優さんが一生懸命、俺の話をして涙してくれるのは、ただ単に美優さんが凄く優しい人柄の人というだけじゃない。少なからず、俺に抱いてくれているはずの好意があるんだと思う。だけど、俺はその好意について何か触れられる立場じゃない。仮に触れるとしても、告白もされてないのに自ら断るという触れ方しかない。そんな触れ方しか出来ないのだったら、ただ卑怯に目を背ける方が良い。
「もう一杯同じの頼もう……」
「分かりました。じゃあ、俺ももう一杯飲みます」
俺は追加の注文をしながら、美優さんの横顔を見る。
いつかはっきりと断らなければいけない、俺が好きなのは凛恋で美優さんではないと。でも、そのいつかが来るか来ないかは分からない。
やっぱり、告白をされていないのに好意を明確に断るということは出来ない。だから、本当なら今日のように一緒に食事をしてお酒を飲むなんてことはするべきじゃなかったんだ。
今日は俺が明らかにプライベートでの落ち込みを職場に持ち込んでしまったミスが――いや、甘さが招いたことだ。それで、俺の様子を心配してくれる美優さんを断り切れなかった。
美優さんと二人で食事をするのもお酒を飲むのも今日で最後。明日からは、明確に行けませんと断る。そう心の中で改めて決めて、俺は追加で運ばれてきたカクテルに口を付ける。
明日、「昨日はごめん」と凛恋に電話をしよう。それで、来週こそは会おうとまた約束をしよう。
ベッドの上で頭を上げた瞬間、脳の奥を金槌で打たれたような重たい頭痛が走る。更にその痛みがたっぷりの余韻を残しながら頭全体に響き渡り、上げた頭をゆっくり枕の上に戻す。
「……あれ? 俺、どうやって帰ってきたんだっけ?」
しばらく頭を休ませてから、再びゆっくり頭を上げて体を起こす。すると、見慣れた自分の部屋でベッドの上に寝間着のスウェットを着て座る自分を見る。
昨日は美優さんに誘われて焼き肉を食べて、その後にバーで軽く飲んだ。……いや、軽くのつもりが、美優さんに付き合って結構飲んだ。
唇にカクテルが付いていたようで、少し口を動かしたらオレンジの味と香りがした。
気が付いたら家に帰っているなんて経験をしたのは初めてだが、本当にちゃんと家に帰れるものらしい。
頭に響かないように慎重にベッドから下りてシャワーを浴びる準備をする。スウェットは着ているが、ちゃんとシャワーを浴びたかも分からない。それに、全身に汗をびっしょり掻いていて、仮に寝る前に浴びてたとしてもシャワーを浴びないと気持ちが悪い。
浴室で頭から熱いシャワーを被りながら、今日は何をしようか考える。
張り切って仕事を終わらせたから無理に出社する必要もない。いや、仮に少し仕事が残っていたとしても完全な二日酔いの今、会社に行くなんて気は起きない。
先週は何をしたのか思い出しながら浴室から出て、頭にタオルを被りながらテレビを点ける。そういえば、テレビをゆっくり見るのも久しぶりな気がする。
社会人になってから平日は帰って寝ることしかしないし、週末は凛恋のところに行ってた。だから、家のテレビが点いているという光景を随分久しぶりに見た。
テレビの右上にある時間を確認し、もう時間が昼前だと知って、結構寝られたんだと思った。実際、二日酔いで頭は痛いし体は重たいけど寝不足だという自覚はない。
「ん?」
ボーッとテレビを見ているとインターホンが鳴って来客を知らせる。その音に、俺は頭に被ったタオルをその場に置いてから玄関に歩いて行った。
「美優さん?」
玄関を開けると、美優さんが立っていた。そして、その美優さんは髪を耳に掛けながらぎこちない笑みを浮かべる。
「おはよう。昨日、結構酔ってたから心配で来たの。大丈夫?」
「すみません。俺、結構飲んじゃったみたいで。もしかして何か迷惑掛けました?」
「えっ? ううん! 全然迷惑なんかじゃないよ! 昨日はごめんね。私が誘ったのに、会計させちゃって。私がお手洗いに行ってる間に凡人くん払っちゃってて」
「いえ、気にしないで下さい。焼き肉をおごってもらったんでそのお礼ってことで」
