【三一〇《感じてはいけない感情》】:一

【感じてはいけない感情】


 新幹線から降り、改札を抜けて空を見上げた。


「はぁ~……」


 一週間の仕事を終えて、何とか最終の新幹線に間に合えた。ただ、もう病院の面会時間はとっくに過ぎている。だから、今日は凛恋に会えない。

 実家に帰ろうと歩き出そうとした俺のスマートフォンに凛恋から電話が掛かってくる。俺は、画面に表示された凛恋の名前を見て小さく笑ってから電話に出た。


「もしもし。良いのか? 消灯時間は過ぎてるのに電話して」

『え~、いつもしてるでしょ? 今着いた?』

「ああ。これから家まで帰るところ。ごめん、面会時間に間に合わなかった」

『謝らないで! お仕事大変なのは分かってるから』

「凛恋に会いたい」

『私も会いたい。病院を抜け出せたら良いんだけど。あのね、凡人くんに話しておきたいことがあるの』


「何?」

『私ね、退院出来そうなんだ』

「え!? 本当に?」

『うん。今日のお昼に、お父さん達と先生達で話があって、退院してリハビリを通院しながら続けて行くことになりそうなんだ』

「おめでとう! 明日はお祝いに美味しいケーキ買ってく!」


 凛恋はまだ、自力でスイスイ歩ける訳じゃない。でも、意識が戻った当初から心配されていた怪我は良くなり、今は面会制限だってなくなっている。そう考えると、退院出来る流れになったのは納得出来る。


『まだまだ杖が手放せないけどね』

「それでも、病室から出られるのは良いだろ?」


 俺はそう言いながら、内心で「凛恋が御園先生と顔を合わせる機会も減る」と思っていた。

 御園先生は、今も変わらず凛恋に接している。それは担当医として必要な回診の頻度よりも多く、隙あらば凛恋と話をしようとしているようだ。

 多分、俺と凛恋が遠距離になっていることを知っているから、俺が居ない間に凛恋を俺から奪うつもりなんだろう。でも生憎だが、凛恋は去年のクリスマスの一件から御園先生のことを嫌っている。もちろん、患者と担当医の関係として必要な対応はするようだが、毎日電話で御園先生の愚痴を聞く。


『病室から出られることよりも、凡人くんに電話する時に布団に隠れてしなくて済むのが嬉しいかな』

「今も隠れてるのか?」

『うん。頭まで布団を被って音が聞こえないようにしてる』

「そっか。のぼせないように気を付けろよ」

『うん。でも、ちょっとドキドキする。秘密の恋みたいな感じがして』

「俺は言いふらしてほしいけどな。私には彼氏が居ますって。凛恋は可愛いからすぐ男に好かれるし」


『え~、そんなこと言ったら凡人くんだって凄く格好良いから心配。……私と会えない間に、凄く可愛い子とか綺麗な子から声掛けられてないかって……』

「そんな心配全くないから」

『そんなことないよ。きっと自分に自信のある人なら凡人くんに声掛けるよ。私は勇気出なくて想ってるだけだったけど……』

「まあ、俺も思ってるだけだったしな」

『そーだよ~。付き合ってるって言ってくれたら、彼女居ること考えて泣かなかったのに』

「え? 泣いた?」


 聞き覚えのない凛恋の話に、俺はニヤニヤと笑いながら聞き返してしまう。すると電話の向こうから、真っ赤な顔が想像出来る凛恋の恥ずかしがる声が聞こえた。


『だ、だって……凡人くんに彼女が居ること考えたら悲しくなって……』

「その彼女は凛恋だったけどな」

『だから、早く教えてほしかったの! ……ふふっ!』


 プリプリ怒る凛恋が電話の向こうで可笑しそうに笑う。


「からかったな~?」

『違う違う。一人で泣いてた頃は凄く悲しかったけど、今思い出すと可笑しいなって。でも、そう思えるのは今があるからなんだけど』

「これからもずっと一緒だから」

『うん! 凡人くんは帰ってゆっくり休んで。明日待ってるから』

「ああ。お土産も買ってきたから持っていく」

『お土産なんてよかったのに。私は凡人くんが来てくれさえすれば十分なんだよ? あっ……凡人くんが来てくれるだけじゃダメだった』

「えっ?」


 ほんの少し不安になった瞬間、凛恋がまたクスクス笑う声が聞こえ、凛恋は明るくいたずらっぽい声で言った。


『来てくれるだけじゃなくて、キスいっぱいしてくれたらもっと嬉しいかな』




 週末が過ぎれば、また一週間が始まる。その週初め――正確に言えば仕事が始まる最初の日の月曜。俺は目の前で頭を下げる美優さんに困惑していた。


「凡人くんごめんなさい。須藤さんの原稿、締め切りに間に合わないの」

「分かってます。そのつもりで毒舌男性編集Tの原稿はページ数の多い方も用意してるので」

「木ノ実さんも本当にごめんなさい」

「良いよ良いよ。須藤さんが結構気難しい人みたいだって聞いてるし、凡人くんからもきっと遅れるからそのつもりで動きますって聞いてるから。実際、凡人くんの記事はほとんど私の直すところはないから大した仕事じゃないから」

