【三〇三《これから先、どうなるかは誰にも分からない》】:二

「自分の傘を――」

「少し離れてからじゃないとバレるよ」

「まあそうだけど……。バス停から離れてる」

「今日泊めて」

「でも……」

「さっきの人もバスを使ったら鉢合わせしちゃうし。なんか一人で帰るの怖くなっちゃった」


 泊めることは良くはない。でも、さっきの男と理緒さんが鉢合わせするのは良くない。俺は今まで何度も男で女の子が傷付くのを見て来た。だから、そうなる心配があると放っておけなくなる。


「怖いって言われたら放っておけないだろ……」

「やっぱり、凡人くんは優しいね」

「さっきの男と理緒さんが出くわしてトラブルになるのも心配だし……」

「ありがとう。じゃあお礼に、コンビニで私の下着選んで良いよ」

「どういうお礼の仕方だよ」

「でも……本当にちょっと今日は泊まりたかったの」

「理緒さん?」


 腕から離れた理緒さんが俯き少し傘の下からはみ出す。その理緒さんの体が濡れないように傘と体を動かした。でも、すぐに理緒さんはにっこり笑って俺の方を見る。


「じゃあ凡人くんの家に戻ろっか」

「え? コンビニに寄るんじゃ?」

「私、着替えとかお泊まりする時に最低限必要な物は鞄に入れてあるの。この前みたいなことがあっても良いように」

「この前みたいなことは早々ないと思いたいけど」


 仕方なく一度来た道を帰って戻ると、理緒さんがすぐに風呂の準備を始める。地震の時に数日泊まっていたから、すっかりうちの設備に慣れてしまったらしい。

 一緒に夕飯のカレーを作り、頑なに一番風呂を譲る理緒さんに根負けしてから風呂に入って、理緒さんが風呂に入ってる間、スマートフォンに残った凛恋との写真を見る。


 今までは見返して元気を貰えていたのに、今は見返すと辛く悲しく寂しくなる。

 今はもう、凛恋は俺に恋人へ向ける顔は向けてくれない。

 どうしてこんなことに。そう考えて、真っ先に事故を起こした犯人達の存在が浮かぶ。

 あいつらが居なければ凛恋は怪我をしなかったし、俺は凛恋に忘れられることもなかった。全部、凛恋を撥ねたやつらが悪い。それは確かなのに、どんなに恨んで殺してやりたいと心の中で叫んでも、凛恋は怪我をしているし俺のことを思い出してくれない。


 凛恋には多野くんじゃなくて凡人と呼んでほしい。遠慮がちな笑顔ばかりじゃなくて、満面の遠慮なしの明るい笑顔が見たい。あの柔らかくて温かい凛恋の体を躊躇いなく抱きしめたい。でも、そう願う気持ちが凛恋の回復の邪魔になる。


「やっぱり泊まって良かった」

「理緒さ――」

「毎日、そんな辛そうにしてるの?」

「いや……そういう訳じゃなくて」


 スマートフォンをホーム画面にすると、理緒さんが俺のスマートフォンを奪い取ってテーブルに置く。そして、俺の隣へ座った。


「凡人くん、今は凛恋と友達なんだよね?」

「ああ。その方が、凛恋にとって良いから」

「じゃあ、今凡人くんはフリーなんだ」

「え? いや……俺は凛恋が好きで」

「でも、付き合ってないならフリーだよ」


 そう理緒さんに言われて、俺はとっさに返す言葉がなかった。確かに、今の俺は凛恋と付き合ってると言えない。


「凡人くん、私と付き合おう。私なら凡人くんの側に居られる。凡人くんのためだけに時間を使えるし、凡人くんが今みたいに辛い時側に居てあげられる」

「俺が好きなのは凛恋だけだ」

「良いよ、最初はそれでも。迷ったままで良い。それでも私と付き合ってくれたら、私は今まで以上に凡人くんの心を癒やしてあげられる」

「必要ないよ、俺には」

「そんなことないって、今すぐ証明出来るよ?」

「理緒さん、ちょっ――ッ!?」


 押し付けられた唇に理緒さんの両肩を押そうとする。でも、理緒さんが俺の首に手を回して抱き付く方が早かった。

 胸の奥がドクンッと脈打つ。その後、背筋を駆けるゾクゾクとした感覚が全身を震わせた。


「ほら……凄く反応してくれてる。キス、久しぶりでしょ?」

「理緒さん……離れて……」

「自分では分からないかもしれないけど、今の凡人くん、凄く男の人の目をしてる。凛恋が入院してから沢山我慢してたんだよね? でも、私には我慢しなくて良いんだよ?」

「理緒さんは巽さんに怒っただろ。理緒さんは巽さんと同じことを――」

「私が怒ったのは、あの子が凡人くんに手を出したからだよ。誰だって、自分の好きな人にちょっかい出されたら怒るよ。私は知ってるの。私の強みはこれなんだって」


 首筋に理緒さんの唇が触れ、むず痒い感覚と背中のゾクゾクが増す。


「男の人を誘うのってきっと簡単じゃない。でも、私にはそれを簡単に出来る強みがあるから。凡人くんの気持ちを手に入れるためなら躊躇わないで使うよ」


 シャツの裾から理緒さんの手が入って来て胸を撫でる。そして、生温かい理緒さんの息と囁きが耳に触れる。


「一回だけ試してみよう。それで心が楽にならなかったら止めていいよ。一回だけ、凡人くんの全部を私に使ってみて」

「理緒さん……離れて……」

「私を選んでよ……私を選んでくれたら、凡人くんは苦しまなくて良いんだよ? 凡人くん以外を凛恋が選んだら、結局凡人くんは一人にされちゃうんだよ? でも、私なら凡人くんを一人にしない。今日まで私がして来たのは無駄だった? 凡人くんに好きって言い続けたこと。誰に告白されても断り続けたこと。凡人くんに断られても好きで居続けたこと。それで、私は凡人くんを一人にしない証明にはならない?」


