【三〇四《想い到る》】:二
赤ら顔ではにかむ凛恋にそう言って、俺は微笑みを返す。
俺はその時、凛恋の事故があってから初めて、心から笑えた気がした。
「質問して良い?」
「何?」
「私、多野くんの前って誰かと付き合ってたのかな?」
「いや、付き合ってない。お互いにお互いが初めての恋人だった」
「良かったぁ~」
「どうしてそんなに安心してるんだ?」
「だって……多野くん以外の人と付き合ってたら、多野くん以外の人と手を握ったりキスしたりしてたかもしれないでしょ? 私、多野くん以外とそういうことしたくないし…………――ッ! ち、違うの! そういうことしたいって訳じゃなくて!」
また真っ赤な顔で否定する凛恋を見て、俺は凛恋に顔を近付けて首を傾げる。
「したくない?」
「た、多野くん…………ちょっとだけ、したいかも」
「ちょっとだけ?」
「……も、もう! 多野くんの――ッ!? …………」
凛恋の頬に手を添えてそっとキスをする。そして唇を離すと、顔から火が出そうなほど真っ赤にした凛恋が居た。
「凛恋、凄く可愛い」
「た、多野くんって凄く積極的な人なんだ……」
「嫌だった?」
「……嫌じゃなかったよ。ううん、凄く嬉しかった」
潤んだ瞳で俺を見る凛恋は、首を傾げる。
「もう一回……してほしいな」
「俺ももう一回したかった」
また凛恋とキスをして、また……凛恋とキスが出来ていることが嬉しかった。
事故で失い掛けた大切な凛恋と、俺以外の誰かを好きになってしまうかもしれないと覚悟した凛恋と、また恋人になれてキスが出来ている。
「ヤバい……我慢出来なくなりそう」
「えっ!? ダ、ダメだよ!? ここは病院なんだからっ!」
「もっとキスしたいって思って。でも、凛恋の体に響きそうだったし」
「え? キス?」
「…………凛恋、何を想像したんだ?」
「えっ!? ――ッ!」
凛恋をからかうように尋ねると、凛恋は恥ずかしそうに俯いて両手で顔を覆う。
「多野くんの意地悪っ……」
「ごめんごめん」
凛恋から顔を離すと、俺がベッドの端に置いた手に凛恋が自分の手を重ねる。
「どうしてかな……多野くんが彼氏だって知った途端にずっと側に居てほしいって思っちゃう」
「側に居るよ、ずっと」
「でも……面会制限があるし、面会時間を過ぎたら多野くんは帰らないといけないし……」
『八戸さん。こんにちは』
外からドアをノックする音と御園先生の声が聞こえた。
「はい」
凛恋の返事の後、病室のドアが開いて中へ御園先生が入ってくる。そして……俺を見て眉をひそめた。
「多野さん、お久しぶりです」
「ご無沙汰してます」
椅子から立ち上がって頭を下げる。すると、御園先生は凛恋の側へ来てニッコリと笑顔を浮かべた。
「八戸さん、体調はどうですか? 何か気になることとかありますか?」
「大丈夫です。あの……御園先生、私の面会制限はいつまで続くんですか?」
ベッドの上から尋ねる凛恋に、御園先生は笑顔ではないが柔らかい表情を向ける。
「八戸さんの怪我はとても重い怪我です。八戸さんも体が動かし辛かったり痛みを感じたりすることもありますよね? それに、今の八戸さんの体はとても弱っています。激しい運動は絶対に出来ませんし、トイレに行くのにも看護師が必ず付き添わなければ何があるか分かりません。そんな状態だと、人と話すことで掛かる負担があまりに多過ぎると、八戸さんの回復の妨げになります。面会制限は八戸さんの負担を減らし、治療に専念出来る環境を作るために必要だと他の先生と話し合って判断しました」
御園先生が凛恋へ諭すように言ってることは正しいことだ。凛恋の体はまだ万全じゃない。万全どころか、今も何が起こっても不思議じゃない状況なんだ。
