【三一〇《感じてはいけない感情》】:二
「お飲み物は要りませんよね?」
「あの若い女に持って来させろ」
「申し訳ありません。巽はインターンシップでレディーナリー編集部に来ています。ですので、大学がある時間は不在です」
「だったら田畠に持って来させろ」
「先ほども説明しましたが、田畠は別件で席を外しています」
「私より大事な仕事がある訳ないだろッ!」
何を根拠にそんなことを大声で怒鳴れるのか分からないが、相当な自信家――いや、自意識過剰なのがよく分かる。
俺は須藤さんの正面に座って、これからどうしようかと考えた。きっとこのまま無言で須藤さんを刺激せずに古跡さんを待った方が良い。でも、さっきの美優さんの電話が気になる。
「随分興奮されているご様子ですが、田畠が何か失礼なことをしてしまいましたか?」
「あの田畠という女。私の原稿がつまらんとぬかしおったんだっ! あのまだ出版業界で経験の浅い――」
「私の勘違いでなければ、須藤さんの連載原稿はまだ第一稿が上がっていませんが? 田畠には第一稿を出したんでしょうか?」
「そんなことお前に分かる訳ないだろッ! 適当なことを言って俺をコケにするのかッ!」
真っ赤な顔で怒りの収まらない須藤さんに、俺は作ってもらった名刺を差し出す。
「私はレディーナリー編集部編集マネージャーという仕事をしています。その仕事の性質上、レディーナリー編集部の仕事の進捗状況全てを把握しているんです」
俺の名刺は受け取らないが、須藤さんはそれから腕を組んで仏頂面をしたまま黙った。
視線の先に須藤さんを捉え続けていると、打ち合わせ室のドアがノックされる。
「はい」
「古跡です。入ります」
思ったよりも早く古跡さんが来てくれて俺はホッと安心した。でも、その安心は部屋に入って来た古跡さんを見た瞬間に消え失せた。
部屋に古跡さんが入った瞬間、空気がピンッと張り詰める。そして、その空気を張り詰めさせている古跡さんは、今まで見たことがないくらいの怒りを顔に浮かべていた。
「この男じゃ話にならないと思っていたところだ。編集長、おたくの女編集は――」
「須藤芳彦様。本日をもってレディーナリー編集はあなたと今後お付き合いすることはありません。お引き取り下さい」
サッと血の気が引くような冷たく鋭い言葉に、須藤さんは目を見開く。しかし、流石ロビーで喚いていた豪胆さの持ち主だからか、すぐに表情を険しくして古跡さんを睨み返した。
「良いのか? そんなことをしたら、もう二度と月ノ輪出版では書かないぞ」
「こちらとしてはその方がありがたいです。これ以上、私の大切な部下を傷付けさせません」
口を挟める雰囲気でない。でも、今の状況で古跡さんが言った“大切な部下”は俺じゃない。きっと美優さんのことを言っている。
「傷付けた? 何を根拠に――」
「田畠を個人的な食事に何度も誘いましたね。それに卑猥な内容の電話を掛けもした。白(しら)を切るは無理だと思って下さい。田畠がスマートフォンに貴方との電話の内容を全て録音していました」
「なっ……私は打ち合わせで――」
「原稿が欲しかったら一晩付き合え。先ほどそのような電話を掛けましたね。録音のデータを聞きました。既に法務部を通じて警察に通報しました」
「――ッ!」
「待てッ!」
古跡さんの言葉を聞いて、須藤がドアを勢い良く開けて外に飛び出す。でも、丁度入り口側に立っていた俺が後ろから飛び掛かって廊下の上に押さえ付けた。そして、俺は必死に……須藤の後ろ首を押さえる右手に力が籠もらないように耐えた。
今、自分の下に居る男が美優さんを怖がらせて傷付けた。純粋に良い雑誌を作ろうと頑張っていた美優さんに、下卑た目を向けて、その醜悪な思いの通りにしようと脅した。そんな最低野郎の首を今、俺は掴んでいる。
「誰か警備員を呼んでっ! 多野、ありがとう。しばらくそのまま押さえてて」
「はい」
心に沸き立った怒りが、部屋から出てきた古跡さんの声でスッと消えた。そして、俺は須藤の首を締め上げようとしていた右手の力をゆっくりと抜く。
古跡さんは須藤さんの前にしゃがんで、地面に押さえ付けている須藤を見下ろす。そして、古跡さんは、末恐ろしいドスの利いた声で言った。
「二度と田畠の前に現れるな。今度私の大切な部下を傷付けたら、こんなものでは済まさない」
