【三〇五《違(たが)わぬように》】:二

 凛恋の背中と足の下に手を入れてゆっくりと持ち上げる。そして、そっと車椅子の上に凛恋を下ろした。


「最初ですから、長時間にならないように三〇分くらいで戻って来て下さい」

「はい。凡人くん、行こう」

「分かった」


 凛恋に返事をしてゆっくりと車椅子を押して歩き出す。


「凡人くんと初めてのデートだね」

「ああ。痛かったり何か不都合があったりしたら言ってくれ」

「うん。痛くはないけど不満はあるかな」

「ごめん、乗せ方が荒かったか? 慎重にしたつもりだったんだけど」

「ううん。今日はキスの回数が四回少ないから」

「…………先生が居るのに出来ないだろ」


 何の不満かと思って身構えたが、大したことじゃなくて安心した。

 エレベーターに乗ると、凛恋が振り返ってニコッと笑う。


「凡人くん、二人っきりだよ?」

「凛恋、本当にキス好きだな」


 以前までは顔を赤らめて強請っていた凛恋も、今は自然にキスを強請ってくる。


「凡人くんのキス……やっぱり気持ち良い……」

「凛恋、病室の外だって分かってるか?」

「分かってるよ。だから、病室に戻るまでこの一回で我慢す――凡人くん、ごめんね」

「……ん? 何が?」


 いきなり謝った凛恋に首を傾げると、凛恋は顔を真っ赤にして俯く。


「だって、彼女の私が入院しててこんな状態だから、凡人くんは凄く辛いんじゃないかって」

「確かに凛恋が怪我で辛そうにしてるのを見るのは辛い。でも、一番辛いのは凛恋だろ。俺は凛恋のことを支えたくて側に居続ける。だから、凛恋が変に負い目を感じる必要はなくて――」

「そ、そういう意味じゃなくて……」

「え? 違うの?」


 俺が想像していたこととは違ったようで凛恋は否定する。でも、否定した凛恋の顔の赤みが更に増して、その様子に俺の疑問も深まる。


「その……凡人くんも男の人だし……性欲とか……」

「可愛い彼女に真っ赤な顔されて性欲の心配される方が堪んなくなるんだけど」

「えっ! えっ、えっと! ここ、病室じゃないし! 今ここでは!」

「心配しなくても、理性くらい俺にもあるって……」


 ちょっとからかったら、凛恋は大慌てでとんでもないことを口走る。たとえ病室が凛恋の承諾なしに人が入って来ないとしても、流石に病室でなんて俺も考えはしない。第一、凛恋はまだやっと車椅子での散歩が許された状態だ。


「……凡人くんは辛くないの?」

「そりゃあ辛くならないことはないけど、凛恋も頑張ってるんだって思うと我慢出来る」

「凡人くん……ありがとう」


 凛恋が目を潤ませてお礼を言う。ただ、性欲を我慢して感謝されるのは複雑な感じがする。


「私も我慢する」

「………………え?」

「え? …………――ッ! ち、違うのっ!」

「何が違うんだ? 凛恋も我慢してるんだろ?」

「ち、違うんだってばぁ~」


 必死に否定する凛恋を後ろから抱きしめる。


「凛恋って本当に可愛い」

「か、凡人くん……」

「俺のことを心配してくれてありがとう」

「だって……好きな人だから。大好きな凡人くんだから、私のせいで辛い思いさせたくないし我慢もさせたくなくて……それに……。ごめんね、凡人くんのことを疑ってる訳じゃないの。でも、私みたいな凡人くんを我慢させる彼女より、凡人くんを我慢させない人の方が――」

