【三〇四《想い到る》】:一

【想い到る】


 地元に帰って来られたのは夜遅くで、俺は実家に帰らずインターネットカフェで一晩過ごした。家まで帰るための交通費がなかった訳でもホテルに泊まるお金がなかった訳でもない。朝の面会が始まってすぐに凛恋へ会いに行きたかった。ただそれだけの理由だった。


 泊まったインターネットカフェは凛恋の入院している病院から徒歩で五分もない。

 病院の正面玄関から中に入って、久しぶりに面会の手続きをする。

 特に止められることなく手続きが済んで、俺は逸(はや)る気持ちを必死に抑えて走らないように凛恋の病室へ向かう。

 全て打ち明ける。全て打ち明けて、俺が凛恋の全てを受け止めて支えて行く覚悟だと伝える。間違って迷ったけど、今はそれが正しいと思っている。


「お疲れ」

「お疲れ~」


 凛恋の美容室のある階まで階段を上っていると、上からそんな声が聞こえた。視線を上げると、並んで下りてくる看護師の女性二人が見える。


「そういえば、二〇六号室の八戸さんどう?」

「怪我の方はまだまだ治ったとは言えないわ。大きな事故だったし、うちへ運ばれて来た時も危ない状態だったし」

「でも、助かって本当に良かったわ」

「だけど、記憶喪失は可哀想よ。命が助かっただけでも良かったとは言えないわ」

「八戸さんとはどんな話をするの?」

「体調の話以外だと、私の彼氏の愚痴を話すの。そういう世間話みたいなものが負担にならないと思って」


 その話を聞いて、看護師の人達も凛恋のことをちゃんと気に掛けてくれている。それが知れて安心した。


「八戸さんはどんな話をするの?」

「記憶を失ってるから自分の話はあまり出来ないけど……あっ! そう言えば、この前彼氏の話をしてる流れで分かったんだけど、八戸さん、好きな人が居るみたいよ」


 看護師の「八戸さん、好きな人が居るみたいよ」という言葉が頭の中で反響する。そして、俺はとっさに階段を上らず脇の壁に隠れた。看護師の言葉が俺の心の奥を抉って、グッと胸の奥を締め付けられる感覚がする。


「私、八戸さんの好きな人が誰なのか分かるかも。脳神経外科の御園先生じゃない?」

「やっぱりそう思う? 御園先生って若いけど頼りになるし、毎日八戸さんのことを気にして逐一様子を見に行ってる。接する時間が長いし、入院生活で不安な時に優しくされたらコロッといっちゃうわよね~」

「それに、御園先生の方もまんざらじゃなさそうだし」


 よくある女性同士の恋バナ。それを聞きながら、階段の壁に背中を預ける。


「なになに? まんざらじゃなさそうって、何か知ってるの?」

「私、昨日の夜聞いちゃったの。他の先生に、患者さんを好きになったらどうすればいいんですかねって相談してるの」

「えぇ~! それもう八戸さんのことでしょ! 御園先生の担当患者さんで歳が近い女性は八戸さんだけだし、他に好きになりそうな患者さんは居ないわよ」

「八戸さんは可愛いからね~。前にレディーナリーでモデルやってた子に顔が似てるって他の看護師も噂してたし」


「両想いか~。これから二人が話してるのを見る時ニヤニヤしちゃいそう」

「私も私も。二人が付き合うのはまだまだ先かもね。八戸さんは退院しても通院は必要になるだろうし、真面目な御園先生なら八戸さんが完治するまで我慢しそう」

「そう? 意外と早く告白するかもよ? 入院中に秘密の交際なんて、結構ドキドキするシチュエーションじゃない? そのうち病室に行ったら二人がキスしてる現場に出くわすかも」

「流石に診察中の札くらい下げるでしょ~」


 笑い混じりの冗談半分の話。ただ面白がって妄想を膨らませてるだけ。それが分かっているのに、その看護師達の話を想像してしまって胸の奥がえぐられた。

 止めていた足を動かして階段を登り切る。登り切った先に二人の看護師が居たが、俺は軽く会釈をしてから真っ直ぐ凛恋の病室へ向かう。


『はい』

「多野だ」

『え? 多野くん!? 入って!』


 ドアをノックして最低限の言葉を発した俺に、中から驚いた凛恋の声が聞こえた。

 ドアを開けて中に入ると、ベッドの上で髪を耳に掛けた凛恋が俺を見た。


「久しぶり」

「うん、久しぶり! 多野くん、座って座って!」


 凛恋が椅子を勧めてくれて、その椅子に腰掛けると、凛恋がベッドの上で首を傾げた。


「多野くん、就職先のアルバイトが忙しくてなかなか帰って来られないかもって聞いてたからびっくりしちゃった」

「今日は、八戸さんに大事な話があって来たんだ」

「大事な話……た、多野くん! その前にほら! 多野くんが来てくれない間に貰ったお見舞いのお菓子、全部一個ずつ取ってたんだよ? 取っておかないと多野くんが拗ねちゃうと思って」

