【三一二《錯綜する想い》】:一

【錯綜する想い】


 凛恋との週末デートは夢のような時間だった。そして、週末が終われば俺はまた夢のような時間から厳しい現実へ引き戻される。

 編集部への泊まり込みは当然で、今日も日付が変わってから始発で帰った。

 駅を出ていつも通り疲れのある体を引きずって家までの道を歩く。


「かーずとさんっ!」


 アパートの階段を上ったところで、その明るい声が聞こえる。そして、その声の主の百合亞さんがニコニコ笑って手を振っていた。


「百合亞さん、どうしてここに?」

「来ちゃいました」


 ニヤッと笑った百合亞さんは、手に持っていた包みを持ち上げる。


「凡人さんがお腹空かせてると思って、サンドイッチ作って来たんですよ?」

「百合亞さん、俺には彼女が居るって」

「いつもお世話になってるインターン先の先輩にお礼がしたくて。それに……」


 話の途中で百合亞さんが視線を俺の後ろに向ける。その視線が気になって振り返ると、同じ階に住んでいる他の住人が丁度ゴミ出しに出て来ていた。


「優しい凡人さんは、女の子を追い返したりしませんよね? それに、相談したいことがあるんです」

「相談したいこと?」

「はい。サンドイッチ食べながら聞いてくれませんか?」

「……分かった」


 他の階の人に女性を追い返したなんて噂を立てられても一向に構いはしない。でも、相談したいことがあると言われて追い返すのも気が引ける。

 鍵を開けて部屋に入ると、コップに冷茶を入れてテーブルに置く。


「ありがとうございます。沢山作ったのでいっぱい食べて下さい」

「相談したいことって?」

「サンドイッチを食べてからでいいですよ。今朝までお仕事だったんですよね? だったら、お腹減ってるんじゃないですか?」

「まあ、確かにお腹は減ってるけど」

「じゃあ食べて下さい」


 包みを開いて中にあったプラスチック容器に色とりどりのサンドイッチが詰められていた。


「凡人さんに食べてほしくて頑張っちゃいました」

「百合亞さん、俺は――」

「さ、食べて下さい」

「……じゃあ、いただきます」


 いまいち俺の話を聞いてくれない百合亞さんに心の中でため息を吐きながら、目に留まった卵サンドを手にとって噛り付く。


「それで? 相談って言うのは?」

「相談なんてありませんよ。そうでも言わないと、凡人さんが入れてくれなさそうだったんで」

「……百合亞さん、俺には彼女が居る。その彼女が大切だから、百合亞さんの気持ちには応えられない」

「じゃあ、振り向いてもらえるように頑張りますね」


 微笑む百合亞さんは、横から俺の顔を覗き込んではにかんだ。


「凡人さんって、優しいですよね。編集部でも普通に接してくれて」

「仕事とは別だ」

「そういう優しいところが好きです」

「ごめ――」

「でも、最近は疲れてるみたいです」

「まあ、忙しいから疲れはするよ。それは俺だけじゃなくて編集部のみんながそうだ」

「でも、凡人さんは人一倍無理してるように見えます。彼女に会うために時間を作ってるんですよね?」

「そうだよ」


 当然の答えを口にすると、百合亞さんはクスッと笑って首を傾げる。


「私なら、仕事で頑張ってる凡人さんに来てもらうんじゃなくて自分から行きますけど」

「彼女は退院したばかりで無理させられない」

「そうなんですか、それは仕方ないですね。でも、だからって凡人さんがこんなに疲れる必要はないと思いますよ? 凡人さんが無理してるのを見てると凄く辛いです」

「心配してくれる気持ちは嬉しいけど、俺は大丈夫だから」


 編集部はいつも多忙だ。その編集部で働いているんだから、俺だけ楽な訳がない。みんなが忙しくてみんなが大変なんだ。


「凡人さん眠そうだからそろそろ帰りますね。容器は編集部で会った時に返してくれれば良いですから。残りは起きてからでも食べて下さい」

「百合亞さん、こういうことはもうしなくて良いから。百合亞さんにも悪いし、彼女にも申し訳ないから」

「はい。この手は一回しか使えないって持ってたんで、また別の手を使いますね」