「俺、凛恋以外とエッチする気なんてないから。凛恋としかエッチしたくない」

「か、凡人くん……良いの? 私、いつ退院出来るかも分からないし、それに退院してもすぐには――」

「好きなんだよ、凛恋のことが。凛恋じゃないとダメなんだ」


 凛恋の前に回って、しゃがんで凛恋に視線の高さを合わせる。そして、軽く唇を触れさせるキスをした。


「大好きだ。凛恋のことだけが」

「凡人くん…………私も凡人くんだけが好き。凡人くんだけが大好きっ」


 エレベーターのドアが開いて、俺は凛恋の後ろに戻って車椅子を押す。


「凛恋、外に行く前にコンビニに行こう。凛恋の好きな物を買って外の空気を吸いながら飲んで食べれば気分転換になるだろ」

「ありがとう。ずっと病室にしか居なかったから、コンビニに行ってみたかったんだ~」


 病院の中にあるコンビニに行くと、凛恋はコンビニに貼られていたフラッペのポスターを見詰めていた。


「フラッペが食べたいのか?」

「うん。美味しそうだなって思って」

「まあ、まだ暑いし丁度良いかもな。外の日陰で一緒に食べよう」

「やった! え~っと……」

「何と何で迷ってるんだ?」

「え? なんで、私が二つで迷ってるって分かったの?」

「こういう甘い物を食べる時、凛恋は大抵二つで迷ってどっちにしようか悩むんだよ。それで、俺と一つずつ頼んでシェアするんだ」

「そうなんだ。いちごのやつとマンゴーのやつで迷ってて」

「じゃあ、その二つにしよう」

「ありがとう」


 フラッペを買って病院の中庭にある東屋に向かう。その東屋の中にあるベンチの横に車椅子を停めて、凛恋の隣に腰掛ける。


「やっぱり外の空気は気持ち良いね」

「そうだな。やっぱり部屋に籠もりっぱなしより、少しは外に出ないとな」

「うん。それに、凡人くんと一緒だから凄く楽しい」

「凛恋に楽しんでもらえて良かった。溶ける前にフラッペを食べないと」

「うん。んーっ! 冷たくて甘くて美味しい!」


 フラッペをスプーンで食べた凛恋が顔を綻ばせて声を弾ませる。その凛恋を見ながら俺もフラッペを食べる。


「凡人くん、あーん」

「あーん」


 凛恋が差し出してくれたいちご味のフラッペを食べると、凛恋が嬉しそうに笑う。


「今の凄く恋人っぽかった」

「ぽくなくて、恋人なんだけどな~」

「だって、デートして食べ物をあーんするなんて初めてだから。凄く嬉しいし楽しくて。凡人くんもあーんして?」

「凛恋、あーん」

「あーんっ! 凡人くんのも美味しい! やっぱり凡人くんにあーんしてもらったからかな~」

「俺の方は味がイマイチ分からなかったな~。もう一回あーんしてもらわないと分からないかも」

「もー、しょうがないな~。はい、あーん」


 クスクス笑ってまたフラッペを差し出してくれる凛恋からフラッペを食べると、凛恋が可愛らしく噴き出した。


「凡人くん、口の端にいちごのソースが付いてる」

「本当? 確かポケットティッシュが鞄に入ってた気が――」

「ティッシュなんて必要はないよ」


 俺が鞄を漁る前に、凛恋が俺の服を引っ張って近付けさせ、口の端に付いたいちごソースを舐め取られた。


「凛恋、大胆だな」

「凡人くんを見てたらしたくなっちゃった。私、本当に凡人くんのこと大好きなの。確かに一目惚れだったけど、凡人くんの見た目だけじゃなくて、凄く優しくて頼りになるところとか、時々、恥ずかしがったりボケたりしてるところとか凄く可愛くて。あっ! 可愛いって言えば、この前ベッドの隣で寝ちゃった時の凡人くんの寝顔が最高に可愛かった!

 ついスマホで写真撮っちゃった。ほら!」


「ホーム画面にしてるのか。恥ずかしいな」


 スマートフォンの画面を見せてる凛恋に困っていると、凛恋はまたクスクス笑う。


「そうそう。その恥ずかしがる顔が凄く可愛い! あとね! 凡人くんが御園先生に嫉妬するのも可愛いの! 御園先生が病室に来るとじーっと見てる凡人くんを見てると、凄く可愛くて凄く愛おしいの。心配しなくても御園先生のことなんて何とも思ってないよ?」

「別に心配もしてないし嫉妬もしてない」

「なら良いけど」


 また凛恋はクスクス笑ってフラッペを食べる。

 御園先生に嫉妬してるかしてないかと言われれば嫉妬してる。でも、それは御園先生が悪い訳じゃなくて、看護師が話してた噂話が気になっているだけだ。


「前に看護師さん達が、俺より御園先生の方が良い男だって言ってたんだ」

「その噂話してた看護師さん達の見る目がないんだよ。凡人くん以上に格好良い人なんて居ないよ。御園先生を見ても何とも思わなかったけど、凡人くんを見ると凄くドキドキするし」