「でも……私は彼と会いたいんです……。彼と会えなくなって寂しくて、毎日辛くて……」
「彼?」
凛恋の言葉を聞いて御園先生が俺に視線を投げる。それに、俺は少し胸を張って答えた。
「私と付き合っていたことを話しました」
「そうですか。ですが、面会制限は私の一存では解除出来ません。他の医師の判断も仰がなくてはなりませんし、多野さんは八戸さんのご家族ではありませんから」
はっきりと凛恋の頼みを否定した御園先生は凛恋の様子を見て笑顔を向ける。
「診察はいつもの時間に来ます」
「はい……」
シュンと落ち込んだ凛恋の返事を聞いて、御園先生は病室を出て行く。俺は病室のドアが閉まってから椅子に腰を下ろした。
「……あの分からず屋」
「プッ!」
「あっ! た、多野くん! 今のは違くて!」
「良いよ。記憶を失くす前の凛恋も、不満を漏らす時に口が悪くなってたし」
「で、でも……口が悪い嫌な子だって多野くんに――」
「思ってないよ。俺との面会制限を解いてもらおうとしてくれて嬉しかった」
「でも、多野くんがこっちに帰って来てくれたなら、毎日会えるのに……」
「前に優愛ちゃんと会いに来たことでかなり信用を失ったみたい。一ヶ月に一回って言うのも、俺以外の人の面会制限を解くための交換条件でもあったし。迷惑を掛けたのは俺だけだから、俺以外の凛恋の友達は会って良いはずだって――凛恋……」
目の前で顔を両手で覆った凛恋が泣き出してしまい、俺は凛恋の背中をそっと擦る。
「せっかく付き合えたのに……多野くんと両想いになれたのに……なんで会っちゃダメなの?」
答えは分かっている。俺だからだ。俺の信用がないから面会制限を掛けられるし、俺が凛恋の家族ではないから例外にされない。
「寂しいよ……多野くんが来てくれなくなってからずっと寂しかった……。やっと多野くんが来てくれるようになったのに……」
「凛恋……」
「凛恋……凡人くん?」
後ろから聞こえた声に振り返ると、お母さんが立っていて俺と凛恋を交互に見る。
「お母さん。俺達、また正式に付き合うことになりました。記憶が戻った訳じゃなく、今の凛恋とまた始めます」
「そう。私はきっとまた二人が一緒に歩き始めると思ったわ。ところで、凛恋はどうして泣いているの?」
俺の隣に来て凛恋の顔を覗き込むお母さんに、凛恋は涙で濡れた顔を上げた。
「多野くんが月に一度しか面会出来ないって……」
「そうなの……。分かったわ。私が担当医の先生達とお話をしてくる。凡人くんが毎日来られるように」
「良いんですか?」
「何を言ってるの。大事な娘と息子のことよ。凡人くん、凛恋のことをお願いね」
聞き返す凛恋へ優しく言ったお母さんは、病室を出て行く。その後、凛恋は申し訳なさそうに俯いた。それを見て、俺は凛恋にティッシュペーパーを差し出して頭を撫でた。
「お母さんも分かってるよ。そんなに簡単に娘らしく接することが出来ないことくらい」
「ありがとう。お母さんだと思わないといけないって思って――」
「無理にそう思わなくていい。無理にお母さんだと思った方がお母さんは傷付く。無理しなくていいんだ」
「多野くん……」
背中を擦る俺に凛恋が寄り掛かり、俺は凛恋を支えながらそっと抱きしめた。
「多野くんが彼氏で良かった。凄く優しくて格好良くて……側に居ると安心するの。多野くんが居てくれたら何だって出来る気がする」
「ずっと側に居る」
「嬉しい。本当に凄く嬉しい。あのね……もう一回したい」
「もう一回?」
「…………キスしたい」
強請るように見詰める凛恋にドキドキしながらも、俺は凛恋の顔を見て笑う。
「うん……ドキドキするし幸せだったから……」
「俺も凛恋とキスするの好きだから、ずっとしたかった」
