【三〇九《再始動》】:二

「凡人くんが謝ることはないよ。ただ、私が許せなかっただけだから…………。ところで、八戸さんはどう?」

「リハビリは順調です。と言っても、まだ退院の目処は立ってませんけど」

「大きな怪我だったから長引くのは当然だよ」

「はい。凛恋が生きていてくれたことが何よりなので」

「八戸さんの記憶の方は?」

「戻る可能性がない訳ではないですけど、戻らない可能性が高いみたいです。でも、それでも俺は凛恋を守って行きます」


「そっか…………。凡人くんは辛くない?」

「全く辛くない訳ではないです。でも、記憶を失っても凛恋は俺のことを好きになってくれました。たとえ俺と凛恋の思い出がリセットされてしまったとしても、俺は凛恋自身が好きですから。だから、また凛恋と一緒に思い出を作って行こうと思ってます」

「でも、遠距離は辛くない?」

「毎週新幹線で帰ってますから。今はそれを楽しみに一週間頑張ってます」

「…………だけど、多分、毎週帰るのは難しいんじゃないかな?」


 美優さんは言葉を選びながら、恐る恐ると言った様子でそう言った。その言葉に、俺は少し俯いて頷く。

 インターンの時とアルバイトの時は定時で帰れることが時々あった。でもそれは、定時で仕事が終わった訳ではなく、俺がインターンやアルバイトだったから帰らせてもらっていただけだ。


 正社員になった今、編集部で働く以上、定時で帰れるなんてほとんどないだろう。定時どころか、編集部に泊まって徹夜なんてことばかりになるだろう。


「編集部全体の負担軽減のために凡人くんが居てくれてるけど、それでも全員が定時で上がれる訳ないし、せいぜい泊まりの回数が減るくらいだと思う。それでも凄く大きいことなのは確かだけど、凡人くんにとっては――」

「出来る限り帰れるように仕事をします。それこそ平日全部徹夜になっても、週末地元に帰れればそれで」


 凛恋に毎週行くと約束したし、俺自身が毎週凛恋と会いたいから帰る。そのために、平日のうちに出来る限り仕事を終わらせる努力をすれば良い。


「無理はしないでね」

「はい。美優さん達に心配を掛けるようなことはしませんよ」


 そう答えて料理を食べながら美優さんに視線を向けると、美優さんは俺をじっと見ていた。でもその目は、俺の言葉をあまり信用していないような目だった。




 窓から見える街は明るい。でも、それは街灯や自動車のヘッドランプ、店舗の看板照明みたいな人工的な光で明るいだけで、空は月もない真っ暗な闇だった。

 昼、美優さんとも話していたが、やっぱり定時で帰れる訳もなく、残業をやっても足りる訳はなかった。


 俺はいわゆる企画を立てる編集者としての仕事はない。編集の手を煩わせるような仕事をひたすらこなしていくのが仕事だ。

 深夜になると、ライターと言った外部の人とやり取りする仕事は少なくなる。だから、深夜は外部の人とのやり取りが必要ない仕事をする。


 今は、毒舌編集者Tのコーナーの原稿を書いている。

 毒舌編集者Tのコーナーは、木ノ実さんが担当をしていて、今は第一稿を書いているところだ。ここから何度か直しがあって紙面に載るレベルの記事になる。

 机に置いたスマートフォンには、凛恋から届いたメールが表示されている。


『お仕事、無理し過ぎないようにね』


 休憩時間に電話した後に送ってくれたメールで、そのメールを何度か見ながら仕事を頑張っていた。


「多野、休憩しなさい」

「はい」


 家基さんに声を掛けられて、椅子に座りながら背伸びをする。


「家基さん」

「何?」

「美優さんが担当してる須藤さんなんですけど、原稿の上がりが極端に遅いですね」

「他の雑誌でも書いてるとは言っても遅いわね」

「やっぱりそう思います?」


 須藤さんの担当してる文字数に対して、原稿の上がりが遅い。過去の上がりの時期を遡って見て、原稿を落としたことはないようだが、徐々に上がりまでの期間が延びている。


「このままの遅れ幅から考えると、次の原稿危ないですね」

「でも、そのための多野の毒舌編集者Tのコーナーよ」

「自社の社員がライターだからって、ページ数が急に変動するのはキツイっすよ」

「社員はそういうものよ。多野の記事は人気もあるし、正直もうちょっと増やしても良いんだけど、流石に負担が大きくなり過ぎるからね。ページが足りない時だけ無理してもらえれば良いわ」