「そう言ってくれるのは凛恋くらいだよ。でも、凛恋にそう思ってもらえてると自信になる」

「凡人くんを不安にさせてるのは、私が凡人くんのことを安心させられてないこと悪い」

「いや、凛恋は何も悪くない」


「そんなことないよ。私と凡人くんは付き合ってるんだから、二人の問題は二人で解決しないと。でも、凡人くんを安心させられる方法か~。キスは毎日いっぱいしてるし、結構好きとかも言い合ってるし」

「無理に何かしようとしなくても――」

「ダメっ! 私は凡人くんのことが凄く大切なの。大切な凡人くんが不安になってるなんて知ったら、絶対になんとかしたいって思うの。……そういうことの積み重ねで凡人くんと別れるなんてなったら――」


「絶対に別れない! やっとまた凛恋と両想いになれたんだ! それなのに俺から別れるなんてないから!」

「……ごめん。私の方が不安になっちゃった」

「凛恋、ごめんな。俺が変な話をして。でも、凛恋には不安も話してた方が良いと思ったんだ」

「ううん。凡人くんの言う通り。私は凡人くんに不安に思ってることを話してほしい。上手く答えが出せないかも知れないけど、一緒に考えて乗り越えようって考えるのも大切だと思う。私だってほら……彼女らしいことが出来ないことを凡人くんに話したし」


 顔を赤らめた凛恋はニコッとはにかむ。


「今の私にとっては、凡人くんと付き合ってた七年の記憶がない。でも、七年の記憶がなくても、私はこれ以上ないって思えるくらい凡人くんのことが大好きだよ。凡人くんが居る間も凡人くんのことばっかり見てるし、凡人くんが帰ってもスマホでやり取りして寝る前までずっと凡人くんのこと考えてる。それに凡人くんと外でデートする夢も見る。私の中はずっと凡人くんでいっぱい。それが凄く嬉しくて楽しくて幸せで、明日が早く来ないかなって希望になってる。本当に、私のことを好きになってくれてありがとう。私、凡人くんのこと大切にする! ずっとずっと凡人くんと一緒に居られるように頑張る」


「ありがとう、凛恋。凛恋がそうやっていっぱい気持ちを伝えてくれて嬉しいし安心出来た。俺も凛恋に好きで居続けてもらえるように頑張る」

「うん! でも、凡人くんは何も頑張らなくても格好良くて可愛くて素敵な人だけどね」

「凛恋だって何もしなくても世界一可愛くて綺麗で非の打ち所がない最高の女性だ」


 互いを絶賛し合って互いに恥ずかしくなって笑い合う。


「私達、バカップルだね」

「だな。でも、仕方ない」

「うん。だって――」

「凡人くんが完璧な人なんだもん」「凛恋が完璧な人なんだから」

「もうっ……。凡人くん、大好きっ!」


 ギュッと手を握って微笑む凛恋の手を握り返す。

 記憶を失っても凛恋は真面目で、真剣に俺のことを考えてくれる。

 今の凛恋にとっては、俺との七年間はリセットされてしまっている。でも、確実に凛恋の中で俺が恋人として大きく重要になっているのが分かる。それが嬉しいし、また凛恋にとって大切で重要な存在にしてもらった、選んでもらったことに絶対報いなければと思う。


 隣で見られている、この明るくて可愛くて温かい笑顔を守る資格を与えてもらった。

 凛恋と付き合えて、凛恋の隣で過ごせてつくづく思う。俺にとって、凛恋の側に居ることが一番幸せなことだと。凛恋から何かをしてもらう必要もない。ただ凛恋の一番近くに居て凛恋を見ていられればそれで良い。


「あっ! そろそろ戻らないと」

「そうだな。言い付け破って面会制限を掛けられたら困るし」


 ベンチから立ち上がり、車椅子を押して病院の中に戻る。その車椅子を押す俺の手と足はほんの少し慎重になる。

 また一緒に歩き始めた道が、絶対に違(たが)わぬことがないように。ゆっくりと慎重に。そして、大切に噛み締めて。

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