「ありがとうございます」


 俺と木ノ実さんに平謝りする美優さんが席に戻るのを見送って、俺は古跡さんの席を見る。

 今日は朝から会議が続いて古跡さんは編集部を空けている。本当は古跡さんに須藤さんに関して相談をしたいと思っていた。

 本来なら締め切り云々かんぬん言うのはまだ早い段階だ。でも、須藤さんは第一稿さえ上がってきていない。だから、美優さんは最終原稿の締め切りも間に合わないと確信して俺と木ノ実さんに報告しに来たんだ。


 ライターの記事が遅れることは珍しいことではないが、まだ第一稿も上がってこないのは遅すぎる。言い方は悪いが、記事を書く気がないとしか思えない。それに、今回は美優さんから依頼したテーマではなく、自分から書きたいと言い出したテーマだ。それなのに第一稿もまだというのは、美優さんだけではなくレディーナリー編集部がなめられている。


 一度須藤さんとレディーナリー編集部は揉めている。その件で、編集長の古跡さんは須藤さんを切るという決断をした。でも、それは須藤さんが連載している他誌の編集長から頼まれて実行されることはなかった。

 きっと須藤さんは思っているんだろう。自分が書かなければ編集部は困ると。それは、古跡さんが頼まれた他誌は困るのかもしれない。でも、レディーナリー編集部は須藤さんが書かなくなっても一切困らない。そこを一緒くたにされて傍若無人な振る舞いをされては困る。


「凡人くん、悪い人の顔になってるよ」

「いや……須藤さんのことを考えると腹が立って」


 木ノ実さんに声を掛けられて、俺は自分の椅子に座りながら呟く。すると、木ノ実さんは苦笑いを浮かべて肩をすくめた。


「ライターさんにも色んな人が居るけど、須藤さんはその中でもちょっと困った人だね。前のトラブルもそうだけど、今も自分から書きたいって言い出したテーマで遅れるなんて」


 須藤さんについて木ノ実さんと話をしていると、美優さんが電話の鳴ったスマートフォンを手にして席から立つ。

 編集のスマートフォンに仕事関連の電話が来ることは多々ある。でも、その場合は別に自分の席で受けたって問題ない。だけど、美優さんは席を立った。つまりは、プライベートの電話なんだろう。

 美優さんが席を立った後、俺はコーヒーを淹れるために席を立つ。すると、近くにある給湯室の方から美優さんの声が聞こえた。


「そういう話は困ります」


 困った様子の声だが、その声はただ困っているだけには聞こえなかった。ほんの少し声が震えていて怖がっているようにも聞こえる。


「本当に困ります。仕事以上のことは出来ませ――……お願いします。原稿を頂けないとこちらの仕事が進まないんです。……本当に困ります。“須藤さん”そういうことをおっしゃるのは止めて下さい」


 聞こえてくる美優さんの声が須藤さんの名前を呼んだのを聞いて、俺はとっさに給湯室に入る。すると、丁度電話を終えた美優さんと目が合った。


「凡人くんも一服? 私もコーヒーを淹れようと思って」


 美優さんは全くコーヒーを淹れる様子はない。それに、コーヒーメーカーは給湯室の外にある。お湯やコーヒー粉を足すためでなければ、給湯室まで入る必要はないはずだ。それに、さっき美優さんが須藤さんと電話しているのを聞いている。

 美優さんは須藤さんと電話をしていたことを俺に隠した。それは、会話の内容からも分かるが、俺や他の編集部の人に知られたくない話だからだろう。


「美優さん、何かあったんですか?」

「ううん。何もないよ。あっ! 今日のお昼何食べるか決まった?」

「いえ、まだ何も」

「じゃあ一緒に食べない?」

「良いですけど」

「じゃあ、お昼にまた声掛けるね」


 俺に話をさせないように、美優さんは矢継ぎ早に会話を切り上げて給湯室から出て行ってしまった。

 明らかに美優さんは須藤さんとトラブっている。そして、それを俺に隠した。

 きっと美優さんの性格を考えると、俺に限らず周りに心配や迷惑を掛けたくないんだろう。自分は俺に心配や迷惑を掛けると思わないでと言ってくれるのに、自分のことは周りに心配や迷惑を掛けないようにと考えてしまう。


