【三〇五《違(たが)わぬように》】:一
【違(たが)わぬように】
凛恋の面会制限について、今日、凛恋の両親と担当医が話をしている。その話し合いが終わるまで、俺は凛恋の病室で待つことになったのだが……。
「……もう一回」
「凛恋、もう五回目だけど?」
「ご、ごめん! 嫌だった?」
「嫌じゃないけど」
「じゃあ……して良い?」
「分かった」
凛恋とまた付き合えた日から一週間経って、ようやく話し合いの場が持たれた。その間、俺は一度も凛恋に会いに来られず、今日が一週間振りの再会だった。そういう理由もあってか、凛恋はお父さんとお母さんが居なくなってからずっと俺に甘えてくる。
「キスって凄く幸せで気持ち良い。それに凡人くんとキスすると凄く安心する。……一週間も凡人く――彼氏に会えなかったから」
彼氏と言った瞬間、凛恋の顔が赤くなる。その初々しい反応が堪らなく可愛い。
凛恋にとっては付き合い立てで、何事も新鮮に感じる時。それに凛恋はなぜか俺のことを物凄く格好良い男だと思っているらしく、一々恥ずかしそうに赤面する。
嬉しいしその赤面する様子が可愛いのだが、何となく俺がまるでイケメン男みたいに扱われるのはシュールな気がする。もちろん、凛恋は記憶を失う前から俺のことを格好良いと言ってはくれていた。でも、今の凛恋は初々しさも相まって、少しおかしく見えてしまう。
「格好良い……」
「え?」
「あっ! ご、ごめんね! やっぱり凡人くんは凄く格好良いなって思って」
「面と向かって言われると恥ずかしいな」
「照れてる凡人くん可愛いっ!」
ニコニコ笑う凛恋は、俺の顔を見てクスッと笑った。
「凡人くんと居ると凄く楽しい」
「良かった」
「これからも毎日一緒に居られると良いな……」
「きっとお父さんとお母さんが先生達を説得してくれる」
「うん。私も、凡人くんに会えない間、診察の時に先生達にお願いしたから」
「ありがとう」
「ううん。私が凡人くんと毎日会いたいから。私、早く退院したい。それでね、凡人くんと――キャッ!」
話をしていると、テーブルに置いてあった紙袋が倒れて床に落ちる。その音にびっくりした凛恋が可愛い悲鳴を上げる。
椅子から立ち上がって落ちた紙袋を拾い上げようとすると、紙袋の中身が床に出ていた。
「か、凡人くん! 見ないでっ!」
「このまま置いとく訳にはいかないだろ」
紙袋から出ていたのは凛恋の着替えだが、病院で凛恋は患者衣を着ているから、全部凛恋の下着だ。もしこのまま放っておいて看護師や医師の男性が入って来たら、その人達が凛恋の下着を見ることになる。
「他の男に凛恋の下着なんて見せられるか」
「で、でも……凡人くんに見られるのも恥ずかしいよ……」
下着を拾って紙袋に戻した俺を見て、凛恋は真っ赤な顔で俯く。
「ごめんごめん。でも、下着だけなら見慣れてたから」
「見慣れてた?」
恥ずかしそうに赤面していた凛恋は、俺の言葉を聞いてスッと顔の赤みを消し、俺をジトっとした目で見る。もしかすると、俺は女性の下着を見慣れるような遊び人か、もしくは変態と思われているのかも知れない。
「俺と凛恋、大学に進学してから同棲してたんだよ。後半の方は、色々あって親に内緒だったけど」
「えっ!? 同棲っ!?」
驚いてまた顔を真っ赤にした凛恋に、俺は笑って話を続ける。
「元は凛恋が大学進学前に言い出したんだ」
「私って結構積極的な子だったんだね」
「結構、色んなことは凛恋が俺を引っ張ってくれてた」
「凡人くんも凄く男らしくてしっかりしてるイメージだったけど?」
「凛恋は俺以上にしっかり者だったよ。家事も完璧だったし、色々旅行とか行く時も事前にしっかり調べてた」
「同棲して旅行とかも行ってたんだ。自分のことだけど羨ましい。私も凡人くんと旅行とか行きたい」
「じゃあ、退院したら一緒に行こうか」
「本当!?」
「ああ。まあ、退院したって言っても、自分で歩けるようにならないと旅行は厳しいから、お医者さんが大丈夫って言ってくれたらな」
「うんっ! 私、リハビリ頑張る!」
「無理はするなよ。今はリハビリ出来る状態まで体を治すのが先だからな」
「うん。でもね、凡人くんが側に居てくれたら、私は何でも頑張れるよ」
「俺も凛恋をちゃんと支えるから。一緒に少しずつでも進んで行こう」
