【三一六《解離していく二つ》】:二

 背中を向けながら美優さんは深く長いため息を吐く。

 絵里香さんは酔うとかなり絡みが酷くなる人だ。確かに、それを面倒だと思う時はある。特に、絵里香さんの場合は絡み方がちょっと親父臭い。


「この前の飲み会の時も酷かったよね~。いきなり、その……」

「ああ。彼女と会ったら何回エッチするんだ~ってしつこく聞いてきたやつですか? あんなの俺がアルバイトしてる時からじゃないですか」

「ごめんね。止めようとしたんだけど、私も巻き込まれて上手くいかなくって」

「会社の飲み会だと古跡さんが上手く引き離してくれるんですけどね」


 笑いながら絵里香さんの話をしていると、美優さんがうどんを丼に入れてテーブルに運んで来てくれた。


「お待たせ」

「すみません」


 正面に座った美優さんに頭を下げてから顔を見ると、美優さんの頬が赤くなっていた。


「美優さんは二日酔いじゃないんですか?」

「私は寝る前にお薬飲んだから」

「そうなんですか。俺も今度買っておきます。久しぶりに二日酔いを経験しましたけどキツくて」

「さっきも言ったけど、凡人くんはたまには二日酔いするくらい飲んでも良いよ。日頃真面目過ぎるくらい真面目なんだから。ほら、冷めないうちに食べて」

「ありがとうございます。頂きます」


 美優さんに勧められ、箸で汁に沈んだうどんをすくい上げて口へ運ぶ。


「こしがあって美味しい」

「でしょ? でも、流石に一人じゃ食べきれない量あったから凡人くんが協力してくれて助かった~」

「そんなにいっぱい送られて来たんですか?」

「うん。数で言うと三〇玉」

「何かで見ましたけど、日本人が一年に食べるうどんの量が一年で平均二六玉らしいですから多いですね」

「凡人くんそんなことも知ってるんだ。凄いね」

「どこで知ったかは覚えてないですけどね」

「流石、塔成大出身だね」

「いや、それは塔成大は関係ないと思います」


 自然と笑って話をしてしまい、昨日二人で飯を食ったりしないと決意したことを思い出して罪悪感が浮かぶ。そして、美優さんが普通にただの先輩だったらどんなに良かったかと思う。

 面倒見が良くて優しくて、話していて極端に緊張しなくて話しやすい。そういう先輩とだったら一緒に食べて飲んでも楽しい。ただ、美優さんが俺に好意を持ってくれているという点がそれを出来なくする。


 迷惑だなんて恥知らずなことは思わない。むしろ、恐れ多いと思うし申し訳ないと思う。

 美優さんは誰が見ても可愛い人だと思うし、そういう美優さんに好意を持ってほしいと思う男なんていくらでも居る。その相手が俺だなんて申し訳ない。でも、もしそれが俺じゃなくて別の人だったら、どこの会社にでも居る気軽に話せる先輩後輩になれたんだと思いもする。


「凡人くんは土日どうするの? 家でゆっくり?」

「ですね。とりあえず今日は二日酔いもあるので家で大人しくしてます。明日は会社に出るかもしれません」

「え? でも、凡人くんは今週分の仕事、終わらせてるでしょ?」

「今週分は終わってます。でも、来週末を空けるために少しでも貯金を作っておかないと」

「ダメだよ。ゆっくり休める時には休んでおかないと」

「大丈夫ですよ。今日はゆっくり休むんで」


 やっぱり今の俺が仕事を頑張るためには凛恋が必要だ。だから、ちゃんと凛恋に謝って、凛恋に会うためにまた来週一週間も頑張る。それで来週末、凛恋とずっと過ごして楽しい思いをして全部終わりだ。


「あっ、ここうちの地元のショッピングモールですよ」

「そうなの? 何か新装オープンしたみたいだね。売り場面積が一・二倍になったんだ」


 点けっぱなしだったテレビで情報番組が映っていて、その番組内で新装開店した地元のショッピングモールが取り上げられていた。かなり客足が多そうだが、もし帰っていたら凛恋と遊びに行ったかもしれない。


「日本初出店のケーキ屋さんがあるんだ。カフェスペースの雰囲気が落ち着いてて良いな~」


 美優さんがテレビを見ながらそんな感想を言うのを聞き、画面に映っているケーキ屋の様子を見る。

 カフェスペースのあるケーキ屋は珍しくない。でも、自社の建物でなくショッピングモール内にある店でカフェスペースがあるケーキ屋は珍しいと思う。


 画面に映るケーキ屋は、内装の色がクリーム色やカーキ色のものが多く、明るさを一定以上確保しながらも華やか過ぎず落ち着いた雰囲気がある。この雰囲気なら、ゆっくりケーキを食べながらお茶もしやすいだろう。そう思うと、より凛恋と行きたかったと思ってしまう。