「了解です。ちょっと夜食食べますね」

「何食べるの?」

「カップ麺ですよ」


 机の引き出しに安売りで買い溜めしていたカップ麺を取り出す。


「あんまりカップ麺ばかり食べると不健康よ」

「気を付けます」


 椅子から立って、編集部の電気ケトルを借りてお湯を沸かす。


「凡人くんお疲れ。カップ麺で夜食?」

「木ノ実さん、お疲れ様です。頭使うとカロリーが欲しくなって。今、毒舌編集の原稿やってます。退社までには上げますんで」

「うん。私のパソコンに送っておいて。はぁ~……毎回のことだけど、編集って忙しいね。凡人くんに大分楽にしてもらってるけど」

「まあ。俺がやってるのは編集補佐の発展したやつですからね」

「でも、凡人くんのその仕事が必要になるほど多忙になってるってことだよ。忙しいのはありがたいことだけど」

「木ノ実さんは夜食食べないんですか?」

「今日はヨーグルト食べるよ」

「ヨーグルトで足ります?」


 ヨーグルトと言っても、多分小さなカップに入ったやつだろう。俺ならそれだけで徹夜を乗り切れるとは思えない。


「凡人くんみたいにカップ麺なんて食べたらすぐ身に付いちゃうよ」

「女性は大変ですね」

「凡人くんも油断してるとメタボになっちゃうよ。じゃあ、私は戻るね」

「はい」


 クスクス笑って軽く俺の肩を叩いた木ノ実さんを見送り、俺はカップ麺にお湯を注いで席に戻る。


「いただきます」


 箸箱から箸を取り出してラーメンを食べ始めると、目の前で仏頂面をしながらサンドイッチを咥える絵里香さんが見えた。


「ふぇふぁふぉへふぉほぉ……」


 何か呟いてはいるが、サンドイッチを咥えているせいで何を言ってるか分からない。


「凡人くんズルい!」


 パソコンから視線を俺に向けた絵里香さんは、咥えていたサンドイッチを手に持って言った。


「カップ麺食べます? 何個か買い溜めしてたんで」

「良いの!? ありがとう! 今度返すね」


 席から立って俺の横に来た絵里香さんは、俺の引き出しからカップ麺を選んで持って行く。カップ麺に貸し借りが成立するかは分からないが、返すと言うところが絵里香さんの律儀さを感じる。


「やっぱりサンドイッチだけじゃ足りないわ~」

「でも、女性は夜食にカップ麺を食べるの気にするんじゃないですか?」

「いつもは我慢するけど今日は無理。昼から酷かったから。今回のライター、修正依頼を出しても聞かないのよ。変にプライドがあるのか譲らなくて」

「そこは絵里香さんの腕の見せ所ですね」

「もちろん真っ向勝負よ。いっただっきまーす」


 ニッと笑った絵里香さんは、カップ麺を美味しそうに食べ始める。


「凡人くんはどうなの?」

「今のところは順調です。ただ、美優さんの担当してる須藤さんの原稿が遅れそうなのが気になりますね」

「原稿落としたら落としたで、正当に切る理由が出来るから良いんじゃない? 代わりの記事は凡人くんが頑張って書いてくれるし」

「一度トラブったライターですからね。それに、うちで書けなくなったら他誌でも書かないって言ってるみたいですし。それでうちで書き続けてるんですよね?」


「そうだけどさ~。自分から書くって言って原稿落とすなら切られて当然でしょ。ライター全員が毎回きっちり締め切り守れる訳じゃないけど、編集とライターの信頼関係がなければ仕事は成り立たないし。原稿落とすって分かってるライターには仕事依頼し辛いし。それにねぇ~――」

「記事の出来があまり良くないんですよね。面白くない訳じゃないけど、女性誌向けじゃない」

「やっぱりそう思う?」


 俺の言葉に絵里香さんも同意する。

 俺は仕事の関係上、須藤さんの原稿を見る機会がある。その原稿は、男の俺が見る分には面白いと思う。でも、女性が読むことを考えると物足りなく思う。もちろん、そこを女性が読んでも面白い記事にしていくのが、担当編集である美優さんの仕事だ。


「毎回、何度もリテイク出してるみたい。だから、他のライターと比べて遅れるみたいよ。まあ、ライターの性格も問題あるけど。私の担当してるライターより頑固みたいだし」

「それは前に会った時の感じから想像出来ます。多分、自信家っぽいから、単にリテイク出してもダメそうですね」

「美優もその辺は理解してて、依頼する原稿のテーマの時点で何とかしてるみたい。ただ、今回はライターがどうしても書きたいテーマがあるみたいで」


「不倫についてでしたっけ? テーマ自体は女性も興味持ちそうですけど」

「ただ、ライターって付く人達は、自分の書きたいことが決まってると、原稿の修正になかなか応じてくれないのよね……。自分が最高に面白いって思う物を上げてくるから、出来栄えに一切不安を持ってなくて、こっちの意見を聞いてくれないし」