「うん。ありがとう」
凛恋の手を握って気持ちを確かめていると、病室のドアが開いてお父さんお母さん、それから御園先生を含めた凛恋の担当医の先生達が入って来た。
「八戸さん」
「凡人くんは毎日来ていいんですよね?」
「多野さんが毎日来ることを八戸さんが望んでいて、多野さんが八戸さんにとって精神的な支えになっているのは分かりました。多野さんの面会制限は解きます。ただし、私達担当医が八戸さんの体調が悪くなったと判断した場合は面会制限を再び設けます」
「はい! ありがとうございます! これから一日でも早く良くなるように頑張ります!」
元気の良い声で言った凛恋は、ニッコニコの満面の笑みを向ける。本当に可愛過ぎる。
先生達が退室してから、お父さんが凛恋の側に来てベッドの上に小箱を置いた。その箱は、スマートフォンの箱だった。
「凛恋が事故前に使ってたのと同じ機種で同じ色の物だ。これで、面会時間外でも凡人くんと連絡が取れるだろう」
「良いんですか?」
「もちろんだ」
「ありがとうございます!」
明るく笑う凛恋を見て、お父さんは朗らかな笑顔を浮かべる。
多分、心の中は完全に晴れやかという訳にはいかないだろう。でも、それでも凛恋の笑顔を見られていることには安心して癒やされているはずだ。
「俺、ちょっとコンビニに買い物してきますね」
「凡人くん、気を遣わなくても良いよ。凛恋も凡人くんが居てくれた方が良いだろう」
「ちょっと飲み物が欲しくて。お父さん達は何かいりますか?」
「私達は大丈夫だよ。ありがとう」
「凛恋は何か欲しいものある?」
「ううん、大丈夫。すぐ戻って来てね」
「分かった」
お父さん達の前でも遠慮なしに甘える凛恋に少したじたじになりながら病室を出る。
お父さんに気を遣わなくても良いとは言われたがそういう訳にもいかない。お父さんは仕事でなかなか凛恋に会いに来られないんだ。だから、貴重なお父さんと凛恋の時間を奪う訳にはいかない。
「聞いた? 二〇六の八戸さん、記憶を失う前の彼氏さんとまた付き合い始めたんだって」
「え!? 八戸さんが好きなのって御園先生じゃなかったの?」
廊下を歩いている途中でそんな話し声が聞こえ、俺は思わず足を止めて柱の陰に隠れてしまう。柱の影から先を見ると、並んで話している看護師の女性二人が見えた。
「それが、彼氏を見た瞬間に一目惚れしたんだって。そういうことってドラマとかだけの話だと思ってた」
「でも、もったいないよね~。御園先生、物凄い優良物件だったのに」
「それがその彼氏、塔成大で月ノ輪出版に就職が決まってるんだって」
「でも、出版社の社員と医者だと明らかに医者の方が稼ぐでしょ。それに八戸さんの彼氏の顔見た?」
「今日来てたよ」
「御園先生とどっちが格好良かった?」
「それは御園先生かな~。御園先生の方が爽やか好青年って感じ。八戸さんの彼氏は、なんか冷めた感じで一緒に居て楽しくなさそう」
「それじゃあ、やっぱり失敗だったじゃん。でもそうなると、御園先生が告白してたら分かんなかったよね。御園先生ももったいないことしたね」
好き勝手に話をする看護師達に色々と思うことはある。でも、凛恋は俺を選んでくれた。それで俺には十分過ぎる。
他人の評価なんて昔から大して良くなかった。だから、今更男としてどうとか凛恋に相応しくない話なんて聞き飽きてる。
俺と凛恋の好き合う気持ちに他人の意見なんて関係ない。俺は凛恋が好きで凛恋は俺が好き、それで十分なんだ。
コンビニに行って缶コーヒーを選び、凛恋の好きそうなケーキを選ぶ。
コンビニから戻って来ると、お父さんとお母さんが帰り支度をしていた。
「凡人くん、後はよろしく頼むよ」
「はい。お父さんとお母さんは気を付けて帰って来て下さい」
「ありがとう。凛恋をよろしくね」
「はい」
お父さんとお母さんを見送ると、ベッドの上で凛恋がニコニコ笑う。
「これから凡人くんと毎日会えるなんて嬉しい」
「やったな」
「うん! でも、凡人くんがめんどくさい時は――」
「凛恋に会うのに面倒くさい時なんてない」
「うん……ありがとう。凄く嬉しい」
凛恋は微笑みながら俺の手を握って目を潤ませた。
「これから先、凄く不安はあるの。怪我のこともだけど、記憶のこととか……」
「無理に記憶を取り戻そうとはしなくて良い」
