【三一五《乖離(かいり)していた気持ち》】:二

 残業を終えて片付けをしてから編集部を出る。すると、編集部の出入り口でスマートフォンを見て立っている美優さんが視界に入った。どうやら、本当に今日はこのまま帰してくれないらしい。


「――ッ!? あっ、凡人くん。お疲れ様」


 スマートフォンを見て顔を真っ赤にした美優さんは、慌てた様子でスマートフォンを仕舞ってにっこりと微笑んだ。


「美優さん、やっぱり――」

「凡人くんお肉好きだったよね? 私がご馳走するからお肉を食べに行こう」


 俺に断らせず、美優さんは前を歩き出してしまう。その美優さんの後ろを、俺は数歩遅れてゆっくり歩き出した。


「自分の分は自分で払いますよ」

「ダメ。私が先輩なんだから私にご馳走させて。それに後輩にご馳走する機会なんて凡人くんくらいしか居ないし」


 月ノ輪出版を出てから駅近くの繁華街へ行くと、美優さんは迷わず焼き肉屋へ足を運ぶ。

 二人席へ案内されテーブルを挟んで向かい合って座ると、美優さんがテキパキと店員さんに注文をしてくれた。


「凡人くんもビールで良い?」

「ありがとうございます」


 店員さんが一度席を離れて注文した肉とビールを持って来ると、美優さんが明るく笑ってビールジョッキを持ち上げる。


「お疲れ様」

「お疲れ様です」


 乾杯をしてビールを一口飲むと、喉越しはあまり分からなかったがビールの苦味は鈍くじんわりと舌に滲みる。


「本当に今日も凡人くんのお陰で助かった~。凡人くんが資料全部用意してくれてなかったら、家基さんに遅いって怒られてるところだった」

「怒られる? 期限には間に合ってましたよね?」

「前に揉めてから私も絵里香も目を付けられちゃって」

「……すみません。俺のせいです」

「違うよ。元はと言えば無茶な仕事の振り方をした家基さんが悪いんだよ。私も絵里香もそれが許せなかったの。でも、家基さん怖いから」


 クスッと笑った美優さんは頭を少し傾ける。その仕草に少しドキリとして、ビールを飲みながらジョッキで顔を隠す。

 先週行った百合亞さんの誕生日飲み会の時、美優さんは隣だった。だから、先週はあまり顔を見る機会はなかった。でも今日は、真正面に座っているからまともに顔を見てしまう。


「焼き肉屋久しぶりなんだ~。だから結構楽しみ」

「絵里香さんとか他の友達と行かないんですか?」

「レディーナリー編集部で働き始めて休みが合わなくなっちゃったから、あまり友達とご飯は行けてない。絵里香とも仕事終わりに焼き肉ってあまり行かないし」

「夜遅くなりますしね。すみません、俺に合わせてもらって」

「ううん。私も久しぶりに焼き肉食べたいなって思ってたの。だから、丁度良かった」


 話しながら鉄板に肉を置いて焼いていると、向かい側から美優さんが箸を伸ばして肉を取る。


「凡人くんが育てたお肉もらおー」

「良いですよ。どんどん食べて下さい」


 肉をタレにつけて美味しそうに頬張る美優さんを見ていたら、思わず小さく吹き出す。


「え? 口に付いてる?」

「いえ、なんか無邪気だなって思って」


 顔を赤くして慌てる美優さんへ素直に答えると、少し頬を膨らませてムッとした顔をする。


「確かに私は年上らしくないけど、子供扱いは酷いよ~」

「子供扱いしたつもりはなかったんです。すみません。なんか楽しそうだなって思って」


 俺も肉をタレにつけながら言うと、前から美優さんがにっこり笑って明るい声で答える。


「楽しいよ。凡人くんとゆっくり話せるの久しぶりだから。この前は巽さんが凡人くんを独り占めしてたし」

「別に独り占めされてた訳じゃなかったと思いますけど?」

「されてたよ。ずっと凡人さん凡人さんって凡人くんに構ってもらおうとしてた」


 ビールを一口飲んで、美優さんが俺の皿へ肉を置く。


「地震の後から少し落ち着いたと思ってたけど、またエスカレートして来てる」

「ちゃんと断ったんですけどね。巽さんのことは辛抱強く断り続けるしかないのかも知れないとは思ってます」

「凡人くん、何だかんだ言っても優しいからね。ちゃんと自分の仕事だけじゃなくて巽さんの仕事もちゃんとフォローしてるし。ああいうことされたら勘違いしても仕方ないよ? でも、だからって冷たくするのも凡人くんらしくないけど」


 唇を尖らせて困った顔をする美優さんは、俺の顔をジーッと見てからサッと俯く。

 焼き肉屋に来てから、美優さんは休憩前のことを聞こうとはしない。今のところ、ただ普通に焼き肉を食べて話しているだけだ。

 多分、頃合いを見て切り出すつもりなんだろう。今は関係ない話をして、俺が話しやすいような雰囲気を作ってくれているんだ。

 先輩にそこまで気を遣わせているのが申し訳なかった。しかも、気を遣わせてしまっている原因は仕事ではなく、完全にプライベートのことだ。


「本当は今週末、地元に帰る予定だったんです。でも、彼女が用事が出来たから会えないって言われて」


 肉を食べながらさらりと言った。さらりと言った風に言えたと思う。


「凡人くん、ずっと今週末空けるために一週間頑張ってたよね? それ、彼女は知らなかったの?」

「毎日泊まり込みなのは知ってましたよ。メールも電話もしてたんで。それで、ドタキャンみたいになってちょっとガックリきちゃって。そういうことなんで、美優さんに心配掛けるようなことじゃ――」

