【三〇九《再始動》】:一
【再始動】
病室に入ると、パッと明るい笑顔を浮かべた凛恋が俺に両手を伸ばした。
「凡人くん、おかえり!」
「ただいま~」
凛恋に抱き付いて頬にキスすると、凛恋が唇を尖らせた。
「ほっぺただけ?」
「凛恋からしてほしいな」
「もうっ……」
少し顔を赤くした凛恋が俺の唇にキスをして、クシャッと可愛くはにかんだ。
「会いたかった」
「私も会いたかったよ。毎日寂しかった」
凛恋の手を握って椅子に座ろうとすると、凛恋が頬を膨らませた。
「ベッドの横に――」
「八戸さん」
「えっ!?」
病室の外から声が聞こえて凛恋が驚いた顔をする。外から聞こえたのは御園先生の声だった。
「すみません。今、彼が来てるので、後にして下さい」
ムッとした表情で明らかに不機嫌さを声に出して凛恋が言う。
「そう、ですか……。じゃあ、次の回診の時に来ます」
ドアの向こう側から気落ちした御園先生の声が聞こえ、遠ざかる足音を聞いてから凛恋に視線を戻す。
「昨日言ったのに。凡人くんが来るから邪魔しないでって」
「御園先生、よく来るのか?」
凛恋は怒っている。でも、怒った凛恋の言葉が気になった。昨日言ったということは、昨日も来たということだ。
「担当医の先生だから、回診のために来るよ。でも、病院の先生と患者以上のことは絶対にないから。私、御園先生のこと嫌いだし。あの人、凡人くんに酷いことしたから」
俺を安心させようと、凛恋が俺の手を握り返して微笑む。
「私ね、リハビリ頑張って、もうすぐ杖だけで歩けるようになりそうなの」
「凄いな。俺が想像してたより凄い回復だな」
「リハビリの先生にも言われた。それでね? 杖で歩けるようになって、体の方も心配ないって言われたら退院しても良いって。もちろん、退院してもまだ通院して経過観察はしないといけないんだけど」
「次の目標は杖で歩けるようになって退院だな」
「うん。早く退院して、凡人くんとデートしたい。本当は杖を使わず歩けるようになってからが良いんだけど」
「人が少なくてあまり体を動かさなくていいデートにしよう」
「ありがとう。凡人くんとデート出来るようになるって考えると凄く頑張れる。これからもっともっと凡人くんと仲良くなれるんだって思うと、これからが凄く楽しみ」
笑って話してくれる凛恋に笑顔を返すと、凛恋は可愛い笑顔のまま首を傾げる。
「凡人くんはどう? 就職して」
「まだ正式配属は来週からだしな~。新入社員研修が面倒だったくらい」
「高校の同級生と再会したんだっけ?」
「ああ。凛恋の通ってた学校に転学する前の高校の人。それで、営業の新人がその人のことを狙ってるみたいで」
「電話で話してたね。でも、彼氏居る人なんだよね?」
「ああ。それを知ってて、幸せじゃないんじゃないかって心配してる。なんか、勝手に妄想膨らませて突っ走ってるようにしか見えなくて」
「……なんか、そういう人イヤだな。私だったら凄く怖い」
「巻さんの迷惑にならなければ良いけど、俺がとやかく言うとそれはそれで揉めそうで。所詮、俺と巻さんは高校の同級生でしかないから」
「うーん、難しいよね。凡人くんの彼女としては、その巻さんって人と凡人くんが付き合ってるとか勘違いされたくないし」
「俺も巻さんもはっきりそれぞれ彼女と彼氏が居るって言ってるし大丈夫」
「凡人くんは私の彼氏なんだからね」
ひしっと俺を引き寄せる凛恋に引かれるまま体を近付け、凛恋の頬に手を添えてキスする。
凛恋と会えるだけで元気になれる。凛恋に会えるだけで頑張れる。土日で凛恋からいっぱい元気を貰って、それからまた一週間頑張る。そういう日々がこれからも続く。
社会人になると、新しい環境の変化や社会的な責任の増加で苦しむことがあるらしい。でも、俺は大学の頃からインターンしていた職場だから、大きな環境の変化もない。だから、新社会人の大抵の人が不安に思うことが、俺にとっては不安じゃない。
もちろん、ただのインターンだった頃と比べると責任は重くなる。でも、それでもレディーナリー編集部なら上手くやっていけると思うし、何より凛恋との将来のために頑張らなければいけないと思う。
正式配属の日、俺はちょっとした配属前の説明を人事部で受けてから、レディーナリー編集部の編集長である古跡さんに連れられて編集部へ向かう。