本当は自分が払った記憶もないが、無銭飲食にはなっていないようだし、払った記憶がないなんて言ったら美優さんが払うと言い出すかもしれない。
「凡人くん、もしかしてご飯まだ?」
「はい。今起きたところで」
「じゃあ、私にお昼作らせて」
「いや、そこまでは――」
「先輩なのに後輩におごらせたままじゃ申し訳ないの。ちょっと待っててね」
「あっ……」
サッと玄関前から消えて自分の部屋に戻った美優さんを見送り、ドアの取っ手に手を置いて小さく息を吐く。
「お待たせ。実家からうどんがいっぱい送られて来て、一人じゃ食べきれないって思ってたの。凡人くんも減らすの手伝って」
「すみません」
うどんの入った袋を持ってきた美優さんを入れて、俺は申し訳なさを感じながらも重たい体をローソファーに下ろす。
頭は痛いし体は重たい。この状況で何か料理する気なんて起きなかったし、外へ出て何かを食べに行く気力もない。でも、物凄くお腹は減っている。だから、正直誰かが作ってくれるのは助かった。
「美優さんの地元ってうどんが名物なんですか?」
「ううん。そういう訳じゃないけど、私が家に居る時にうどんをよく食べてて。だから、ちょくちょくうどんが送られてくるの。お母さんにとって私はまだまだ子供みたいで」
手鍋でうどんをゆでながら、恥ずかしそうに美優さんがはにかんで答える。
「俺って、昨日結構飲んでました?」
「うん。普通のカルーア・ミルクとかカルーア・ミルクのビターのやつとか。あとはブラックルシアンを飲んでたよ。凡人くんはコーヒーリキュールのカクテルが好きなんだね」
「カルーア・ミルクは女性向けだって言われたことがあるんですけど、飲みやすくてつい頼んじゃうんですよね。ブラックルシアンも口にあって、ブラックルシアンのあるお店に行くと必ず頼むんです」
話しながら、それにしても飲み過ぎだと思う。カルーア・ミルクも度数が高いが、ブラックルシアンもウォッカが入ってるからかなりアルコール度数の高いカクテルだ。それを何杯も飲んでいるんだから、記憶をなくして家で寝てても仕方ない。
「あれ? 俺、オレンジジュースの使ったカクテルとか飲みました?」
ふと、朝起きた時に唇に残ったカクテルの味を思い出す。かなり薄かったが、唇には確かにオレンジジュースの味があった。
「え? ううん。凡人くんはコーヒーリキュールの使ったカクテルばっかりだったよ。私はオレンジジュースとグレープジュースのカクテルを飲んだけど? どうして?」
「いや、朝起きたら口にオレンジジュースの味があって」
首を傾げる美優さんに俺も首を傾げながら答えると、美優さんは鍋の方に顔を向けて後ろ向きに答える。
「私がお手洗いで席を外した時に飲んだのかもね」
「だとしたら、結構どころか相当飲んじゃってたんですね、俺」
カルーア・ミルク、カルーア・ミルクのビター、ブラックルシアン、それにオレンジジュースを使ったカクテル。何杯飲んだか分からないが、最低でも四杯は飲んでいる。俺にしては相当飲んでいる方だ。
「たまには思いっ切り飲むのも良いと思うよ。特に凡人くんは真面目だから飲む量セーブしてるし」
「……やっぱりバレてます?」
「バレてるよ。この前、巽さんの誕生日会の時も私とか巽さんに付き合って飲んでたけど、弱いやつばっかりを少しずつ飲んでた。自分が幹事だから酔えないって思ったんだよね?」
「まあ、それもあります。それに絵里香さんと木ノ実さんが結構思いっ切り飲む人達ですから、いざとなったら俺が二人を送らないといけないと思って」
「絵里香は結構酒豪だからね~。木ノ実さんは飲むのもだけど酔いが回りやすい人だし」
「木ノ実さんは酔うと結構熱くなる人ですよね~。一生懸命話すし、仕事について語るし。でも、全然面倒じゃなくて」
「うんうん。面倒なのは絵里香の方だよ。本当、絵里香って酔うと見境がなくなるって言うか、たがが外れるって言うか……」
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