「大事な話を聞いてほしい」


 何故か慌てている凛恋が出してくれたお菓子を見て、凛恋の優しさに胸が締め付けられて、その凛恋の優しさが嬉しくて、凛恋を誰にも渡したくない気持ちがより強くなる。

 もしかしたら、もう手遅れなのかもしれない。でも、手遅れになっていたとしても、俺は間違いを正すと決めたんだ。間違いを正した結果、俺が描いた未来にならなくても良い。それは俺が間違えた責任だ。でも……傲慢だけど、伝える権利だけは俺にだってあるはずだ。


「俺と八戸さんは――いや、俺と凛恋は付き合ってたんだ。凛恋が記憶を失う前に」

「えっ……うそ……」


 手で口を覆って目を見開いて驚く凛恋を見て、胸の奥にズキンと激しく重い痛みが走る。でも、それで挫ける訳にはいかなかった。


「俺と凛恋が高一の時、俺と凛恋は違う高校だった。その違う高校同士の合コンみたいなカラオケで出会ったんだ。凛恋は信じてくれないかもしれないけど、そのカラオケで凛恋は俺に一目惚れしてくれた。でも、その当時の俺は人と仲良くなるのが苦手で、自分が人と仲良くなったり人に好かれたりすることはない人間だと思ってた。それに、凛恋と俺は住む世界が違う人間同士だと思って、凛恋と距離を取ってた」


 説明をしても、それは凛恋の知らない過去の話だ。聞いても凛恋には理解出来ないだろうし、信じることも出来ないだろう。だけど、話したかった。


「俺は物心付いた頃から両親が居なくて、そのことから学校でもいじめられて嫌われてた。当時の俺は、そんなやつと一緒に居ることはたとえ友達としてでも凛恋にとって不利益だと思った。でも凛恋は、俺が自分自身でこんなやつって思う俺に優しくしてくれて、俺が陰口を言われることを怒ってくれて……それに、俺が傷付いたかもしれないって泣いてくれた。それが凄く嬉しくて、俺は生まれて初めて栄次以外の友達が出来た。でもそれは、凛恋が俺を諦めずに頑張って接してくれたからなんだ。本当に感謝しかない。避け続けて傷付けたのに、それでも凛恋は俺を諦めないで居てくれた。それで俺もそんな凛恋のことを好きになってて……でも、友達を失うことが怖くて気持ちに素直になれなかった。俺はあの時、初めての恋を諦めようと思った。友達を失う怖さに自分の気持ちを打ち明ける勇気が持てなかったんだ。だけど、凛恋が勇気を振り絞って俺に気持ちを伝えてくれて、俺達は付き合えた」


 視線の先の凛恋は戸惑って固まっている。そりゃそうだ。ついさっきまで、気の良い友達としか思ってなかった男から、実は付き合ってたんだと言われても困って仕方ない。それが分かっていたから、俺は伝えることは間違っていると――いや、良くないことだと思った。それでも、今の俺は伝えることが正しいと思っている。だから、迷って躊躇っても、今はもう前へ進むしかない。


「凛恋とは色々すれ違いも経験して、途中喧嘩別れみたいなことにもなってしまった。でも、俺と凛恋は沢山のことを乗り越えて付き合い続けることが出来て……。でも……事故で凛恋が記憶を失って……」


 気持ちを伝えれば伝えるほど凛恋を困らせている。気持ちを伝えれば伝えるほど、俺は凛恋にとって迷惑な存在になっていっている。でも、それでも、俺は正直に気持ちを伝えたい。


「凛恋が俺のことを何もかも忘れてしまった時は……正直ショックだった。凡人って呼んでくれてた凛恋が俺を多野くんって呼ぶのを聞く度に、俺達の過ごした時間はゼロに戻ってしまったんだと思った。でも……それでも俺は凛恋が好きなんだ……」

「多野くん……何で、話してくれなかったの?」

「記憶を失ってる凛恋の負担になりたくなかった……自分のことも分からない凛恋にとって、恋人の存在は負担になると思った。だから……言わない方が良いと思ったんだ」


 凛恋の問いに答えて、自分の犯した間違いに心を苦しめられる。


「でも……俺はただ怖かっただけなんだ。今の状況全てを受け入れられる覚悟がなくて……凛恋の中に俺が居ないことを直視することが出来なくて、凛恋にとって新しい俺を作って装って、自分の気持ちをすり替えてた。でも今は違う。俺は全部受け入れて背負って行く。いくら凛恋に俺の記憶がなくても、俺は凛恋のことが好きなんだ。俺のことを覚えている凛恋じゃなくて、凛恋自身が好きなんだ。たとえ、凛恋が俺以外の人を好きになっても、凛恋を好きな気持ちは変わらない」

「本当に、私と多野くんは付き合ってたの?」

「ああ」


 戸惑った表情で確認する凛恋に頷くと、凛恋の顔は見る見るうちに真っ赤になり、両手で自分の頬を包み俯く。


「夢じゃ……ないよね?」

「え? いや、夢じゃないと思うけど……」


 凛恋の反応が予想していたものと全く違って。その予想外の反応にどう反応すれば良いか迷う。


「あ、あのね。私、多野くんのこと、初めて会った時から格好良いなって思ってたの」

「…………へ?」


 真っ赤な顔で恥ずかしそうに言う凛恋の言葉を聞いて、一瞬言葉が飲み込めなかった。

 初めて会った時から格好良いと思ってた?