「案内は良かったんですけどね」
「儀礼的なものよ。多野は新入社員なんだから。私達にとっては新入社員だとは思ってないけど」
「これからよろしくお願いします」
「こちらこそよろしく。多野が研修行ってる間、帆仮が嘆いてたわよ。早く多野が来てくれないとパンクするって」
小さく笑った古跡さんと一緒に編集部のドアを抜けると、いつも通りに仕事をしている編集部内が見えた。
「みんな、新入社員連れてきたわよ」
「どうも、新入社員の多野凡人です。これからよろしくお願いします」
集まったみんなに頭を下げて挨拶すると、目の前に立っていた帆仮さんがニコニコ笑った。
「凡人くん、スーツ凄く似合う! 背が高くてスタイル良いから凄く格好良い!」
「ありがとうございます。もっとラフな格好が良かったんですけど、まだスーツ以外はダメらしくて」
「凄く似合ってるし、しばらくスーツでも良いんじゃない?」
「勘弁して下さいよ。スーツ、結構息苦しくて」
「今日はとりあえずそれで頑張って。多野、早速だけど仕事に移って。ちなみに今週末は、多野の新人歓迎会だからそのつもりで」
みんなが仕事に戻って、俺も自分の席に行って手慣れた動作で仕事の準備を始める。
「ほんと、馬子にも衣装ってよく言うわね」
「絵里香さん、それどういう意味ですか?」
「冗談冗談。美優が残念がってたわよ。打ち合わせがあるから、凡人くんの初出勤に会えないって。まあ、打ち合わせ終わればどうせ会えるんだけど」
「あれ? 須藤さんとは単発の仕事で終わりになるんじゃなかったんですか?」
絵里香さんの話を聞きながら、パソコンで美優さんのスケジュールを確認する。今、美優さんは須藤芳彦というライターとの打ち合わせが入っているが、その須藤さんは前に別の編集さんとトラブって、古跡さんがもう仕事は依頼しないと言ってた気がする。
「それがさ。その大学教授、うちの会社の他誌でも連載してるらしくて、それが好評らしいの。しかも、最近テレビにも出始めて知名度が上がったから、連載してる他誌の編集長に古跡さんが頼まれたらしいの。大学教授を切らないでほしいって」
「何で古跡さんが他誌の編集長に頼まれるんですか? 別にレディーナリーで連載しなくなったからって、他誌で連載しなくなる訳じゃ――」
「それが、その他誌の打ち合わせでレディーナリーの連載を打ち切られたら、二度と月ノ輪出版では書かないとか言い出したらしいの。正直、私は別にそれでも良いって思うけど、他誌の売り上げに影響しちゃうから無視出来ないみたいで」
「それで、美優さんに白羽の矢が立ったと」
「うちの編集部で一番人当たりが良いのが美優だからね。私は真っ先に除外された」
「絵里香さんはすぐ顔に出そうですしね」
「あ~、馬鹿にしたわね。私だって愛想良くするくらい出来るし。まあ美優も色んなライターさんと仕事してるし、場数も踏んでるから無難にやるでしょ」
「そうですね」
明るく笑った絵里香さんに答えながら、俺は早速仕事に取り掛かる。でも、仕事に取り掛かりながらも、美優さんのことが少し心配だった。
美優さんは人当たりは良いが、元々大人しくて気が弱い。だから、須藤さんのような怒りっぽくて言動が荒い人とは相性が悪い気がする。
相性は仕事の上で大切だが、相性に合わせて仕事をしていたら仕事が回らないのも事実だ。
「あっ、美優が戻って来た。美優~、凡人くん来たよ~」
手を振る絵里香さんから編集部に入って来た美優さんに視線を向けると、美優さんは俺を見て露骨に驚いた顔をする。
「凡人くん、スーツなんだ」
「今日はカジュアルな服じゃダメみたいで。明日からはカジュアルな格好で来ます」
「似合ってる。凄く格好良いよ」
「ありがとうございます」
褒められて照れ臭さを感じながら頭を下げると、美優さんが顔を近付けてくる。
「お昼、一緒に食べない?」
「え? は、はい」
「良かった。じゃあ、仕事戻るね」
美優さんが軽く手を振って仕事に戻るのを見て、俺も仕事へ戻る。
レディーナリーで俺が任されている仕事は、もうインターンとアルバイトを経て経験済みだ。そう考えると、仕事を新しく覚える必要もないから気持ちが楽だった。
仕事を黙々とやっていると、後ろから肩を叩かれて振り返る。すると、クスクス笑った美優さんが立っていた。