 その絵里香さんが少し不満そうな顔をしているのを見ると、どうやら絵里香さんも同じような状況らしい。

 ライターさんにも自分の書いた物に思い入れはある。その思い入れと記事としての面白さのバランスは難しい。でも、そこを越えて面白い記事が出来て読者からの反応が良ければ、ライターさんの筆も乗るし次の記事への意欲も上がる。


「そう言えば、美優さんが居ませんね」

「何々? 美優のこと気になるの~?」

「話題に出た美優さんが居ないから、どうしたのかなって思っただけですよ」


 分かりやすくからかう絵里香さんに笑いながら返すと、絵里香さんは視線を編集部の外へ向けてニヤッと笑った。


「ちょっとお花を摘みに行ってるのよ」

「そうですか」

「美優、凡人くんのスーツ姿をめちゃくちゃ褒めてたよ。格好良い格好良いって。それに、巽にも言われてたわね」


 自分で巽さんの名前を出した瞬間、絵里香さんは目を細めて明らかな不快感を露わにする。


「凡人くん、もうちょっと気を付けた方が良いよ。今日だって凡人くんにベタベタし過ぎだったでしょ。あれ、周りから見た凡人くんの印象も悪くなるよ」

「ベタベタはしてなかったと思いますけど? スーツ姿が珍しくていつもより話し掛けてくることが多かったくらいで」

「声も男誘うような声出して、上目遣いもめちゃくちゃ使ってたじゃん」

「はっきり断ってるんで、それ以上はどうしようもないですよ」


 椅子から立ち上がり、カップ麺を食べ終えて片付けるために給湯室に行くと、丁度美優さんが給湯室に入って来た。


「凡人くん、お疲れ」

「お疲れ様です」

「夜食にカップ麺?」

「はい。お腹減って」

「あっ……そっか。今、誰もおにぎりとか持たせてくれる人は居ないんだよね」

「自分で作れば良いんですけど、ちょっと面倒で」

「カップ麺ばかりだと体壊すよ」

「それ、家基さんにも言われました」


 肩をすくめて笑うと、美優さんがじーっと俺を見上げる。


「美優さん?」

「迷惑じゃなかったら、私がお弁当作ろっか?」

「え? いや、そんな心配しなくても大丈夫ですよ。一応、自炊はそれなりに出来ますし」

「でも時々は良いけど、これから毎日夜食にカップ麺を食べる訳にはいかないでしょ?」

「明日からは、おにぎり二個くらい握って来ますよ。心配掛けてすみません」


 カップ麺の空を洗い終えると、心配してくれていた美優さんが何かを言おうとして躊躇うように口を薄く開いて閉じる。そして、真剣な表情で俺を見た。


「お昼に言ってたけど、本当に毎週地元に帰るつもりなの?」

「え? はい、そうですけど?」

「…………私、止めた方が良いと思う」

「どうしてですか?」


 昼飯の時に、美優さんから凛恋との遠距離を心配されて、毎週帰るというのが難しいと話はした。毎週帰るのが難しいのは分かっているし、もしかしたら帰れないことがあるかもしれない。でも、俺は本気で毎週帰るつもりで頑張っている。


「凡人くん、いきなりペース上げ過ぎだよ。それって、週末に仕事が残らないように急いでるからだよね? そんな調子でずっとやってたら、必ず体に無理が来る。それに凡人くんならもう少しペースを落としても締め切りに間に合うよ。だから、もう少し――」

「でも、何かあった時に遅れが出たら、締め切りに間に合わなくなります。美優さんが心配してくれるのは嬉しいです。だけど、俺にとって凛恋は誰よりも大切な人なんです。俺は、凛恋との時間を大切にしたいから、出来るだけ長い時間凛恋と一緒に過ごしたいんです」

「だけど、それで無理をして凡人くんが倒れたら――」

「流石にそうなる前には力を抜きますよ。倒れて凛恋に心配を掛けたくないんで」


 洗い終わったカップ麺の空を持って給湯室から出ると、給湯室の近くで絵里香さんとばったり出くわす。


「わっ! ご、ごめん」

「すみません」


 急に出てきたからか、絵里香さんは目の前に居る俺を見て、身を仰け反らせて驚く。

 俺が絵里香さんの横を通り過ぎると、絵里香さんが入れ違いに給湯室へ入って行った。

 みんなに心配してもらうのは申し訳ない。でも、ちゃんとみんなに迷惑が掛からないように考えてはいる。


「さて、仕事に戻るか」


 終わらないと端から諦めて掛かったら終わるものも終わらない。だから、終わらせるつもりで仕事はする。たとえ、それが結構無理っぽいと思える仕事でも、限界を超える手前までは頑張りたい。

 それで頑張って終わらせられたら、また凛恋に会って頑張る力を補充してもらえば良いんだ。

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