【三一一《変わらないもの》】:一
【変わらないもの】
須藤の一件から二日経ち、編集部もいつも通りの忙しさと慌ただしさになった。
あの日、美優さんの部屋に行ってロールキャベツをご馳走になった日、美優さんが俺に言った言葉が胸の中に残っている。
一日休んだ美優さんは、休みが明けても休む前と変わらない様子で真面目に一生懸命仕事をしている。須藤のセクハラの件なんて何もなかったように自然だった。それに……美優さんの部屋でのことなんて何もなかったようにも自然だった。
仕事もいつも通り定時で終わる訳がなく、残業をしても終わらない。
深夜の休憩のために簡単にデスクの上を片付け、家から持って来たおにぎりを食べる。
「凡人くん、スープ飲まない?」
「美優さん? スープですか?」
「うん。インスタントのだけど持って来たの。サンドイッチもあるから良かったら食べない?」
「えっと……」
二日前のことを意識してしまって上手く美優さんと話せないし目を見て話せない。
美優さんのことを好きだと自覚した時と同じような感覚だった。
「はい。簡単なたまごサンドときゅうりとレタスのサンド。夜だしあまり重たいのは良くないと思って。凡人くん、おにぎり二つじゃ足りないでしょ?」
俺の隣に椅子を持って来た後、美優さんはスープを入れるためにポットの元まで駆けていく。
「お待たせ。紙コップだけど」
「すみません」
「ううん。今日も大変だよね」
隣に座った美優さんが自分の分のスープを飲みながら微笑む。
「凡人くんには私の仕事のフォローもしてもらったし、いつか恩返しするから」
「無理しないで下さい。美優さんに無理せないために負担を分散させたんですから」
「ありがとう。凡人くんが頑張ってくれたから凄く助かった。夜食だけじゃなくて、今度しっかりお礼させて」
「気にしないで下さい。サンドイッチをご馳走してもらったし、ロールキャベツも――」
「美味しいお肉くらい強請って良いんじゃない?」
後ろから絵里香さんがそう言いながら、俺の美優さんの間から手を伸ばしてサンドイッチを一つ手に取る。
「美優。良いお肉おごってあげなよ」
「いや、そんなことをしてもらうようなことはしてませんって」
絵里香さんは何故か美優さんに俺へ肉をおごらせようとする。その絵里香さんに否定をしていると、隣でサンドイッチを食べていた美優さんが微笑む。
「ご馳走するよ?」
「いえ、でも俺には凛恋が居ますから。女性と二人でって言うのは……」
「何言ってるのよ。私とも昼一緒に食べたりするじゃん」
「仕事の流れでは行きますけど、プライベートでは――」
「美優のも仕事のお礼なんだから、別に問題ないじゃない」
仕事の途中で一緒にご飯を食べるのと、予定を合わせてご飯に行くのは違うと思う。
「凡人くん、本当に一度ご馳走させてくれないかな? 凡人くんには凄く迷惑を掛けたし、何かしないと気が収まらないっていうか……」
「気にしなくても――」
「凡人くん、女にここまで言わせて断るのはないわ~」
「彼女が――」
「別に一緒にご飯行くだけじゃん。もしかして…………美優のこと好きとか?」
ニタニタ笑ってからかう絵里香さんに目を細める。そういう冷めた反応をするのが今は正解だ。
「ごめんごめん。お邪魔虫は退散するわ~」
サンドイッチをもう一つ手に取った絵里香さんが歩いて行くのを見送って、俺は美優さんが入れてくれたスープを飲む。
「本当にダメ?」
「え?」
「ご飯の話。やっぱりどうしても凡人くんにしっかりとしたお礼がしたくて。ダメかな?」
「凛恋がいいって言えば」
断り文句が尽きて、俺は苦し紛れにそんなことを言った。それに、美優さんは首を傾げて俺の顔を覗き見る。
「凡人くんから聞いといてもらえる?」
「分かりました」
今は深夜だから流石に凛恋へ連絡は出来ない。明日、家に帰ってから電話をしてみないといけない。
「そろそろ休憩も終わりにしないと」
「そうだね」
休憩を切り上げてパソコンへ向かうと、自分の席に戻った美優さんと絵里香さんが何かを話していた。でも、人の話を聞くのは良くないし、何より話を聞いていたら仕事が終わらなくなってしまう。だから、俺はパソコンの画面に視線を向けて、週末に帰る余裕を作ろうと必死にキーボードを叩いた。
金曜の定時前、俺は一旦パソコンから手を離して小さくため息を吐いた、
