【三〇八《罪悪感》】:一
【罪悪感】
新年度、入社式が終わったらすぐにレディーナリー編集部へ配属される訳じゃなく、月ノ輪出版では新入社員研修というものが行われる。その新入社員研修だが、なぜか本社ではなく宿泊施設を借りて泊まり込みで行われる。
研修初日の朝、集合場所に指定された駅のバスターミナルに着慣れないスーツを着て、俺は小さくため息を吐く。
とりあえず案内されるままバスに乗り込むと、何だか俺とは住む世界が違いそうな人達がいっぱい居た。
見た目が派手で、俺よりも普段話す会話の声の大きさが三割増くらいで、そんでもって胃もたれするくらい雰囲気が明るい。別にそういう人達を嫌いという訳じゃないが。
「あんた、ただの凡人(ぼんじん)じゃん」
「…………ん?」
懐かしいが嬉しくないあだ名で呼ばれて顔を上げると、スーツ姿の女性が立っていた。だが、全く見覚えがない。まあ、俺をただの凡人扱いするということは、刻季高校で一緒だった人だろうから知らなくて当然だ。
「巻麗子(まきれいこ)よ」
「マキレイコ?」
「……あんた、本気で忘れてる訳? 私のことブルドーザー呼ばわりしたくせに」
「ああ。栄次に付き纏ってたブルドーザー女」
その自己紹介で話し掛けてきた人が誰か分かった。ただ、名前を名乗られてもブルドーザーという単語が出るまで全く思い出せなかった。
「私、総務部なの。多野は?」
「俺はレディーナリー編集部」
「え!? 多野、編集なの!?」
目を見開いて驚くブルドーザー女……もとい、巻さん。その反応は「なんでお前なんかが編集部に採用されてるんだ」とでも言いたげな、大変失礼な反応だった。
「バスどれでも良いみたいだからこれにしよ」
何で俺も同じバスに乗らなければいけないのか分からないが、バスの前に居た人事部の人にも、流れに乗せられてバスの中に押し込まれてしまった。
「良かった。知り合いが居て」
隣に座ってホッと息を吐いた巻さんは、俺の方を向いてニヤッと笑った。
「多野がレディーナリーの編集とかびっくりだわ。多野ってどこ大を出たの?」
「塔成」
「塔成!? そういえば多野って頭良かったんだっけ。超エリートじゃん。何で外務省とか行かなかったの?」
「インターンで編集部にお世話になってて、仕事も楽しかったし」
俺は古跡さんに、大学卒業後に編集部へ来ないかって声を掛けてもらってはいた。それでも、そういう話があまり広まるのは良くはないし、ちゃんと他の採用希望者と同じように試験も面接も受けた。だから、本当の採用理由をあえて話す必要もない。
「あっ、もう喜川くんのことはどうとも思ってないから。今私、彼氏居るし」
「別に心配してない。栄次は今も希さんと仲が良いし」
「へぇ~。喜川くん、まだあの子と付き合ってるんだ。多野は?」
「俺も高校の頃の彼女とまだ付き合ってる」
「へぇ~。多野の彼女ってめちゃくちゃ可愛くてモテそうなのに。まあ、塔成大受かって、でしかも月ノ輪出版に就職が決まってるしね。見る目はあったってことか」
凛恋は俺の学歴や就職先で付き合ってくれてた訳じゃない。でも、それを言う必要もない。
バスが走り出し、俺は通路側で小さくため息を吐く。すると、周囲の人達から視線を向けられているのに気付く。
バスの座席に男女で座ってるのは俺達くらいで、そのせいで注目を集めてるんだろう。
「多野、チョコレート食べる?」
「いや、大丈夫だ」
「そう。多野って高校の頃からそんな感じだったよね~。冷めてるって言うか」
チョコレートを断っただけで冷めてる認定されるのは意味が分からない。
「まさか就職先が多野と同じなんて思わなかった。高校の頃、あんなことあったし」
「まあ、世の中狭いってことだな」
「そうね」
高校の話をした時、巻さんは申し訳なさそうな顔をした。
俺が刻季高校から刻雨高校に転学した時、俺の母親が詐欺で逮捕された。それで、俺は詐欺師の息子だと罵られて、顔も名前も知らないやつらに暴力まで振るわれた。
そのことは確かに理不尽なことだった。でも、そのことに関して巻さんが申し訳なさを感じるのは違う。
罪悪感は必ず何かが起きた後に感じる感情だ。でも、その感情を抱くのが遅過ぎると、罪悪感ではなく、ただ自分の後ろめたさを和らげるための自己満足でしかない。