 クスクス笑った百合亞さんは、不思議そうな表情をして首を傾げる。


「ん? どうかした?」


 不思議そうな顔をしていた百合亞さんに首を傾げ返すと、クスッと百合亞さんが一瞬笑う。そして、その微笑みをいたずらっぽい笑顔に変えて顔を近付ける。


「私ならいつでも空いてますから。寂しくなったら呼んで下さいね」

「気を遣ってくれてありがとう。でも、俺は大丈夫だから」


 部屋を出て行く百合亞さんを見送って、部屋に残ったサンドイッチを見下ろす。

 今の状況は俺にとっても凛恋にとっても、そして百合亞さんにとっても良くない。

 百合亞さんは時間を無駄にしている。いくら俺に気持ちを傾けてくれて時間を費やしてくれたとしても、俺は百合亞さんの気持ちには応えない。ただ、俺がそれを直接言っても、百合亞さんは全く気にした様子がなく、変わらず俺へ気持ちを傾けて時間を費やす。


「時間掛かっただろうな」


 百合亞さんが持って来てくれたサンドイッチは、それなりに自炊が出来るようになった今なら、作るのにかなり時間を費やし労力も掛けたんだろうと分かる。だからこそ申し訳ないと思う。


 サンドイッチを一つ手にとって噛り付き、スマートフォンを見て時間を確認する。

 これからシャワーを浴びてから昼まで寝て、それから午後にまた出社しないといけない。

 暇より忙しい方が良いには決まっている。でも、今はその忙しさが凛恋との時間を制限させている。


 もし凛恋がこっちに住んでいたらこんなことにはなっていない。

 もし凛恋が事故に遭っていなければこんなことにはなっていない。

 もし凛恋を、地震の前に地元へ帰さなかったらこんなことにはなっていない。

 過去をどれだけ振り返って後悔しても何も変わらない。そんなことは分かり切っているのに、あの時ああしてればなんてことが頭に浮かぶ。


 つい最近、凛恋に会ったばかりなのに……いや、もう地元から帰る新幹線の中で既に凛恋に会いたかった。

 大学を卒業すれば、ずっと一緒に居られる家族になれると思っていた。でも、今の凛恋にそこまでの気持ちがあるか分からない。それに、今は凛恋の体を良くすることが最優先で、俺の寂しさとか願いなんて必要ない。


「寝て起きたらすぐに仕事か……」


 首を横に振って寂しさを振り払う。でも、寂しさを振り払ったはずの俺の口からは寂しさが溢れる。

 ゆっくりと立ち上がりシャワーの準備をしながらスマートフォンを見る。


 今から凛恋に電話すれば話せる。でもきっと、その電話はずるずると長くなってしまって寝る時間がなくなってしまう。そうなったら、全く睡眠を取らず泊まり込みをすることになる。


 週末に凛恋と会って思いっきり二人の時間を過ごすのに体調を崩す訳にはいかない。

 凛恋に電話したい気持ちをグッと抑え、俺はシャワーを浴びて次の出勤に備える。

 今頑張れば週末に楽しいことが待っている。そう思って、俺は完全に沈んだ心を持ち直した。




 週始めから今日まで必死にやってきた。サボってもないし、むしろ少し無理をしたと言っても良い。でも、俺の仕事は終わっていない。


「多野。土日休めるとか思ってないでしょうね」

「はい……」

「田畠も平池もよ。あんたら全然仕事終わってないじゃない」


 家基さんの厳しい声に俺は奥歯を噛んでキーボードを叩く指を速める。

 家基さんは以前、俺に対する仕事の振り方で美優さんと絵里香さんと衝突してから、俺達三人に強く当たるようになった。アルバイトの時から少し気性は荒いと思っていたが、ここまで根に持つ人だとは思っていなかった。


「凡人くん」

「はい?」

「土日も来るなら、今日は泊まらなくて良いんじゃない? 凡人くんなら、今日中には無理かもしれないけど、二日あれば余裕を持って終わる量でしょ?」

「ありがとうございます。でも、今日も残ります」


 木ノ実さんが優しく声を掛けてくれた。そして、木ノ実さんの言う通り、土日も来るなら無理に泊まる必要なんてない。でも……泊まれば、もしかしたら日曜だけは帰れるかもしれない。