仕事が終わらない。定時では当然終わらないし、泊まり込んでも終わらない。
仕方がないのは分かってる。仕事なんだから、責任を持って取り組まないといけない。
「多野。休憩しなさい」
「はい」
後ろから古跡さんに声を掛けられて、キーボードから手を離して視線を下げる。
一旦編集部から出て、廊下で凛恋に電話を掛ける。
『凡人くん、お仕事お疲れ様!』
「凛恋、お疲れ様。……実は、仕事が今日終わりそうにないんだ」
『えっ……じゃあ、帰って来られない?』
「いや……明日の朝帰る。それまでに絶対仕事終わらせるから」
『うん、待ってる。……凡人くん』
「何?」
『私、もう杖なくても歩けるようになったよ』
「本当に!? やったな!」
『ありがとう。まだ長い距離は無理だけどね』
凛恋の声を聞くと落ち着くし仕事の疲れは取れる。でも、会えないことに途方もない寂しさを感じる。
「絶対に明日帰るから」
『うん! 凡人くんはお仕事頑張って!』
「凛恋が励ましてくれたから頑張れる。じゃあ、明日」
『うん! 待ってるね』
凛恋と電話を終えて気合いの入った俺は編集部に戻って仕事をする気で居た。でも、編集部のドアを開く前に古跡さんから休憩しろと言われたのを思い出す。このまま帰っても当然仕事はさせてもらえない。
「凡人くん、今から休憩?」
「はい。古跡さんに休憩しろって言われて」
丁度編集部に戻って来た美優さんと廊下で出くわす。その美優さんは、両手で大きな袋を提げていた。
「私も今からだから一緒に休憩しよう。外に出た帰りにパン買って来たの」
「編集部にですか?」
「うん。あっ、でも、別にこの前のことで迷惑掛けたからとかじゃなくて、美味しいパンだからみんなに食べてほしくて買って来たの」
「そうですか。みんなお腹減ってるでしょうし喜びますよ」
「凡人くんの分もあるから一緒に食べよう」
「ありがとうございます」
美優さんと一緒に編集部に戻ると、絵里香さんが俺と美優さんを見てニヤッと笑う。
「二人でどこ行ってたの~?」
「私が戻って来た時に廊下で会っただけだよ。みんなにパン買ってきました! 食べて下さい!」
みんなに声を掛けた美優さんが、大きなビニール袋からパンが個包装された小さなビニール袋を取り出して差し出す。
「凡人くんにはこれ。メロンパンとカレーパンとソーセージパン。凡人くんが好きそうなパンを選んできたから」
「ありがとうございます」
美優さんからパンを受け取って席に戻ると、目の前にコーヒーの入ったマグカップが置かれる。
「凡人くん、お疲れ様」
「木ノ実さん、ありがとうございます」
「ううん。いつも凡人くんが気を利かせて淹れてくれるから、今日は私の番かなって」
「すみません」
「今日はいつも以上に根を詰めてたからね。何かあったの?」
「今日の新幹線に間に合えばと思ったんですけど、どう頑張っても無理なのは分かってたんで……。でも、明日の朝一の新幹線には間に合わせたいです」
「凛恋ちゃんのところに行きたかったんだ」
「はい……」
仕方がないとは言え、改めて思うと悲しい。
「もう学生じゃないんだから、自由に使える時間がなくなるのは分かってるんです。だから、今の状況が仕方ないことも」
「編集部は営業とか総務に比べて激務だからね。営業と総務は、残業したとしても日付が変わるまではやらないし」
「やり甲斐はありますから」
「うん。私は編集者になれて凄く良かったと思ってる。まあ、中々時間が他の人と合わないから大変だけどね。食事とか遊びに誘われても大抵行けないし」
パンを食べながらコーヒーを一口飲むと、スマートフォンが震える。
スマートフォンを手に取って届いた凛恋からのメールを開く。
『さっきの電話で言い忘れてたけど、お父さんとお母さんに"泊まり"でデートしてくるからって言ってるから。楽しみにしてるね』
可愛らしいハートが添えられたそのメールの、妙に強調された『泊まり』の文字にテンションが上がる。
泊まりということは、つまりはそういうことだ。
『"泊まり"でデート、俺も楽しみにしてる。めちゃくちゃやる気出た!』
そのメールを返信すると、すぐに凛恋から返信がくる。
『凡人くんのエッチ~。でも、やる気出て良かった』
凛恋からの返信を見て、思わず顔がニヤけてしまう。
「なんか良いことあったの?」
「はい。凛恋からのメールに良いことがあって」
木ノ実さんに答えながらスマートフォンを仕舞いパンに噛り付く。
