【三一〇《感じてはいけない感情》】:三
「最初は食事に誘われるだけだったの。でも、食事じゃなくて直接ホテルに誘われて、それも断ったら誘いを受けないと原稿は出さないって言われて……」
「警察が入ってくれましたし、もう月ノ輪出版には一歩も入れませんよ。それに美優さんにも一歩も近付けません」
「今まで、男の人のライターさんとは沢山仕事をしたけど、須藤さんみたいな人は初めてで、証拠を集めることしか出来なかった。相談出来なかったのは、仕事に影響が出るのもそうだけど……セクハラを受けてるなんて言えなくて……」
「……すみません。自分から言うのは勇気が要りますよね。それなのに、俺は――」
「でも、相談するならって考えたら、真っ先に頭に浮かんだのは凡人くんだった。だけど、すぐに相談しちゃいけないって思った相手も凡人くんだった」
「どうして、俺はダメだったんですか? 確かに年下には言い辛いでしょうし、頼りなく映るかも――」
「違うよ……頼りになって、絶対に何が何でも解決しようとしてくれるからだよ。凡人くんがそういう優しくて頼りになる人だって分かってる。でも、今凡人くんは八戸さんのことで大変だから。毎週地元に通うなんてこともしてるのに、それに加えて私の問題まで背負わせたくなかったの……」
「それでも、相談してほしかったです。美優さんを含めて編集部のみんなはただの仕事仲間とは言い表せないくらい大切な存在なんです。俺は編集部のみんなに良くしてもらって、沢山大切にしてもらって今があるんです。そうしてくれた仲間が傷付いてるのに黙ってなんていられません」
「ありがとう。でも、もう大丈夫だよ。今日は古跡さんに休みなさいって言われたけど、明日からまた頑張る」
美優さんはグッと両手を握って分かりやすく気合いを入れたポーズをする。それはきっと、俺に気を遣わせないためにしてくれたんだと思う。
「凡人くん、ご飯食べた?」
「いえ、今から何か食べるつもりですけど」
「良かったら一緒に食べない? 昨日作ったロールキャベツが残ってるの」
「え? でも、悪いですよ」
「良いの。ちょっと作り過ぎちゃって。すぐに準備するね」
立ち上がった美優さんが準備を始めてしまい遠慮し切れなかった。
昨日は古跡さんに焼き肉弁当をおごってもらったが、仕事を終えてお腹が減っていた。
帰ってから俺が自分で食べる物と言えば、今から作ることを考えると適当にベーコンとかを刻んで作る簡単なチャーハンくらいしかない。
昨日は美優さんの分の仕事を片付けるために頑張ったし、今週末に地元に帰れるようにも頑張った。だから、腹はかなり減ってる。大変なことがあった後の美優さんのお世話になるのはどうかとは思うが、ロールキャベツなんて手の込んだ物は自炊してると食べる機会がない。
台所で準備をする美優さんの後ろ姿を見ていると、振り返った美優さんがはにかんだ。
「凡人くん、お腹鳴ってるよ」
「えっ!? す、すみません」
「ううん。遅くまで仕事してたんだし仕方ないよ。もう少し待っててね」
「いえ、急がなくても大丈夫です!」
申し訳なさに苛まれながら座っていると、目の前に美味しそうなロールキャベツとスープ、それから白いご飯が置かれた。
「私も朝ご飯にしよう。凡人くんも遠慮せずに食べて」
「すみません。頂きます」
「うん! 頂きます」
両手を合わせて美優さんが作ってくれたロールキャベツに箸を伸ばす。
取り皿に置いた綺麗に巻かれたロールキャベツに箸を刺すと、中からジワッと肉汁が溢れ出す。
「美味い」
「良かった」
お腹が減ってはいたが、空腹抜きで美優さんの作ったロールキャベツは美味しかった。
「本当は、凡人くんに持って行くつもりで作ったの。仕事終わりにご飯を作るの大変かなって」
「え? 俺にですか?」
「うん。鰹節と昆布で出汁をとって作ったの。自分で食べるんだったら、そういう手間は掛けずに市販の顆粒(かりゅう)出汁で作るから」
「大変な時に……。俺なんかのことよりも――」
「凡人くんがちゃんとした物を食べられるかなって不安だったのもだけど、料理してたら気が紛れたの」
「まあ、美優さんの気分転換になったなら良かったですけど……」
「本当に凡人くんは良い人だな~」
「はい?」
唐突に褒められて首を傾げると、美優さんは俺に向けていた穏やかな目を悲しげな目に変えた。
「人が良過ぎて心配になるよ」
「俺は良い人間なんかじゃないですよ」
「良い人だよ。良い人過ぎるくらい良い人。でも、それが凡人くんの良いところだし、編集部のみんなから可愛がられるところなんだよね。絵里香がよく話してるよ、凡人くんが可愛いって」
「絵里香さんのいじり相手としてでしょ?」
「それもあると思う。でも、なんか弟が出来たみたいだって言ってた。私は、凡人くんなら弟よりもお兄ちゃんだと思うけど」
ロールキャベツを食べながら話をして笑っていた美優さんが、また悲しげな表情をした。
「美優さん?」
「…………ごめん」
「無理しないで下さい」
本当は笑えるはずがないんだ。それでも、俺に心配させないように笑おうとしている。
「無理はしてな――…………」
首を振って否定する言葉を発している途中、美優さんは俯いて黙ってしまう。
「ううん……してるかも」
少し間をおいてからそう呟いて、床を四つん這いで移動した美優さんが俺の隣に座った。
「無理はしないで下さい」
「ありがとう。…………怖かった」
ギュッと俺の手を掴んだ美優さんがもたれ掛かって来て、体に力を込めて体重を預けてくる美優さんを支える。
「電話が掛かってくる度に体の話をされた。胸が大きいとかお尻の形が良いとか顔が好みだとか、そういう話をされて気持ちが悪かったし電話の向こうでクスクス笑ってる声が怖かった」
「もう大丈夫です」
「でも……凡人くんにだったら同じことを言われても平気だったと思う」
「美優さん?」
躊躇いがちに美優さんの手が俺の太腿に置かれ、美優さんが斜め下から俺の顔を見上げる。
「仙台で言ったこと、酔った勢いだけど思ってなかったことじゃないから」
「美優さん……それって……」
聞き返しながら、胸の奥がドクンッドクンッと脈打つのが分かる。そして、脈打つ自分の体温がカッと上がり、視線の先で見詰める美優さんから少し体を後ろに傾けて離れる。
このドキドキは感じて良いドキドキじゃない。このドキドキは忘れなきゃいけないドキドキだ。
「――ッ!?」
俺も美優さんも言葉を発しない時間が、鼓動で胸が押し潰される寸前にインターホンの音で途切れる。
「はい。古跡さん、わざわざありがとうございます」
俺から無言で離れてインターホンのパネルに近付いた美優さんの声を聞きながら、俺は立ち上がる。
「俺……帰りますね」
「うん。今日はありがとう」
美優さんに声を掛けてから、俺は早歩きにならないように玄関まで歩いて行く。そして、ドアを開けた先に居た古跡さんと目が合った。
「多野も様子を見に来てくれてたの。ありがとう」
「いえ、俺はこれで失礼します」
少し驚いた様子だった古跡さんに頭を下げて、すぐに隣の自分の部屋に入る。そして、内鍵を閉めてから、まだ鼓動の収まらない自分の胸に手を置いた。
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