「凡人くん、お昼休憩だよ」
「え? もうですか?」
パソコンの時計を確認すると、確かに時間が昼休憩の時間になっていた。
「凡人くんは集中すると一気に入り込んで物凄いスピードで仕事しちゃうからね。でもダメだよ、ちゃんと息抜きしないと」
「すみません。初出勤ってこともあって気合いが入り過ぎてました」
「ううん。……スーツ姿で仕事してる凡人くん、凄く格好良かったよ」
「あ、ありがとうございます」
「ほら、お昼休憩終わっちゃう前に行こう」
手早く机を片付けて、美優さんと一緒に編集部を出る。
「これからよろしくお願いします。田畠先輩」
「止めてよ~。先輩は凡人くんの方なんだから。でも、自分より先輩の新入社員って変な感じ」
「俺は本気で先輩って呼ぶつもりですけど」
「ダメ。仕事がし辛くなるし、凡人くんと距離が出来たみたいで嫌だから」
「そうですか。じゃあ今まで通りで行きます」
「うん! それにしても、やっと凡人くんが入社か~。新入社員研修もあったし、凄く長かった気がする」
「美優さんの時も夜間歩行はやりました?」
「え? 夜間歩行?」
「夜中に四〇キロ歩くやつです」
「ううん、私達の時はやってないよ」
「今回はあったんですよ」
「みんなで夜に歩くの、大変そうだけど楽しそうだね」
「いや、かなりキツかっただけですよ」
新入社員研修のことを話していて、ふと巻さんのことを思い出す。人間関係に対する不安があると言ってたけど、職場の人達と気はあっただろうか。
美優さんの案内で、連れてきてもらった店の席に座ってふと気付く。
「そういえば、美優さんって弁当持参してるんじゃなかったんですか?」
「うん、いつもは持って来てる。でも、今日は凡人くんの初出勤日だし、そのお祝いも兼ねてご馳走したくて」
「すみません。気を遣わせてしまって」
「私が凡人くんにご馳走したかったの。歓迎会の時は、編集部からってことになっちゃうし。私が個人的に凡人くんに何かしたかっただけ」
向かいに座る美優さんはそう言ってからボーッと俺を見る。その美優さんに無言で首を傾げると、ハッとした美優さんが顔を真っ赤にして俯いた。
「ご、ごめんね。じっと見たりなんかして」
「いや、なんか美優さんがボーッとするの珍しいなと思って」
「だって……凡人くん、スーツ似合い過ぎだから」
「そ、そうですか?」
「そうだよ。凄く似合ってるからついつい見ちゃって。でも、今日で見納めになりそうだから今のうちに見てよ~」
美優さんは料理を食べてにっこり微笑む。
「凡人くんがレディーナリーに来てくれて本当に嬉しい。本当は編集として入ってくれたらって思ってたけど、編集マネージャーは凡人くんしか出来ないし」
「でも、色々システムでフォローしてもらってますから」
「ソフト入れてから凡人くんの負担も減ったしね。前は編集全員に仕事の進捗を聞いて回ってたし。今考えると異常だよ」
「まあ、あの時はああするのが最善でしたからね。ただのアルバイトが、自分の仕事を楽にするためにお金を掛けて欲しいなんて言えませんし」
笑いながら冗談半分に言うと、美優さんは優しく微笑んだ。
「古跡さんなら、凡人くんが真剣に話をしたら真剣に考えてくれたと思う。それに古跡さんがそういう人だから、凡人くんの今の立場がある。でも、いくらソフトで仕事の管理がしやすくなったって言っても、凡人くん一人に負担を掛けるのは良くないから、インターン生は必要なんだよね……」
「百合亞さんと何かあったんですか?」
以前、百合亞さんが編集部で寝ていた俺にキスをした時、美優さんは百合亞さんと揉めた。そこから今に至るまで関係が改善した様子はない。
「ううん。凡人くんが地元に帰ってからも、毎日休まず来てた。仕事も凡人くんには遠く及ばないけど、インターン生としては十分やってくれてた。……でも、個人的に巽さんのことは好きになれない。かと言って、どうこうするつもりはないし。普通に職場の後輩として接してる」
「すみません。俺のせいで仕事をやり辛くして」
美優さんは、百合亞さんが俺にしたことを怒ったことで百合亞さんと揉めてしまった。それで仕事上の人間関係が拗れた。それは、俺が原因だ。
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