「遠距離恋愛はどう? 辛くない?」
「辛いですよ。めちゃくちゃ寂しいです」
向かい側から話し掛けてきた絵里香さんに答えると、コーヒーを一口飲んだ絵里香さんが肩をすくめる。
「私は無理だな~。高校から大学に進学した時も、彼氏と遠距離になってすぐに別れたし。やっぱり、遠くの彼氏よりも近くに居る良い人の方が寂しさ埋めてくれたし」
「辛いし寂しいけど、俺には凛恋しか居ませんから」
笑ってそう返すと、首を傾げて絵里香さんが笑う。
「私のこと試してみる~?」
「絵里香さん、それ女性が言ってもセクハラですよ」
からかって来る絵里香さんを躱そうとすると、ニヤッと笑った絵里香さんが俺から視線を外す。そして、絵里香さんの隣に座った美優さんに向けた。
「じゃあ美優は? 私より純情よ?」
「それもセクハラですよ。俺にじゃなくて美優さんに対して」
今度は美優さんを巻き込み始めて、俺は目を細めて絵里香さんを見返す。
「でも、今の凡人くんは無理し過ぎじゃない? 今日もだけど、週始めからずっと頑張り続けてるじゃん。それって、地元に帰って彼女に会う時間を作るためでしょ? だけど、そうやって頑張り過ぎると疲れるでしょ」
「彼女に会うためなら頑張れますよ」
「そうだけど、それが続いたらいつか無理が――」
「絵里香しつこい。凡人くんと八戸さんの問題だよ。絵里香が口を挟むようなことじゃない」
美優さんが絵里香さんをたしなめてくれて、絵里香さんは肩をすくめて体を縮ませた。
この後、休憩を終えたら追い込みがある。
今日は帰れなかったが、頑張れば土日に出て来る必要はない。それを狙って、今日の出勤で絶対に仕事を終わらせる。それに、明日帰れれば凛恋と泊まりのデートが出来る。
自分でも泊まりと聞いてテンションが上がったのは単純だと思うし、かなりがっ付き過ぎだと思う。だけど、凛恋から誘われたのが凄く嬉しかった。
「多野、ちょっと良い?」
「はい」
仕事に取り掛かろうとすると、後ろから家基さんに声を掛けられた、
「ライターとの打ち合わせが明日になったの。打ち合わせ用の資料とか出来てる?」
「え? そのライターとの打ち合わせって、どのライターさんですか?」
家基さんの仕事予定をパソコンに表示させると、家基さんは来週に入っていたライターさんとの打ち合わせを指さす。
「明日入ってたライターが都合が合わないらしくて。それで、明日空いてる時間をどうしようか色々連絡を取ってたら、このライターが時間が合うらしくて」
「いや……流石に来週の資料はまだ……」
「作っといて」
「…………」
打ち合わせの資料は大抵テンプレートがあるから、そのテンプレートの内容をちょこっと編集するだけで良い。でも、今の状況でもう一つ仕事が増えるのはキツい。
「多野? 聞いてた? 資料必要だから作っといて」
「…………分かりました」
「あのっ!」
俺が返事をした直後、美優さんが立ち上がって家基さんを見る。
「家基さん、ちょっとそれ酷いです。飛び込みの仕事を入れたのは家基さんの都合なのに何も謝らないなんて」
「は?」
振り返った家基さんが、立ち上がった美優さんを睨み返す。
「美優さん、ありがとうございます。俺は大丈夫ですから」
「多野。あんたちょっと黙ってなさい」
口を挟もうとした俺の肩を押して家基さんが椅子に座らせる。でも、明らかにトラブルになるのが分かっているから、もう一度立ち上がって止めに入る。
「仕事はちゃんとやります。だから、戻って下さい」
「仕事をちゃんとやるのは当たり前よ。それよりも、田畠が生意気な口利いたのが許せないわ。多野、気を付けた方が良いわよ。あいつ、あんたのこと狙ってるから」
何か苛立っているのか、今日の家基さんはいつになく沸点が低い。
「家基さ――」「年下にキレてみっともな」
家基さんを落ち着かせようとした俺の言葉に被さったのは絵里香さんの声だった。その絵里香さんに家基さんは詰め寄ろうと動き出す。
「家基さん、止めて下さ――」
「平池、田畠、二人とも外に出なさい」
「家基さん止めて下さい。絵里香さんも美優さんも止めて下さい」
立ち上がって睨み合う家基さんと、絵里香さんに美優さん。その三人をどうにか止めようと間に割って入って近付けさせないように努める。
「多野は退きなさい。こんな小娘二人に舐められて黙ってる方が問題なのよ」