まあ、何も感じないより数倍マシなのは確かだが。
バスターミナルから出発したバスは、街中から離れた宿泊施設まで走る。その道中のバスの中で、人事部の人が色々と研修についての説明をして、それが一段落すると丁度宿泊施設に着いた。それで、すぐにオリエンテーションが行われ、今日はそれだけで研修は終わりになった。
月ノ輪出版は大きな会社だからか、一般のホテルに泊まってしかも一人部屋だった。一人部屋なのは、他人に気を遣わなくて良いから本当に良かった。
『凡人くん! もう着いたの?』
「ああ。今日はオリエンテーションがあっただけで、このあと夕飯だ。本格的な研修は明日から」
毎日の日課になった凛恋との電話で、いつも通り他愛のない世間話をする。
『そうなんだ。私は今日、平行棒で歩ける距離が一メートル伸びたよ』
「凄いな。でも、無理し過ぎて怪我しないようにな」
『うん。今週、本当に帰って来られそう? 凡人くんも無理しなくて――』
「俺が凛恋に会いたくて会いたくて仕方ないんだ。めちゃくちゃ寂しい」
『私も凡人くんに会えなくて寂しい。毎日凡人くんと電話してるけど……凄く凡人くんとキスしたい』
「俺も凛恋とキスしたい。てか、エッチしたい……」
『も、もう…………私も凡人くんと早くしたい。リハビリ頑張るね!』
「ありがとう。でも、本当に無理するなよ」
『うん! あっ……夕飯だ。凡人くんも夕飯の時間でしょ?』
「ああ」
『夕飯とお風呂終わったら、また電話してほしいな~』
「する! 絶対するから」
『ありがとう! 待ってるね!』
凛恋との電話を終えて、スマートフォンで時間を確認して椅子から立ち上がって部屋を出る。
夕飯は自由ということで、ホテルで食べても良いしホテル周辺の店で食べても良いらしい。
俺は外に出る気も起きず、ホテルのレストランで済ませるつもりだった。だから、一直線にレストランまで向かっていたのだが、ロビーを一人で歩く巻さんと目が合った。
「あっ、多野じゃん。今から夕飯?」
「ああ。そこのレストランで――」
「じゃあ、一緒に食べに行かない? ここの近くに美味しいラーメンがあるらしいの」
「ラーメン?」
「ラーメンとか女一人で行き辛いし一緒に来てよ」
何で俺が、と思う。別にラーメンが嫌いではないが、何で俺が巻さんと二人でラーメンを食いに行かないといけないのか分からない。
「別にお互い彼氏彼女が居るんだし、一緒にご飯食べるだけよ。彼氏と居るとラーメン食べたいとか言い辛いし。多野なら別にそういうの気にしなくて良いから丁度良かった」
何が丁度良かったのか分からないが、大分馬鹿にされているのは分かる。
「ほら。行くわよ。あっ、もちろん割り勘だから」
「別に奢ってもらうつもりはないけど……」
さっさと歩き出して行く巻さんの後から歩き出し、軽くため息を吐く。
「多野の彼女はどこに就職したの?」
「事情があって今入院してる」
「入院?」
「事故に遭ったんだ」
「そうなんだ」
「巻さんの彼氏は?」
巻さんがまた申し訳なさを感じる前に質問を返す。
「鉄道会社のシステムエンジニア」
「技術があるのは凄いな」
「あっちも今研修中。でも、地方にある大きなターミナルで三ヶ月くらいあるみたい。その間はプチ遠距離」
ラーメン屋に行く間、巻さんはよく自分の話をしていた。
高校時代、俺と巻さんはほとんど関わりがなかった。でも、ただ就職先が同じというだけで夕飯を一緒に食べることになった。こんなことになるなんて、高校時代の俺は想像もしてなかった。
「良い匂い」
店内に入ると、巻さんは近くのテーブル席に座る。
「私、豚骨白味噌にしよ~。多野は何にすんの?」
「俺は塩バターとチャーハンにする。すみません、豚骨白味噌一つ、塩バター一つ、それからチャーハン一つお願いします」
店員を呼んで二人分の注文をすると、巻さんがニヤッと笑う。
「あと、生ビール二つお願いしまーす」
勝手にビールを頼んだ巻さんに視線を向けると、巻さんはシャツのボタンを一つ開けて首元を緩める。
「ラーメン食べるのに飲まないつもり?」
「彼氏以外の男と一対一で飯を食うなら、酒は飲まない方が良いんじゃないか?」
「え? もしかして酔った私を襲う気だった?」
「そんな気は全くない」