「多野くん……んっ……」
優しく唇を重ねて凛恋の頭を撫でる。
「凛恋、大好きだ」
「私も多野くんのことが大好きっ……」
離した唇を凛恋から重ねてくれて、俺は目を閉じて、久しぶりに凛恋との甘い時間を過ごす。
間違えて間違えて、間違え続けても通じ合えた気持ち。それを運命と呼ぶのは軽過ぎる。それはたった二文字では言い表せないものだ。
「多野くん……名前で呼んでみて良い?」
「確認しなくても良いのに。俺と凛恋は付き合ってるんだから」
「そ、そうだよねっ! ………………かっ、凡人、くん……」
真っ赤な顔で俺の名前を呼んでくれた凛恋を抱きしめる。
「ありがとう。でも、呼び捨てで良いんだぞ?」
「よ、呼び捨てなんてまだ無理だよっ……。名前で呼ぶのだって凄く勇気を出したのに……」
「分かってる。照れてる凛恋も可愛い」
「か、凡人くんに可愛いって思ってもらえて嬉しい。凡人くんも凄く格好良い」
「ありがとう」
凛恋が俺を見て恥ずかしそうにはにかむと、病室のドアが開いてお母さんが戻って来た。
「今度、お父さんを交えて担当医の先生達とお話しすることになったわ」
「分かりました。その話し合いでどうなるか分かりませんけど、とりあえずは今のままですね」
「えっ…………」
お母さんと話していると、凛恋の寂しそうな声が聞こえる。
「凡人くん……」
「凛恋、少し辛抱して。必ず凡人くんと一緒に居られるようにするから」
「ありがとうございます」
「少し凡人くんとお話して来て良い?」
「はい」
お母さんに連れられて病室の外へ出ると、真正面から強く抱きしめられた。
「凡人くんっ……ありがとうっ」
「お、お母さん?」
震えた声でお礼を言われて戸惑っていると、体を離したお母さんは涙の滲んだ目で笑った。
「意識が戻ってから、凛恋はどこか心細そうだった。……仕方ないわ、記憶を失った凛恋にとって周りは自分の知らない人ばかりなんだから。でも……辛そうな凛恋を見ているのが辛かった。それに、凛恋は誰にも弱音を吐かなかった。私達には寂しいなんて言わなかったし寂しさを見せようとしなかった。だけど凡人くんには、凛恋は寂しさを見せてくれた。今の凛恋にとって凡人くんは、唯一、心の拠り所になってる。だけど凡人くんにだけそういう重荷を背負わせるのは――」
「凛恋は俺にとって重荷じゃありません。俺は凛恋を一生支えます。たとえ記憶が戻らなくても、俺はずっと凛恋を守って行きます」
「ありがとうっ……本当に、凛恋を好きになってくれて……本当にありがとう」
「お礼なんて言わないで下さい。俺はただ、好きな人と一緒に居たいだけなんですから」
お母さんにそう言うと、俺はお母さんが久しぶりに明るく笑っているのを見た。
「凛恋のところに戻ってあげて。私は何か食べ物を買ってくるわ。三人で食べましょう」
「ありがとうございます」
食べ物を買いに行ってくれたお母さんを見送ってから病室に戻る。
「お母さんは?」
「食べ物を買って来てくれるって」
「気を遣わせちゃったのかな」
「気にしなくて良いって。丁度お腹も減ってたし助かった」
「凡人くん、ちょっと私のおでこを見てくれない?」
「おでこ? 何か違和感でもあるのか?」
凛恋に頼まれて、凛恋の前髪をかき上げておでこを見ようと顔を近付けた。
「チュッ! えへへっ、隙あり!」
不意打ちのキスをした凛恋はニコニコ笑って指先で自分の唇に触れる。
「お母さんが戻ってくるまで時間あるよね? ……だから、ね?」
俺の服を掴んで軽く引っ張る凛恋に、俺は小さく笑ってそっと顔を近付けた。
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