「泊まるにしても休憩は取らないとダメだよ。……昼休憩もご飯食べながらやってたでしょ」

「…………すみません。少し一息吐いてきます」


 椅子から立ち上がって、編集部の外へ出る。編集部の中に居たら息が詰まってしまう。

 エレベーターに乗って一階に下りて出入り口まで歩いていると、後ろから肩をドンと突かれた。


「多野も残業?」

「え? あっ、巻さんか」

「何よ、巻さんかって失礼なやつね。それで? 残業前の休憩なんじゃないの?」

「ああ」

「どこ行くの?」

「近くのコンビニに」

「丁度良かった。私も付いて行って良い? 美人OLは男に狙われやすくて困るのよ」

「…………」


 自分で自分のことを美人OLと称した巻さんに視線を返していると、視線の先に居る巻さんは顔をしかめた。


「そこは何か突っ込むところっしょ。まあ、そんなことはどうでもいっか」


 巻さんが自己解決したのを確認してから歩き出すと、巻さんが俺の隣に並んで歩き出す。


「多野はよく残業するの?」

「毎日泊まり込みだよ。始発で帰って昼まで寝て、それからまた昼過ぎに出社」

「編集って想像してた通りに激務ね。まあ総務も総務で忙しいけど、終電までには帰れるし」


 話しながら近くのコンビニに入ると、巻さんは自分の買い物のために俺から離れて行く。

 俺はとりあえず、夜食のための菓子パンをカゴに入れた。夜食はカップ麺もあるが、何か甘い物が欲しかった。

 菓子パンを一個カゴに入れてから、眠気覚まし用のドリンク剤を一本追加する。


「そういえばさ」

「うわっ!」


 ボーッとしていたら、真横から巻さんの声が聞こえて体を跳ね上げる。そして、巻さんの方を向くと、露骨に不満そうな巻さんの顔が見えた。


「声掛けてビビるとか酷すぎ」

「ごめん。少しボーッとしてて」

「話の続きなんだけど、営業の間宮にご飯に誘われてさ~」

「彼氏居るんだから断れば?」

「いや、彼氏とは別れたからそこは別に問題じゃないんだけど」


 さらりと彼氏との別れを口にした巻さんは、特に感傷的になっている様子もなく目を細める。


「私、間宮に好かれてるみたいでさ」

「そうなんだ」

「でも、私のタイプじゃないし」

「じゃあ、断るんだ」

「いや、おごってくれるなら一回くらい一緒にご飯食べるくらいは良いかなって」


 これは何の話なんだろうとは思いながらも、無難な受け答えに徹する。俺に男女間の問題を相談されても困る。


「だけど、あの手の男ってご飯行ったらそのままホテル行けるとか勘違いしちゃうタイプっぽいから。ご飯行ったらオーケーだって思い込んでる経験浅い感じの男? いや、あいつもしかしたら童貞?」


 腕を組んで勝手に首を傾げながら話す巻さんから、視線を目の前の栄養ドリンクに向ける。


「多野はどう思う?」

「少しでも危ないって思うなら、はっきり断って関わりを断った方が良い。勘違いした男は何するか分かったものじゃない」

「男の多野にそこまで言われるとは思ってなかったけど、だよね~。やっぱ断ろ~」


 何で巻さんに男女の相談をされたのか分からないが、巻さんの中で解決したようで、それでその話は続かなかった。


「うちの元彼さ。新人研修中に浮気してやがったの。そんで、その浮気相手とくっついた」


 話が途切れてから再び口を開いた巻さんは、いつも通りの軽口だった。でも、本当に話したかったのはその話なんだろう。


「まあ、離れた時に嫌な予感はしてたけどさ。ちょっと離れたくらいで他の子に目移りするなんてあり得ないわって思って、電話で別れたのよ」

「まあ、別れて正解だったんじゃないか」

「多分そう。今、全然引きずってないし、何より寂しさで間宮でもいいっかとか全然思わないし」

「それで? その話を俺にしたのはなんでだ?」

「多野は気を付けなよ。あんたの彼女、めちゃくちゃ美人でしょ? 離れてる時間が長くなったら他の男に取られるわよ」

「俺の彼女は大丈夫だよ。モテるのはその通りだけど、ちゃんと断ってくれる」


 俺は凛恋を信じている。凛恋は絶対に俺以外の男に目移りなんてしない。


「分かってないわね。恋人にとって寂しい思いをしてる時が一番ピンチで、奪おうとする側からしたら絶好のチャンスなのよ。これ、次のテストで出るから」


 そう言いながら、巻さんは俺のカゴにチョコデニッシュを一つ入れる。そして、俺のカゴに入っていたメロンパンを取った。


「コンビニに付いてきてくれたお礼にメロンパンおごってあげる」

「このチョコデニッシュは?」

「それは恋愛学の授業料よ」


 ニヤッと笑った巻さんが会計に歩いて行くのを見て、俺もあとからコンビニのレジに向かって歩き出した。

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