【三一二《錯綜する想い》】:二

 本社ビルまで戻って来てから編集部に戻る前に、廊下にある自販機前で立ち止まってスマートフォンを取り出す。そして凛恋へ電話を掛けた。


『もしもし凡人くん?』

「もしもし。今大丈夫か?」

『うん! 仕事忙しそう?』

「ああ。早くても明日の午後になると思う。遅くても日曜の午前中には帰れるようにする」

『でも、それだと日帰りになっちゃうよね? 凡人くん大変じゃない?』

「凛恋に会うためだから全然大変じゃない」


 凛恋の声を聞いて、仕事で溜まった疲れが癒やされる。いつまでも話していたいが、日曜に帰るためには少しの時間も無駄に出来ない。


『凡人くん』

「ん?」

『無理はしないで。凡人くんに会えないのは寂しいけど、それで凡人くんが無理するのはダメだよ。私のせいで凡人くんに余計な――』

「俺が凛恋と会いたくて頑張るんだ」


 巻さんに言われた、離れていることで凛恋が誰かに取られるという心配をしている訳じゃない。ただ、自分自身が凛恋に会えないことを辛く感じているだけだ。


『私が会いに行ければ良いんだけど……』

「凛恋はまだ体が本調子じゃないんだからダメだ。今は焦らずリハビリをしないと」

『うん、ありがとう。凡人くんも無理しないでね』

「ありがとう。じゃあ、仕事に戻るよ」

『あっ、凡人くん』

「どうした? 何か言い忘れ――」

『凡人くん、大好き!』


 可愛い凛恋の声で大好きと言われて、一気に元気とやる気が湧いてくる。


「ありがとう。俺も凛恋のことが大好きだ」

『うん! じゃあ、おやすみなさい。凡人くんは仕事ほどほどにね』

「ああ、おやすみ」


 電話を終えてから歩き出そうとすると、俺を見てニヤッと笑う絵里香さんと目が合った。


「会社で惚気電話?」

「早く仕事片付けよ~っと」


 いつも通りからかってくる絵里香さんを笑いながらあしらって編集部に戻ろうとすると、通り過ぎようとした俺の腕を絵里香さんが掴む。


「入社してからずっとそうやってるけど大丈夫なの?」

「ずっとそうやってるってどういうことですか?」

「週末に地元に帰って彼女に会うために、平日から仕事を詰めてること。いつまでそんな無茶続ける気か聞いてるの」

「一週間分の元気を彼女からもらうために――」

「無理しないと続けられない関係なら、別れた方が良いんじゃないの?」

「俺は自分がやりたくてやってるんです。それに、俺は別れる気なんて全くありません。俺が一番好きで大切なのは彼女ですから。…………絵里香さん?」


 笑って歩き出そうとした俺の腕を、絵里香さんは強く引っ張って引き止める。そして、鋭い目で俺を見返した。


「もっと視野を広く持つべきよ。凡人くんのことを大切にしてるのは彼女だけじゃない。彼女よりも凡人くんを大切に思ってる人が居るかもしれないでしょ。それに、無理して会いに行かないといけない場所の人よりも、近くに居るもっと良い人と付き合った方が気楽じゃ――」

「俺は、自分が気楽になるために彼女と――人と付き合ってる訳じゃないです。それに、俺は付き合ってて楽な人と付き合いたい訳じゃないんです。俺は、彼女のことが好きでずっと一緒に居たいから付き合ってるんです」

「…………それでしわ寄せが来るのは凡人くんよ。彼女の方は、凡人くんが無理して帰ってくるのを待ってる側だから楽かもしれないけど」

「彼女はまだ体の調子が万全じゃないんです。長時間新幹線になんて乗せられません。だから、俺が会いに行くんです。すみません。俺、明日中には帰りたいんで仕事に戻ります」


 俺の腕を掴んだ絵里香さんの手を外して歩き出す。

 多分、絵里香さんは美優さんのことを言っている。遠く離れた凛恋ではなく、近くに居る美優さんと付き合えば良いと。でも、美優さんを好きだと自覚しても、俺には凛恋しか居ないと思っている今だから、そうじゃないと言い切れる。


 俺は自分から凛恋が切り離されるのが嫌で、自分から凛恋が切り離されるのが怖い。それくらい、俺の中で凛恋という存在が大きな割合を占めている。

 今の俺にとって、俺が俺らしく生きるためには凛恋の存在がなくてはならない。だから、俺は俺が俺らしく生きるために行動してるだけだ。確かに自分の体に無理は言わせてるかもしれない。だけど、心は全く無理をしてない。


「凡人くん、もう休憩終わり?」

「はい。明日には地元に帰りたいんで」


 自分の席に戻った時、コーヒーを飲んで休憩していた木ノ実さんに声を掛けられた。その木ノ実さんに返事をしてからパソコンに目を向けると、パソコンの向こう側で美優さんと目が合った。