 凛恋に会えない落胆が押し寄せて来て、目の前にある麺の残った丼を見下ろす。

 家の用事は仕方ないし、彼氏だからって凛恋の行動を強制なんて出来ない。でも、一週間で週末にしか会えないって分かってるんだから、週末は俺のために空けてほしかった。

 軽く首を横へ振って落胆を振り払いながらテレビに視線を戻す。そして、俺はまたただボーッとテレビの画面を見詰めた。


 テレビの画面には、女性レポーターがケーキ屋の店員さんの紹介でおすすめのケーキを試食していて、レポーターがケーキの味を褒めながら店内の落ち着いた雰囲気も褒めているのが映し出されている。でも、俺はそのレポーターではなく、レポーターの後ろに映り込んでいる座席に目を向けた。


 複数映り込んでる座席の内、リポーターの左肩の奥側に見える二人掛けの席。その席の手前には男性が座っていて奥側には凛恋が座っていた。


「えっ?」


 横から美優さんの戸惑った声が聞こえる。それが何についての戸惑いの声なのかは分からない。今の俺にはそれが何かを確かめる余裕はなかった。

 見間違いだったらどんなに良かっただろう。


 日頃点けないテレビをたまたま点けていて、日頃見る機会がほとんどない土曜お昼の情報番組を見ていて、更に年に一度あるかどうか分からない地元を取り上げた番組コーナーを見る。そして、そのたまたまと機会がほとんどないと年に一度あるかどうか分からないが重なった状況で、彼女が男と二人でケーキ屋のカフェスペースで談笑しているところを見るなんてどれくらいの確率なんだろう。


 視線を逸らして、美優さんが作ってくれたうどんの残りを食べようと思う。うどんと一緒に何もかもを自分の中へ流し込もうと思った。でも……どうしても、丼の端に置いた箸を持ち上げることが出来なかった。


 家の用事がある。だから、今週も会えない。それを仕方ないと思った。仕方ないと思いたくない子供みたいな自分が顔を出したこともあったが、それでもさっきまでは自分の子供っぽさも含めて反省して、また凛恋と来週会おうと思った。来週、先週と今週出来なかった楽しいことをいっぱい凛恋とやろうと思った。先週と今週補充出来なかった凛恋を、仕事をするための糧を凛恋から貰おうと思った。


 明らかに凛恋の目の前に座っていた男性は凛恋のお父さんじゃなかった。お父さんよりも小柄だったし、何より背中越しでもお父さんより若いのが分かった。

 栄次か瀬名か……それも違う。テレビの映像越しでも見慣れた親友の後ろ姿とは違うのは分かった。


 じゃあ、凛恋は誰と一緒に居たんだろう。


 土曜の昼下がり、新装開店したショッピングモールの、テレビ番組で取り上げられるくらい話題になるケーキ屋のカフェスペース。そこへ凛恋はなぜ男性と居たんだろう。俺に、家の用事があると“嘘”を吐いて。


「凡人くん……」

「美優さんすみません。やっぱり二日酔いが酷いみたいで、せっかく作ってくれたうどん、食べ切れそうにないです……」


 もう食べられる気がしないうどんの丼に視線を落としながら、正面に座っている美優さんに謝る。本当にせっかく作ってくれたのに勿体ないし申し訳ない。でも……本当に申し訳ないけど食べようという気には少しもなれなかった。


「うん。大丈夫……二日酔いが辛いのはよく分かるから。洗い物が終わったら、二日酔いに効く薬を持ってるから持って来てあげるね」


 美優さんが俺のうどんが残った丼を下げてくれる。でも、その美優さんにお礼も言えずにただ軽く頭を下げることしか出来なかった。

 台所から美優さんが食器を洗ってくれる音を聞きながら、右手でスマートフォンを握り締める。


 今電話して凛恋は出るだろうか。仮に出てくれたとして、今何してるのかと聞いて、今一緒に誰と……一緒に居る男は誰なのか聞いて、真実を教えてくれるだろうか。


 高一の頃、俺と凛恋が付き合って間もない頃、俺は萌夏さんの兄と凛恋が夏祭りの会場で並んで歩いているのを見た。あの時、本当に辛くて、凛恋に自分が振られてしまったと、凛恋が自分以外の男に取られてしまったと本当に思った。でも、それは俺の勘違いで、凛恋には俺の想像したことは何一つなかった。だから、今回だってそうに決まってる。ただ電話をするだけで俺の悲観的な妄想は全て否定されるし、悲観的な妄想は安心に変わって昨日のことを謝って来週の話をすることだって出来る。それで……それで元通りになれるんだ。


 自分で自分の体に電話をしろと命令する。でも、どうしてもスマートフォンを握った右手が電話するために動かなかった。俺の命令なんて少しも聞く気配がなくて、ただずっと小刻みに震え続けている。

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