【三一三《打ち付けに》】:一
【打ち付けに】
凛恋の家にお邪魔して、凛恋の部屋でゆっくり腰を下ろした俺は目の前に並べられた沢山のクッキーとコーヒーを見る。
朝、新幹線に乗る前に凛恋へ電話をして朝一の新幹線で帰れることを伝えた。それで、凛恋の実家を訪ねたら、凛恋がクッキーを焼いていてくれた。
「凡人くん、お仕事お疲れ様」
「ありがとう。凛恋に会えて今週の疲れも癒やせそう」
さり気なく凛恋の腰に手を回して引き寄せると、凛恋は少し俯きながら頬を赤く染めた。
「私も会えて凄く嬉しい。でも、無理しなかった?」
「編集長が手が空いてる他の編集さんに仕事を回してくれたんだ」
「そうなんだ。いつも凡人くんが頑張ってるからだね」
「そうかな?」
「そうだよ。新入社員なのに凄く頼りにされてる。でも、やっぱり凡人くんが疲れないか心配」
「大丈夫だって」
「じゃあ、一週間会えなかった分、いっぱい甘えよう」
近付いて来た凛恋の体を支えながら唇を重ね、ゆっくりと手に力を入れて自分に抱き寄せる。
「凡人くん」
「ん?」
「今日の夜はどうする?」
「流石に泊まりは無理だろ?」
「ううん。お父さんとお母さんに、凡人くんが帰ってくるからお願いしますって頼んだから」
「じゃあ泊まりにしようか」
「うん」
真っ赤な顔で頷く凛恋は、赤ら顔のままゆっくりと頬にキスをして下から上目遣いで見る。
「格好良い」
「え?」
「本当に凡人くんって格好良い。凄くドキドキする」
俺は床の上に押し倒されて、上から凛恋が俺を見下ろし、ゆっくりと俺を抱き締める。
「私、凡人くんのこと好き過ぎるみたい。毎日会えなくて寂しい」
「俺も毎日会えなくて寂しい。家に帰る度に、凛恋が居ないから寂しくて辛い」
「凡人くん」
「ん?」
「私、通院が必要なくなったら、凡人くんのところに行きたい」
「凛恋? それって?」
「……一緒に住みたい。私達、同棲してたんだよね? 私、家事を頑張る。凡人くんが家に帰って来た時にご飯とお風呂を用意して、凡人くんの疲れをいっぱい癒やしたい」
「凛恋……嬉しいっ!」
凛恋を強く抱き締めて、凛恋が言ってくれた言葉に、凛恋が抱いてくれている想いに、全身を震わせる嬉しさが込み上げる。
記憶を失った凛恋の中で、俺の存在が大きくなっているのが分かる。凛恋が一緒に住みたいと自分から言ってくれるほど、俺が凛恋にとって掛け替えのない存在になれているのが嬉しい。
「凛恋が一緒に住みたいって言ってくれて嬉しい」
「住みたいよ。私、凡人くんの側にずっと居たい。凡人くんの側は凄く安心する。ずっとずっと、凡人くんとこうしてたい」
凛恋と抱き合いながらまたキスをして目を閉じる。
凛恋と触れ合うことは心地良くて、身を寄せ合って抱き締め合うことが嬉しくて、身を寄せ合って抱き締め合えることが堪らなく幸せだ。
「毎日泊まり込みなんて、雑誌編集の仕事って大変なんだね」
「俺は編集者ではないけど、編集さん達に関係する仕事だから、必然的に忙しくなるよ。まあ、それだけ頼りにしてくれてるってことだし、それにやり甲斐はあるから」
「凡人くんの雑誌面白いよね。特に、毒舌編集者のコラムとか」
そう言った凛恋がニヤッと笑うのを見て肩をすくめる。
「後から見ると、結構辛辣なこと言ってるなって後悔することもあるんだ。担当編集の人が面白いからそのまま出すって言うし、編集長からは変に萎縮したらコラムの面白みがなくなるから遠慮するなって言われるし」
「でも、男性目線の話って女性は気になるものだと思うよ。だから、凡人くんのコラムを見て、恋愛の参考にしてる人も多いと思うし、単に見るだけでも男の人ってこういうこと思うんだって知れて面白いし。私も凡人くんにとって嫌な女性にならないように参考にしてるし」
「凛恋が嫌な女性になる訳ないだろ。凛恋が何しても俺は凛恋が好きだ」
「私も凡人くんが何しても凡人くんのこと大好きだよ?」
互いに好きな気持ちを言い合って体を起こし、凛恋と一緒に凛恋が焼いてくれたクッキーを食べる。
いつか凛恋が通院の必要がなくなったら一緒に同棲する。そして、同棲期間が一年くらい続いたら凛恋に言おう。結婚してほしいと。