 給湯室を出ると、美優さんは何事もなかったように自分の席で仕事をしていた。でも、俺の方をチラッと見てから視線をパソコンに戻す。その様子を見て、さっきのことは何も心配がないと忘れられる訳がない。

 昼飯の時に詳しく話を聞き出すか。でも、さっきみたいに話をはぐらかされて終わりな気がする。

 自分の席に戻ると内線が鳴って、すぐに受話器を取る。


「はい。レディーナリー編集部です」

『総務部の巻です。レディーナリー編集部編集マネージャーの多野凡人さんをお願い出来ますか?』

「はい。多野凡人は私です」

『なんだ、多野だったの』


 丁寧な口調で電話をしてきた巻さんは、相手が俺だと分かった瞬間にくだけた話し方に変わった。


『今、下に日本学殖大学の須藤って人が来てるんだけど、ちょっと頭おかしいから多野に任せようかと思って』

「俺に用事?」


 俺は視界に美優さんの姿を捉えながら、電話の向こうの巻さんに須藤さんの名前を出さずに尋ねる。きっと須藤さんの名前を聞いたら、責任感の強い美優さんは絶対に俺に任せない。でも、さっきの電話のことが頭の中で引っ掛かって、美優さんに行かせるべきじゃないと心の中の俺が言ってる。


『違う。多野の部署の田畠美優さんって編集を呼んでくれって言ってるの。でも、なんか怒鳴り加減だしアポもないし、なんかトラブルっぽいから女の人だとまずいかと思って。今はうちの先輩が対応してくれてるけど』

「分かった。今から行くから」

『頼んだ。今度ジュース一本奢ってよ』

「なんで俺が……」

『こっちは怒鳴られ損だからよ。多野のところの客でしょ? 責任取ってよね。んじゃよろしっく~』


 こっちの気なんて全くお構いなしに軽い感じで巻さんは電話を終わらせる。俺は小さくため息を吐いて席を立つ。


「家基さん、下に例の須藤さんが来てるみたいです。何か美優さんとトラブったみたいで、本人を行かせるとまずそうなので俺が行ってきます。まあ、俺が行っても火に油でしょうけど」


 とりあえず、誰にも話を通さず行動するのはまずい。でも、今は古跡さんは仕事で編集部を空けている。だから、編集部でもベテランの家基さんへ報告に行った。


「分かった。古跡さんの会議はもうすぐ終わる予定だから、古跡さんが戻り次第打ち合わせ室に向かわせる。少しの間耐えてくれる?」

「はい」


 家基さんに声を掛けてから編集部を出て、俺はエレベーターを使って一階まで降りる。

 エレベーターを降りてから受付まで行くと、制服姿の巻さんが俺を見付けて立ち上がる。そして、視線でロビーの端を指した。


「レディーナリー編集部の田畠を出せと言ってる。私はレディーナリーで連載を持っている日本学殖大学の須藤だ」

「須藤様。今レディーナリーの者が向かっているのでしばらくお待ちください」


 須藤さんに男性社員が丁寧に対応しているのを見て、一度ため息を吐いて覚悟を決めてから近付く。


「総務部の巻さんから内線をもらって来ました。レディーナリー編集部の多野です」

「ああ。こちらの須藤様がレディーナリー編集部に用事があるそうで」


 男性社員は俺の顔を見た瞬間に「助かった」とでも言いたげな顔をした。まあ、そう思う気持ちは分からなくはない。


「俺が呼んだのはこの小僧じゃない! 田畠を出せっ!」

「須藤さん、今、田畠は別件で手が離せません。それに大変申し訳ありませんが、編集長の古跡も席を外しています。古跡が戻るまで打ち合わせ室でお待ち頂けないでしょうか?」

「何だと!? 私を馬鹿にしてるのか! 私は学殖大学の須藤芳彦だぞっ!」

「須藤さん、これ以上騒がれると威力業務妨害で警察に通報しなければいけなくなります」

「何ィッ!? 私を脅すつもりかッ!」

「脅すつもりなんてありません。ですが、ここは他の来社された方々もいらっしゃいます。他の方々のご迷惑にもなるので、打ち合わせ室へお越し下さい」


 それ以上須藤さんに取り合わず、俺は打ち合わせ室に向かって歩き出す。

 このまま須藤さんが俺に付いて来なければ、ロビーで騒ぎ立てる以外には帰るしか選択肢はない。帰ってくれれば帰ってくれたで俺は良いが、多分このまま何も出来ずに帰るなんてことはしないだろう。


 案の定、俺の後ろからムスッとした不機嫌な顔をした須藤さんが付いてくる。その須藤さんを連れて打ち合わせ室のある階へ行き部屋の中へ通す。

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