古跡さんが話を終えた後、警備員が二人駆け付けて俺と入れ替わって須藤を連れて行く。その様子を見ていると、古跡さんが俺の肩に手を置いた。
「多野、ありがとう。田畠に取り次がなかった多野の判断は正解よ。よくやった」
「いえ。総務部の巻さんに取り次がない方が良いと言われたので」
「そうだったの。総務部のその巻さんに後でお礼を言わないと。でも、どうせ多野も誰に言われなくてもそうしたでしょ」
肩から頭に手を移動させた古跡さんは、ワシャワシャと荒く俺の頭を撫でて微笑む。
「多野がそういう仲間思いのやつだってことくらい分かってるわ」
残業の休憩中、俺は古跡さんに呼ばれて会議室に入った。すると、会議室には焼き肉の良い匂いが漂っていた。
「多野、お腹減ってるでしょ? 食べて」
「焼き肉弁当なんて貰うようなことしてませんけど」
「何言ってるのよ。あの最低男を取り押さえてくれたでしょ? 座って」
「失礼します」
古跡さんに勧められて席に座ると、古跡さんは隣で飲むゼリーを開けた。
「古跡さんが飲むゼリーを食べてる横で焼き肉弁当は食べ辛いんですけど」
「気にしないの。いくら娘が居る年齢って言っても、女なんだから色々と気にするのよ。多野は冷めないうちに食べなさい」
「ありがとうございます。じゃあ、お言葉に甘えて頂きます」
腹が減っていたのは間違いなく、俺は遠慮はしながらも焼き肉弁当を食べ始めた。
「家基から、多野が須藤の対応をしてるって聞いた時、すぐに田畠を問い詰めたわ。多野にははぐらかしたみたいだけど、私が問い詰めたら白状した」
「まあ、古跡さんに問い詰められたら無理でしょうね」
「……証拠は確保してたけど、もう少し早く相談してほしかったわ」
「すみません。俺も違和感を持ったのは今日で」
「多野が謝ることじゃないわ」
「美優さんは?」
「私が送って行ったわ。…………本当に田畠には申し訳ないことをしたわ。私が須藤をすんなり切ってればこんなことにはならなかった」
「あの……須藤は前任者にも同じことを?」
「いや、前任とは納得いかなかった須藤が替えろと言っただけだった。確認したけど、セクハラを受けたことはないと。家基か平池なら、こんなことにはならなかったかもしれないわ。田畠は人当たりが良いけど気が弱いところがある。それで何かを言い返すことが出来ずに、証拠を残しておくだけで精一杯だったみたい」
落ち込む古跡さんは、テーブルの上にため息を落とした。
「これで田畠が戻って来られなくなったら……」
セクハラが原因で休職や退職をする人は居る。セクハラを受けたことがトラウマになって、仕事場に来られなくなったり、仕事自体がトラウマを呼び起こしてしまったりするからだ。
「大学の教授ってどれだけ偉いんですかね……」
「テレビや雑誌で少し必要とされて思い上がったのね。どんな人だろうと、女性を傷付けることなんて許される訳がないのに」
「ああいう男を見るのは初めてじゃないですけど、何度見ても胸糞悪いです……。美優さんはただ良い雑誌を作りたいって頑張ってただけなのに。ああいう、良い物を作ろうとする気がない男に邪魔されて……」
「田畠には明日会いに行くわ。明日は休ませるつもりよ」
「じゃあ、美優さんの仕事で俺が出来そうな仕事はやっておきますよ」
「助かるわ。私にも回してほしいって言いたいところだけど……」
「レディーナリーの編集長がそんな暇な訳ないでしょう。ここは一番下っ端の俺に任せて下さい。焼き肉弁当も食べさせてもらったんでスタミナも付きましたし。ご馳走様でした」
弁当殻を片付けると、横でため息を吐く古跡さんに視線を向ける。すると、古跡さんは視線を向けずに話を再開する。
「私も昔は同じようなことがあったわ。社外社内どっちの人間からも。でも、私はそういう女を軽く見てくる人間を見返してやろうって常々思ってた。女ってだけで嘲れないくらい結果を出してやろうって思ってたわ。だけど……そう思えずに辞めていく人達も居た。寿退社って形を取れる人も居れば、自主退職をする人達も居た。その頃からセクハラは社会問題だったし、女性の権利もしっかりあった。でも、その頃よりも女性が働きやすくなったとしても、ああいう男は居なくならないわね……」
「男の中でもごく一部の人間なんですけどね」
「もちろん多野のことは信頼してるわ。多野の能力ももちろんだけど、女性編集達からの信頼を得てるっていうのも、多野がうちに欲しかった理由の一つだから」