本当なら卒業と同時にするつもりだった。だけど、凛恋の事故後はそんな状況じゃなかったし、何より凛恋自身が俺との結婚を考えられる状況じゃなかった。
もう一度、最初から凛恋と向き合おうと、もう一度好きになってもらうところから始めようと思った時に、すぐに結婚なんて話になれるとは思ってなかった。だから、今、凛恋の気持ちが俺と一緒に居られるようにと考えてくれているのが嬉しかった。
「凡人くん」
「ん~? ――ッ!」
不意打ちのキスをした凛恋は、俺の顔を見てクスっとからかうような笑みを浮かべた。
「顔真っ赤の凡人くん、凄く可愛くてずっと見てたい」
「凛恋が不意打ちでキスするからだろ? いきなり可愛い凛恋の顔が近付いてくるからびっくりした」
「ありがとう。凡人くんは可愛い可愛いって私のこと言ってくれるね」
「凛恋は実際に可愛いんだから、可愛いって言うのは当たり前だろ?」
「でも、世の中の男の人はあまり可愛いとか言わないって聞くから。凡人くんが私の彼氏で良かった。凡人くんに可愛いって言われるとすごく嬉しいし、すごくドキドキする」
「可愛いよ。めちゃくちゃ可愛くて堪らなくなる」
「ダ、ダメだからね。お父さんもお母さんも居るんだし」
「分かってるよ。夜まで我慢する」
「甘えん坊な凡人くんも可愛い」
凛恋の胸に顔を埋めて抱き付くと、凛恋が俺の頭を優しく撫でてくれる。
「凡人くん、大好きだよ」
上から聞こえる凛恋のその声に、俺は抱きつく手の力を強めて応えた。
また一週間が始まり、その初日も半分が過ぎて大分経ってから、俺は遅めの昼休憩を取っていた。
今日の仕事は泊まり込みの必要があるほどではない。それはかなり珍しいことだが、どうせなら地元に帰る金曜がこうであってほしかった。週始めに早く帰れても、誰も居ない家に帰るだけだ。
「ん?」
買って来たコンビニ弁当を食べながらふとスマートフォンを見ると、理緒さんからメールが来ていた。内容は『今日、少し会えない?』というシンプルな内容だった。
丁度今日は残業はしても泊まり込みにはならない。だから、理緒さんと夕飯を食いながら話をするくらいは出来る。
「凡人くん」
「はい」
理緒さんに返信を打とうとしていた時、横から美優さんに声を掛けられた。
「今日、残業はどれくらいしていく?」
「三時間くらいです。それくらいで良い区切りになりそうな量なので」
「そうなんだ。私もそれくらいで終わりそうなんだけど、仕事の後に少し付き合ってくれないかな?」
「すみません。ちょっと高校の友達から今日会えないかって言われてて」
先に約束していた訳ではないが、先に誘いがあったのは理緒さんの方だ。美優さんの誘いの理由も気になるが、理緒さんの話が先にあった以上、理緒さんを優先しないといけない。
「そうなんだ」
「何か大事なことですか?」
断った後、美優さんが視線を落として表情を暗くする。それは誘いを断られたということを残念に思っただけなのかもしれない。でも、何となく気になってしまった。
「ううん。大事なことではないんだけど、少し話がしたいと思ってて。予定があるなら仕方ないから。また別の機会にするね」
「すみません」
「謝らないで。凡人くんは何も悪くないんだから」
両手を振って笑顔で自分の席に戻った美優さんを見送り、俺は理緒さんへ今日の残業終わりなら会えるというメールを返信した。すると、すぐに返事が返ってきた。
『ありがとう。残業が終わったら電話してもらえる?』
『二一時は過ぎると思うけど大丈夫?』
『大丈夫。じゃあ、私は今から収録頑張ってくる。凡人くんは仕事頑張り過ぎないようにね』
理緒さんの返信を見て、自分は頑張るのに俺は頑張っちゃダメなのかとちょっと笑ってしまう。でも、それは理緒さんが俺に気を遣ってくれているからだ。
『ありがとう。理緒さんも頑張り過ぎないように』
返信を終えてスマートフォンを机に置いて、コンビニで買った少し温くなったコーヒーを飲む。
女子アナウンサーになった理緒さんは、テレビ番組に出るようになって一躍有名人になった。女子アナウンサーという職柄の人が有名になるのは当然だが、理緒さんはその中でも可愛い新人女子アナウンサーとして話題になっている。