「舐めてる舐められてるの話の前に、凡人くんに無理言って何も謝らないのはおかしいです」
止めてくれと言ってるのに、美優さんが家基さんを睨み返して言葉を止めない。
「私は多野に仕事を振っただけでしょ」
「その仕事は一週間も先の仕事ですよね。そんな仕事終わってる訳ないじゃないですか」
「だったら今からすれば良いでしょ」
「凡人くんには、他にも締め切りの仕事はあるんです」
「他の仕事が差し込まれるなんて日常茶飯事でしょ」
「でも、今回の差し込みは家基さんが空いた時間を使いたかっただけですよね?」
「あんたと違って私はいくつも仕事抱えてるの。空いた時間がある方が問題なのよ」
「だったら、私達にうだうだ説教してる時間もないんじゃないですか? 今の時間に自分で資料を作れば良いじゃないですか」
言い争う家基さんと美優さんに絵里香さんも加わって、もう俺が止められるような状況ではなくなってしまう。
「あんた等、会社を何だと思ってる訳? 田畠は多野に色目使って、平池は露骨に多野と田畠をくっ付けようとして。会社は恋愛する場所じゃなくて仕事する場所よ。そんな学生気分で来てるようじゃ邪魔なだけ」
「自分がその年で彼氏も居なくて独身だからって若いうちらに嫉妬するの止めてくれません? 良かったら男紹介しましょうか? 年増のおばさん相手にしてくれるような男が何人居るか知りませんけど」
「平池。あんた明日から来なくていいわ。邪魔」
「そんな権限、家基さんにないでしょ。私は、仲間に負担掛けて平気な顔してる人の方が、仲間のモチベーション下げるだけで邪魔だと思いますけど?」
「止めろって言ってるだろッ!」
堪らず自分の椅子を蹴っ飛ばして怒鳴り声を上げる。その瞬間、編集部が静まり返る。
「俺、会議室で仕事します。こんなうるさいところでやってられませんよ。こっちは明日の朝一の新幹線に間に合わなくて焦ってるんです」
ノートパソコンを持って立ち上がり、会議室に入って椅子に座ってノートパソコンを開く。そして、ノートパソコンの向こうで肘を突いて俺を見ている古跡さんに視線を向ける。
「何で止めなかったんですか」
「多野は田畠の気持ちに気付いてたのね。家基が大人げないことして口走った言葉に驚いてなかった」
「…………」
「いつから?」
「もしかしてって思ったのは……去年仙台に行った時です。でも、確信したのは須藤のことがあった次の日、美優さんの家に行った時で」
「仕事をしながら聞いて良いわよ。仕事とは関係ない話だから」
「はい」
ノートパソコンのキーボードを叩き始めると、古跡さんが話し始める。
「前に巽さんと平池が揉めたのもそれ関連らしいわ。平池は田畠と仲が良いから、田畠のことを応援しているみたい」
「それ、俺に言ってどうするんですか?」
「こんなことを多野に頼むのは申し訳ないんだけど、多野が答えを出せばそれで田畠も区切りが付くと思うわ」
「告白されてないのに告白を断れってことですか?」
古跡さんが言ってるのは、俺の言葉通りの話だ。俺は美優さんに好きだと言われていないのに、その美優さんの気持ちを断らなければいけない。
「そうなの。でも、私からは断るつもりで気持ちがあるとは思わないわ。断る断らないの前に、答えが出てなくて迷ってるはず」
「俺には彼女が居ます」
「じゃあ何で、自分のことを好きだって分かってる女の部屋に行って、その女の手料理を食べたの」
ミスタイプをして打ち直しながら、首を横へ振る。
「あれは美優さんのことが心配で……」
「可能性を見せられると諦められないのよ。応える気がないならはっきり断るのも優しさ」
「でも……告白されてないのに……」
「迷ってるなら考えればいいわ。ただ、答えがあるなら言ってあげてほしいだけよ」
立ち上がった古跡さんは、俺の横に立って肩に手を置く。
「恋愛はあまり無理をし過ぎてはダメよ。無理をすると、絶対に上手く行かない。いつか、無理が出来なくなった時に全部崩れてしまうわ」
そう言って会議室を出て行った古跡さんを見送り、俺は視線をノートパソコンに集中させる。
自分からはどうにも出来ないこともある。余裕があれば、どうすれば良いか考えることも出来る。でも今は、何としても明日、朝一の新幹線に乗ることだけを考えないといけない。
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