「ありがとう。凡人くんがそう言ってくれるから安心出来る。私は今のままで良いんだって。でも、本当にちゃんと一人で歩けるようになれるのかなとか、ちゃんと生活出来るのかとか。退院したら私は社会人になってるし……多分、今からじゃ就職は出来ないと思う」
就職する必要なんてない。俺と結婚して家を守ってほしい。そう言えはしなかった。
まだ凛恋は俺と付き合い始めて一週間。その短い期間では結婚まで考えられないだろう。そんな凛恋に、今結婚の話をしても困らせるだけだ。
「一気に先のことまで考えなくて良い。まずは体を治すことを考えよう。心配しなくても、ずっと側に居る」
結婚しようとは言えない。でも、凛恋の手を握り返して心配ないと伝える。
危篤状態にまでなった凛恋の体の状態は、リハビリが上手く行けば、事故前と同じように一人で歩けるようになれる。そう言い切れる状態じゃない。だから……最悪、車椅子の生活になるかも知れない。そういう覚悟を持って置かなければいけない。でも……俺はたとえ凛恋が歩けなくなっても側に居る。俺が好きなのは凛恋で、一人で歩ける女性じゃない。それに、凛恋の頑張り次第では一人で歩けるようになる可能性だってある。
「私、凄いな~」
「いきなりどうしたんだ? 自画自賛して」
「今の私じゃなくて、記憶が失くなる前の私のことだよ。こんなに格好良くて優しくて素敵な凡人くんと付き合ってたなんて」
「いや……それを言うなら俺の方だぞ。凛恋はかなり男子からモテてた。付き合ってからも沢山凛恋を好きなやつが現れたし」
「そうなの? でも、私は凡人くんだけに好かれてた方が嬉しかったと思う。私、凡人くん以外が彼氏だったらって考えたら凄く嫌だった。だから、記憶を失くす前の私も、凡人くん以外の人から好かれるのは嫌だったんじゃないかな? 好かれるのが迷惑なんて偉そうなことは言えないけど、凡人くん以外とって考えると胸の中がモヤモヤするの。だから、きっとそうなんだと思う」
困ったような笑顔を浮かべた凛恋は、握った手を見て嬉しそうに、でも恥ずかしそうにはにかんだ。
「不思議。今の私は凡人くんと付き合って一週間で、まだ凡人くんと付き合ってることに気持ちは慣れてない。でも、手を繋いだりキスしたりすると凄く落ち着く。多分、私の中に凡人くんは安心出来る人っていう感覚が残ってるのかも」
「凛恋にそう思ってもらえて嬉しい。でも、無理に距離を詰めようとか頑張らなくて良いから。少しずつ慣れてくれれば」
凛恋の中に、俺がちゃんと居るのが分かって嬉しい。凛恋にとって俺は特別なんだと感じられて、めちゃくちゃ幸せだった。
「凡人くんとだったら、何でも乗り越えられそうな気がする。だから、凡人くんの言葉に甘えさせて。一人で前に進むのは怖いから、手を握って一緒に歩いてくれたら嬉しい」
「もちろんだ。俺は凛恋と一緒に前へ進む。絶対にこの手を放さない」
決意する必要はない。もう決めている。凛恋が記憶を失う前からずっと。
俺はこれからの人生を凛恋と一緒に歩いて行くと。
凛恋と再び付き合えるようになって一ヶ月が経ったが、凛恋の入院生活の終わりは見えない。でも、凛恋の回復ははっきりと目に見えていた。
意識が戻った直後の凛恋は、絶対安静ということもあってトイレ以外は病室から出ることが出来なかった。でも、体が少しずつ良くなっていってることもあって、遂に今日、車椅子で出歩くことが許された。ただ、車椅子で出歩くと言っても、病院の敷地内だけで、自由に街を歩き回れる訳じゃない。それでも、凛恋にとっては大きな一歩だった。
「本当に俺で良かったのか?」
「凡人くんじゃないと嫌」
ベッドの上でニコニコ笑う凛恋に言われて、嬉しい反面不安もある。
俺は凛恋に車椅子デビューを手伝ってほしいと言われた。
「車椅子はベッドと平行に。ブレーキが掛かってる確認をしてフットレストを上げて下さい」
近くで見ている理学療法士の先生の指示通りに動く。ただ、凛恋の車椅子デビューの大役が決まってから、ベッドから車椅子への移動のやり方は何度も調べたし、何度も練習をした。だから、指示されるよりも早く体が動く。
「凛恋、上げるぞ」
「うん」
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