昔から女子アナウンサーは美人な人や可愛い人が多い。俺は女子アナウンサーが美人や可愛くなければいけないとは思わない。でも、テレビ局としては女子アナウンサー目当てに番組を見る人も居るだろうから、人気の出そうな容姿の良い人を採用するのも仕方ないと思う。ただ、理緒さんは可愛いだけじゃなくて頭も良いし機転も利く。そういう能力も女子アナウンサーという仕事には必要な能力なのかもしれない。
「そう言えば、男と飯になんて行って良いのか?」
もう約束した後になって、ふとそのことに思い当たる。
まだ理緒さんは新人アナウンサーだ。でも、世間の人達から浴びている注目は、他の人気女子アナウンサーの人達と変わらない。そんな理緒さんが男と二人で食事なんて良くないのではないかと思う。
『今思ったけど、男と飯なんて行って良いのか?』
やっぱり良くないのではないかと思ってメールを送った。すると、すぐに理緒さんから返信がきた。
『気を遣ってくれてありがとう。でも、全然問題ないよ。友達とご飯に行くだけだし。一々そんなこと気にしてたら何も出来ないよ』
「まあ、そりゃそうだよな」
理緒さんの返信を見て小さく息を吐く。
理緒さんの言う通り、色んなことを気にしていたら何も出来なくなる。
『ごめん、気にし過ぎたみたい。終わったらまた連絡する』
『うん。じゃあ、楽しみにしてるね』
メールを終えて再びスマートフォンを机に置く。そして、早めに昼休憩を切り上げて仕事へ戻った。
残業を終えて、俺は理緒さんと合流するために電車を降りる。
夕方の帰宅ラッシュ時間は過ぎているのに、電車の中は会社帰りの人達で混雑していた。日頃、二一時過ぎに電車に乗ることがないから、いつも混んでいるかは分からない。
待ち合わせ場所に指定された駅前の広場に行くと、すぐに後ろから肩を叩かれた。
「理緒さん、ごめん。待たせた?」
振り返ってすぐに見えた理緒さんに謝ると、理緒さんは笑って首を横に振る。
「全然待ってないよ。私も今来たところ」
「とりあえず歩く?」
「うん。お店行きたいところがあるんだけど、私が決めちゃって良い?」
「そうしてくれると助かる。実は何も場所とか考えてなくて」
「私が誘ったんだから気にしなくて良いのに。じゃあ行こっか」
歩き出した理緒さんに付いて行くと、隣を歩く理緒さんがクスッと笑って俺を見た。
「実は今日、仕事終わりに家に帰る時間があったんだ」
「そうなんだ」
「だから、パンツからミニスカートに着替えて来ちゃった。凡人くんが喜ぶと思って」
「理緒さんは俺をなんだと思ってるんだよ……」
「ミニスカート好きの人」
からかう笑みで言う理緒さんに目を細めると、理緒さんがニコッと笑って軽くウインクをした。
「ごめんごめん。お詫びにおごるから」
「それは嫌だ。せめて割り勘にしよう」
「まあ、凡人くんならそう言うと思ってたけど。あっ、ここだよ」
歩いている間に目的地へたどり着き、理緒さんが先に店の中に入る。
「ゆっくり話したかったから、個室の店にしたの。凡人くんも個室の方が落ち着くでしょ?」
個室に入って座席に座ると、前に席があるのにも関わらず、理緒さんは当然のように隣へ座る。
「理緒さん?」
「凡人くんの隣が良いの。凡人くんは何食べる?」
「肉料理にしようかな。結構お腹減ってて」
「私は野菜料理にしようかな。ちょっと時間が遅いし」
「女子アナになると、より一層人目を気にしないといけなくて大変だな~」
「沢山の人の目を気にしてる訳じゃないよ。私は、凡人くんにだけ可愛いって思ってもらえれば良いから」
「理緒さんのことは可愛いと思ってるよ」
「ありがとう。凡人くんに可愛いって思われてると嬉しい」
料理が運ばれて来ると、理緒さんがワインの入ったグラスを持ち上げる。
「お仕事お疲れ様」
「理緒さんもお疲れ」
乾杯してから一口ワインを飲んで息を吐く。すると、横から理緒さんが俺の顔を覗き込んだ。
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