「そんなことがあったら落ち込んでも仕方ないよ。凡人くんは彼女に会うために頑張ったのに……」


 まるで自分のことのようにシュンとして、美優さんはビールジョッキの取っ手に触れる。


「美優さんが元気をなくすようなことじゃないですよ」

「約束してたんじゃないの? 今週会おうって」

「…………まあ、してましたけど。家の用事って言われたら――」

「えっ!? それだけ!? どんな用事が教えてくれなかったの?」

「はい……」


 目の前で驚いて、信じられないという顔をしている美優さんを見て、全く用事について説明されなかったことに不満を持った自分は正常なんだと認識出来た。


「…………酷いよ、凡人くん凄く頑張ったのに。一生懸命、週末を空けるためにやってたのに……。それなのに、家の用事って……」


 今度は美優さんが唇を噛んで悔しそうな表情をした。その美優さんを見て、俺も悔しいやらやるせないやら、そんな気持ちが浮かんできた。

 一週間前に約束してたのに、家の用事があるからと断られた。確かに凛恋は申し訳なさそうだった。それに、俺が凛恋の彼氏だからと言っても何もかもが無条件で優先される訳じゃないのも理解してる。でも……。


「沢山食べて飲んで嫌なことは忘れよう」

「そんなに一度に載せて食べ切れるんですか?」


 鉄板に沢山肉を載せ始める美優さんに困惑して尋ねると、美優さんはニコニコ笑って答える。


「私が二割食べるから、残りは凡人くんが食べてね~」

「せめて四割は食べて下さいよ」

「わっ! そんなに置いたら太っちゃうよ」


 既に焼けている肉を美優さんの皿に載せると美優さんが慌てて俺を見る。でも、クスッと楽しそうに笑った。

 凛恋からドタキャンを食らって凹んでいたが、飲んで食って軽く話をしたら随分楽になった。


「すみません。気を遣わせてしまって」

「気にしないで。凡人くんにはいつもお世話になってるし、後輩にお姉さんらしいことがしたかったの」

「美優さんは十分お姉さんらしいと思いますよ。俺によく声を掛けてくれますし」


 話をしながら、電話で凛恋に強く当たってしまったことを後悔した。


「…………」

「凡人くん?」

「え? す、すみません! ちょっとぼーっとしてて」

「ううん。気にしないで大丈夫だよ」


 やっぱり帰った後に凛恋へもう一度電話して謝った方が良い。ドタキャンをしたのは凛恋に非があるとしても俺の態度は大人げなかった。怒るにしても、もう少し真正面から凛恋とちゃんと話して怒るべきだった。凛恋の電話を切った俺の態度は、凛恋を突き放すだけで解決しようとはしてなかった。


 俺は記憶をなくした凛恋ともう一度付き合ってるんだ。だから、もう一度お互いに信頼関係を築かなきゃいけないし、それにはちゃんと自分の思っていることを伝え合うことも必要なことだ。




 焼き肉を食べ終えて、美優さんと並んで駅へ向かう。どうせ住んでるのは同じアパートだし、別々に帰るというのも不自然な話だ。

 俺は歩きながら、それとなく隣を歩く美優さんに視線を向けてみる。その視線の先に居る美優さんは、少し下に視線を向けながらもゆっくり俺の隣を歩いていた。


 焼き肉屋を出た後から、妙に美優さんは静かだった。飲み過ぎたか食べ過ぎただけなのかもしれないが、もし体調が悪いなら放っておく訳にはいかない。


「美優さん、元気ないですけど大丈夫ですか? 体調が悪いとかありませんか?」


 心の中であれこれ考えていても仕方ないと思い尋ねてみる。すると、顔を上げて俺を見た美優さんはキョトンとした顔をしてから、顔を真っ赤にして両手を振る。


「心配させちゃってごめんね! 体調が悪いとかはないから全然気にしないで!」

「そうですか? でも、食べ過ぎたり飲み過ぎたりして体調が悪いなら無理しないで言ってくださいね」

「うん、ありがとう」


 美優さんから正面に視線を向けると駅が見えてきて、俺はポケットからICカードの乗車券を取り出す。でも、隣で美優さんが歩くのを止める気配を感じた。


「美優さん?」


 立ち止まった美優さんを振り返ると、両手を前で握った美優さんが俯いているのが見えた。


「やっぱり体調が悪いんじゃ? タクシーで帰りますか? それとも病院に――」


 美優さんの目の前に近付いて屈み、下から美優さんの顔を覗き込む。すると、キュッと唇を結ぶ美優さんの顔が見えた。


「え?」


 俯いていた美優さんが体の前で握っていた両手を離し、俺の手首をそっと掴んだ。

 俺の手首を掴んだ美優さんの手を見てから、美優さんがゆっくり上げた顔を見る。その美優さんは躊躇いがちに俺に視線を合わせてから、弱々しく俺の腕を引いて言った。


「……まだ、帰りたくないな」

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