「じゃあ飲んでも良いじゃん。それに、多野にはそんな度胸なさそうだし」
ケタケタと巻さんが笑っていると、注文した品が運ばれて来る。そして、巻さんが生ビールのジョッキを持ち上げた。
「お疲れ」
「……お疲れ」
巻さんに応えてジョッキを持ち上げると、巻さんはゴクゴクとビールを飲む。
「ぷはぁ~! 生き返る~」
「いただきます」
結構な飲みっぷりの巻さんから視線を外して、ラーメンを食べ始める。
「こういうカロリーが高いのこそ美味しいのよね~」
「彼氏と居ると行き辛いって言ってたけど、彼氏とラーメン食べれば良いだろ」
「はあ? デートでラーメン食べたいって言ったら引かれるでしょ」
「いや……引かないと思うけど」
「パスタとか和食とかの方が男受け良いじゃん」
巻さんに「何言ってんの? 馬鹿なの?」とでも言いたげな顔で言われた。
男受けを気にするのは悪いことではないと思う。それは、好かれる努力をしているということだからだ。でも、好きなものを好きと言えないのはどうなんだろう。それに、ラーメンが好きな女性は別に引かれる要素は何もない。
「別に多野には女らしく思われなくて良いし。それにしてもレディーナリーの編集って、入りたい女子めちゃくちゃ居たんじゃないの? 競争率めっちゃ高そうじゃん」
「希望者が居たかは分からない。それに、俺は編集者じゃなくて、編集の仕事をサポートする編集マネージャーだから」
「は? 編集マネージャーってあの編集マネージャー?」
「ん?」
「今日オリエンテーションで人事の人が言ってたじゃん。マジ凄い新入社員が居て、そいつのために出来たレディーナリー編集部の新しい課って」
「あれは大袈裟なだけだ。俺の仕事はプロの雑用係だよ。編集さん達の手を煩わせるような仕事を請け負って片付けていく仕事。インターンでやってたことの延長みたいなものだし」
「でも、レディーナリーで実際に機能したら他の部署も取り入れるかもって言ってたし」
「うちは他の部よりも人が多いから、雑用の量も多いんだよ。少人数でやってるところは必要ないんじゃないか?」
「でも、新しい課って凄いじゃん。多野にそんな能力あったなんて意外。でも、インターンの延長ってことは、配属されたらバリバリやれそうじゃん。こっちは変な先輩とか同期が居ないかでビクビクしてんのに」
「そんな気にすることじゃないと思うけど」
「はぁ? 女社会なめんじゃないわよ。ちょっと嫌われると、未来永劫ハブられ続けるんだから。気を遣って立ち回らないと、それだけでせっかくの就職がパーになんの」
「そういうものなのか」
女社会というものを持ち出されたら、男の俺には分かりようがない。
俺も一応、レディーナリー編集部という女社会で仕事はしていたが、それは男の俺の目から見えていた女社会で、女性から見た女社会ではない。多分、男の俺には見えない社会があるんだと思う。そうなると、女社会がどうこう言われたら、そうなんだろうと思うしかない。
「私もそれなりに苦労して月ノ輪出版に入ったしさ。うちの親、私が月ノ輪出版みたいな大手に入れると思ってなかったらしくてめっちゃ喜んでるし。大学まで出させてもらったから、親の期待を裏切りたくないし」
高校時代の巻さんの印象はほとんどない。でも、少し話を聞いていると悪い人ではないと思う。ただ、俺の都合を全く聞かずにラーメン屋に連れて来ることを考えると、良い人かどうかは疑問だ。
「チャーハン美味しそう」
「追加すれば?」
俺が食べているチャーハンを見て呟いた巻さんに答えると、巻さんは眉をひそめる。
「いや、ラーメンでカロリー結構あるしな~」
「半チャーハンあるからそれにすれば? それに気を遣わないで良いやつだから俺を連れて来たんだよな? それなのに俺にまで気を遣ったら意味ないだろ」
食べるのをチャーハンからラーメンに戻りながら言うと、俺をキョトンとした顔で見ていた巻さんがニコッと笑って店員へ声を掛けた。
「チャーハン一つ追加でお願いします」
半チャーハンではなく普通のチャーハンを頼んだ巻さんは、生ビールを一口飲んで呟いた。
「多野って意外と良いやつね」
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