「じ、自分でもおかしいとは思うのっ! だって自分のこともよく分かんないのに、初めて会った人にこんな気持ちになるなんて。でも、多野くんが初めて来てくれた時、世の中にはこんなに凄いイケメンの人が居るんだってびっくりしちゃってっ! そ、それでね……気が付いてたら多野くんのこと好きになってて」

「…………え? 好きな人って御園先生じゃ?」

「え? 御園先生? 御園先生はただの担当医の先生だよ」


 不思議そうに首を傾げた凛恋を見て、俺は頭を押さえて大きくため息を吐く。


「た、多野くん!? だ、大丈夫?」

「大丈夫。ちょっと気が抜けただけだから……」


 こんなことならもっと早く話しているべきだった。そうしていたら、今まで色々考えて悩まずに済んだのに……。


「ね、ねえ……多野くん?」

「ん?」

「そ、それで、その……私と付き合ってくれるの? あっ! もう付き合ってるんだよね! ごめん!」

「い、いや、謝らなくて良いよ。それに無理に付き合ってるって思わなくても大丈夫。記憶喪失で大変な時だし」

「無理なんかしてないっ! ずっと多野くんが彼氏だったら良かったのにって思ってたしっ! ――ッ! ごごご、ごめん! 変なこと言って!」


 真っ赤な顔でドギマギと大慌てする凛恋は、俺を探るように見る。


「本当に、私達付き合ってるんだよね?」

「ああ」

「本当に本当?」

「本当に本当だ」

「……嘘っ……本当に夢みたい……」


 胸に手を置いて深呼吸をした凛恋は改めて俺の顔を見て頬を赤らめる。


「どうしよう……やっぱり格好良過ぎる……。こんな格好良い人が私の彼氏なんだ」

「いや……そこまで言われるほど格好良くはないと思うけど……」


 戸惑いながらも、こんなやり取りを何度も凛恋としてきたから懐かしさが浮かぶ。それが凄く嬉しかった。


「でも、凛恋が俺のことを好きになっててくれたなんて全然知らなかった」

「い、言えないよ! 凄く恥ずかしかったし」

「本当に良かった。また好きになってもらえて」

「多野くんは凄く格好良い。でも見た目だけじゃなくて性格も優しくて! 凄く素敵な人だと思ったよ」


 まだ赤みの残った顔で躊躇いがちにそう言ってくれた凛恋がはにかむ。その笑顔を見て、俺の目からは涙が溢れた。


「多野くん!? どうしたの!?」

「安心したんだ……凛恋がまた俺のことを好きになってくれて……」

「多野くん……ごめんね。私、多野くんとの思い出が何も思い出せないの。きっと多野くんと付き合えてたなら、私は凄く幸せだったはずなのに」

「良いんだ。思い出はまた一緒に作れば良い。俺は、凛恋が俺のことを好きで居てくれれば」

「うん。でも、多野くんごめんね。多野くんは私を名前で呼んでくれてるけど、私は恥ずかしくて多野くんのことまだ名前で呼べないよ……」

「恥ずかしがらなくても……」

「だ、だって……多野くんが私の彼氏だったってだけでもいっぱいいっぱいなんだよ!?

 名前でなんて呼んだら倒れちゃう!」

「分かった。少しずつ慣れていこうか」


 名前で呼んでくれないことに寂しさを感じる。だけど、凛恋とまた気持ちが通じ合えただけで今は十分だ。


「明日からも来てくれる?」

「来たいところだけど、一ヶ月に一度っていう面会制限はまだ解けてないからな」

「そっか……多野くんと会えなくてずっと寂しかったから、来てくれて凄く嬉しかったのに……」


 唇を尖らせる凛恋を見て思わず笑ってしまう。本当に良かった。凛恋にまた好きになってもらえて。


「多野くん、聞いてる?」

「聞いてる。でも、俺が無理に会いに来たせいだから自業自得なんだよな」

「私は凄く嬉しかった。御園先生は面会が多いと私の負担が増えるからって言ってたけど、多野くんが来てくれなくなって退屈なの」

「俺、就職までこっちに居るから。月に一度は会えるよ」

「えっ……月に一度……。私、御園先生に頼んでみる。多野くんと――彼氏と毎日会わせて下さいって」

「凛恋。……ありがとう」

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