「それ、初めて聞きました」
意外な理由に驚くと、落ち込んでいた古跡さんはやっと小さく笑った。
「女社会に上手く溶け込める男は早々居ないのよ。弾かれることもあるけど、大抵の男が雰囲気に慣れなくて自分から出て行く。でも、多野は上手くみんなの中に入ってくれて、それに大きな成果も上げてくれた」
「多分、凛恋のお陰ですね。昔の、凛恋と出会う前の俺だったらきっと弾かれてたか出て行ってたかですよ。高校一年以前の俺は、人と関わるのを避けてましたから」
「そうなの。だったら、八戸さんに感謝しないと。多野をここまでの人材にしてくれたんだから。八戸さんの体の方はどうなの?」
「もうすぐ退院出来るそうです。まだ杖無しでは歩けないですけど、通院してリハビリを続けながら、一般の生活に少しずつ慣れて行くことになります」
「元気になって良かったわね」
「ありがとうございます」
少し話をして、古跡さんは笑って椅子から立ち上がる。
「多野と話したら少し楽になったわ。ありがとう」
肩を軽く叩いた古跡さんが出て行った後、俺は座ったまま自分の右手を見る。
須藤に感じた怒り。それは、会社の大切な先輩を傷付けたことに対する怒りだ。それ以上でもそれ以下でもない。でも、心にはそうじゃないと言っている自分が居る。
俺が美優さんに感じた、凛恋と一緒に居るために忘れると決めた感情。それが、須藤を押さえ付けている時に蘇った。
純粋にその気持ちだけで動いた訳じゃない。でも、確かに怒りの理由の一つになっていた。
徹夜明けの朝、始発でアパートまで帰ってから、隣に住む美優さんの部屋のドアに視線を向ける。古跡さんが昨日、美優さんを今日休ませると言っていた。
美優さんに声を掛けようか迷っていると、美優さんの部屋のドアが開いた。
「キャッ!」
ゴミ袋を持った部屋着姿の美優さんが一瞬出て来てから、俺の姿を見てすぐに戻って行く。
「か、凡人くん!? 今帰り!?」
「はい。おはようございます」
ドアの陰に隠れた美優さんの声に返事をすると、そっとドアの影から美優さんが顔を覗かせた。
「そういえば、地震の時にすっぴんは見られてるんだった……」
「すっぴんでも美優さんは可愛いから大丈――す、すみません」
疲れているせいか、つい思ったことがそのまま口に出てしまった。
「ありがとう」
ひょこっと顔を出している美優さんが頬を赤くしてはにかみ、ドアの影から出て来た。
「凡人くん、少し話せない?」
「大丈夫ですよ」
「じゃあ、ゴミを捨ててくるから――」
「俺が捨ててきますよ」
美優さんが両手に持ったゴミ袋を取ると、美優さんが驚いた表情をした後にクスッと笑った。
「ありがとう。じゃあ、私はコーヒーの準備してるからお願いして良い?」
「はい」
上ってきた階段を下りて、美優さんから受け取ったゴミ袋をゴミ置き場に捨ててから戻る。そして、美優さんの部屋のインターホンを鳴らすと、美優さんがドアを開いた。
「入って」
「お邪魔します」
部屋の中に入ると、テーブルの上にコーヒーの入ったマグカップが二つ置かれていた。
「座って」
「失礼します」
カーペットの敷かれた床に座ると、両手でマグカップを持った美優さんがはにかんだ。
「古跡さんから聞いちゃった?」
「はい」
「うん……仕方ないよね。凡人くんには迷惑掛けちゃったし」
「なんで早く相談してくれなかったんですか? 俺じゃなくても、古跡さんとか木ノ実さんとか、先輩じゃなくても同期の絵里香さんでも良いじゃないですか」
「……私が我慢して、それで断り続ければ良いと思ったの」
「それで解決出来る訳ないで――……それで傷付き続けるのは美優さんだったんですよ?」
「でも証拠はちゃんと集めてたから。本当に危ないって思ったら相談するつもりだったの」
「俺はあの手の男には何度も遭遇してます。だから、ちゃんと警察とか会社とか、個人じゃない大きな組織から圧力を掛けてもらわないと止めないんです。美優さん一人で抱え込むなんて――」
「うん……私が間違ってた。止めてって言っても須藤さんは止めてくれなかった。それどころか、どんどんエスカレートして行って……」
コーヒーを一口飲んだ美優さんの両肩は小刻みに震えて、その震えを抑えるためか美優さんは自分の体を抱き締める。
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