 目が合った美優さんは俺をジッと見ていたが、目が合った瞬間にニッコリ微笑む。

 多分、美優さんは俺が仕事を出来るだけ早く片付けようとしていることを心配してくれているんだと思う。でも、誰に何と言われても俺は毎週地元へ帰るために、出来ることは何でもやる。たとえ、周りからは無茶だと思われても。


 俺もただ無鉄砲に無茶をしてる訳じゃなく、自分なりに倒れたりするようなことにはならないようにしている。きっと本当に無茶をしていたら、今日中に仕事も終わってたはずだ。

 無理をし過ぎて倒れたら凛恋のところに行けないし、倒れはしなくても疲れ過ぎて凛恋との時間を楽しめないのは嫌だ。


「多野、ちょっと良い?」

「はい?」


 後ろから古跡さんに肩を叩かれて振り返ると、スマートフォンを片手に持ち困った様子の古跡さんの顔が見えた。


「早急にあげてほしい仕事があるの。役員向けの会議のやつなんだけど」

「役員向けの会議と言うと、一三日後のやつですか?」

「そう。上の都合で早まって。必要な資料は揃えたてメールしたわ」


 古跡さんの言葉を聞いて、俺のパソコンに送られてきた古跡さんのメールを確認する。メールには、会議資料作成に必要な資料が添付されている。それに同じような会議で以前使った資料まで添付されていた。これなら一から作る必要はない。


「それと、ちょっと良い?」

「はい?」


 仕事の依頼以外に話があるようで、古跡さんに言われるまま席を立って会議室に入る。


「家基のことは悪かったわ」

「ああ。結構しこりになってたみたいですね」

「帰す前に話はしたわ。いくら自分に余裕がないからって後輩に当たるのはお門違いよって。余裕がないのはみんな同じ」

「他の編集さん達に比べて家基さんの抱えてる仕事の量は多めですから仕方ないですね」

「ありがとう。それと、多野は今、毎週地元へ帰ってるの?」


「はい。凛恋に会うために帰ってます」

「あまり無理しないでよ? 多野は一度無理して体調崩してるんだから」

「大丈夫ですよ」

「まあ、今日中に終わらせるのを午前の時点で諦めたのを見て、少しは安心してはいたわ」

「気付いてたんですか?」


 古跡さんの意外な言葉に驚く。すると、古跡さんはニヤッと笑った。


「仕事の進行速度が、本気で無茶してる時の速度じゃなかったからよ。多野が無茶すると、本気で無茶苦茶なスピードでやってるから誰でも分かるわ。でも、多野は苦労を隠すのも上手いから心配よ。上手いと褒めることではないけど」


 眉をひそめた古跡さんは、後ろを振り返って会議室の外を見る。会議室にある窓からは、薄く開かれたブラインド越しに編集部の様子が見えていた。


「田畠の件、そのまま放っておくことにしたのね」

「告白されてないのに断るのは違うと思って」

「まあ、私が言ったのは女の立場からの話よ。どうせ見込みがないなら見込みがないと言ってほしいって女側の思うわがまま。確かに多野が言うように、告白されてもいないのに田畠の気持ちを断るのは違う。田畠の方も告白してないのに断られるのも不本意かもしれないし。それはそれで、答えを付けさせない状況に居続ける田畠もズルいとは思うけど」

「それに、美優さんが本当に俺のことを――」

「それはないわ。多野も気付いてる通りよ。あれだけ露骨なら誰でも分かるわ。あっ、それと……」


「はい?」

「仕事が空いた編集が居たから、多野の抱えてる仕事を振っといたわ。タスクを見れば減ってるから分かるわ」

「本当ですか?」

「だから、今の仕事と私が追加した資料が終われば地元へ帰れるんじゃない?」

「ありがとうございます」


 俺にいたずらっぽく笑った古跡さんへ頭を下げてお礼を言う。これなら、明日の朝一には地元へ帰れる。


「多野には入社前からも入社してからも無理させてるから申し訳ないと思ってたの。新入社員でここまで働かされてる新入社員は居ないわ」

「いえ、頼りにしてもらってるのが分かるので嬉しいです」

「そう言ってもらえると助かるわ。でも、本当に無理はダメよ。多野の代わりなんて居ないんだから」


 会議室を古跡さんと一緒に出て自分の席に戻ると、確かに俺がまだ片付けていない仕事が減っていた。

 これで明日の朝、地元に帰る新幹線に乗れる。いきなり行って凛恋を驚かせるのも良いかもしれない。でも、俺が帰って来られないと思って予定を入れてしまうかもしれない。


「新幹線に乗る前に電話するか」


 凛恋が喜ぶことを想像して、思わずニヤけてしまう。

 しばらくニヤけていたが、仕事を終わらせるために気を引き締めてパソコンのキーボードに手を置く。それで作業を始めようとした時、美優さんと目が合った。

 俺を見ていた美優さんは慌てた様子で俯きパソコンの陰に隠れる。そして、その隣では、絵里香さんが鋭い目付きで俺を睨み付けていた。

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