「凛恋の代わりは居ない」

「それは当然だよ。でも、彼女はいくらでも代わりが居る。凛恋を出来る人は居なくても、凡人くんの彼女を出来る人は沢山居る。私は凡人くんの彼女になりたい。彼女にしてくれたら、絶対に凡人くんを幸せにするよ」


 きっとそうなったら、今の俺の苦しみは和らぐのだろう。

 凛恋が俺を忘れたように、俺も凛恋を忘れて理緒さんと付き合えば、凛恋のことを思って辛く悲しく苦しく……寂しくなることもない。

 だからきっと……理緒さんと付き合った方が楽だ。

 だけど……たとえ、そうだとしても……。


「…………凛恋を忘れて楽になるくらいなら、凛恋を想って苦しい方が良い」


 理緒さんの両肩を強く押して離れさせる。


「凛恋の代わりは居ない。俺の彼女の凛恋の代わりは居ないんだ。……いや、誰にも代わりをしてほしくないしさせたくないし、そもそも務まらない」

「分からないよ。やってみないと」

「分かるよ。理緒さんじゃ無理だ。俺がそう断言出来てる時点で答えは出てる」

「凛恋は忘れちゃったんだよ? 凡人くんのことをただの一つも覚えてない」

「俺は忘れてない。俺が好きな凛恋のことを、俺が凛恋を想う気持ちを俺は忘れてない。それが一方通行の想いでも良いんだ。俺の好きな気持ちはもう、凛恋以外の誰にも向けたくない」

「だったらさ。なんでこんなところでダラダラしてるの?」

「えっ?」


 目の前で理緒さんが真っ直ぐ向けた言葉に戸惑う。


「凡人くんって本当に鈍いよね」

「り、理緒さん?」


 態度が豹変して心底呆れた顔をしている理緒さんは、俺の両頬を抓って笑う。


「あの脳神経外科の先生、凛恋のこと好きだよ」

「え? は?」

「凛恋みたいな可愛い患者さんが来たらその可能性はあるって誰だって分かる。それに、婚約者だって知ってる凡人くんを遠ざけられた今、記憶を失ってる凛恋にアピールし放題。それくらいも分かんないから、凡人くんは恋愛で苦労するんだよ」

「御園先生は担当医で――」

「露木先生だって教師と生徒の立場でも凡人くんのことを好きになった。恋愛はね、人の立場とかそういうの簡単に乗り越えちゃうんだってそろそろ気付いて。私だって、親友を失っても凡人くんのことが好きなんだから」


 ドンッと突き飛ばされて、俺はソファーの上へ仰向けで倒れる。


「ここまでやりたくないことやらせたんだから、凛恋に振られたら試しに一度私と付き合って。その条件を飲んでくれないとこのまま――」

「それはダメだ。そんな中途半端な気持ちで付き合って良いほど、理緒さんは軽い人じゃない」


 上から見下ろす理緒さんが目を丸くして驚き、そしてすぐに笑った。


「あーもう……そういう優しくて真面目なところが本当に大好き」

「ごめん。俺、今から地元に帰る」

「はい。今日の最終便の航空券。今ならまだバスを使っても間に合うよ」


 鞄から航空会社の封筒を差し出した理緒さんは、俺にニコッと笑う。


「これは貸しだからね」

「理緒さん……どうして……」


 理緒さんがやっていることは、理緒さんの思いとは真反対だ。理緒さんは俺のことを好きで居てくれるのに、その気持ちとは反対の方向に俺の背中を押している。


「私の気持ちを甘く見ないで。私は本気で凡人くんのことを好きなの。そんな好きな人が明らかに不幸せに進んでるのに止めない訳にはいかない。それに、私は凡人くんとなら浮気でも良いし。凛恋に飽きたらすぐに声掛けてね。ほら、行かないと間に合わなくなるよ。家のことは心配しないで、今日は泊まらせてもらうけど、明日掃除して出て行くから」


「ごめん!」


 俺は慌てて立ち上がって適当に着替えてから鞄を持って家を飛び出す。そして、スマートフォンを取り出して古跡さんに電話を掛けた。


『もしもし? 多野?』

「古跡さん! 俺を地元に帰らせて下さい! やっぱり凛恋の側に居たいんです!」


 身勝手な頼みなのは分かっていた。それで古跡さんの、編集部のみんなの信頼を失う可能性だってあることだった。でも、もう走り出した足と想いを止めることは出来なかった。


『いつ言ってくるかと思ったけど、結構遅かったわね』

「は?」

『多野のお友達、筑摩さんって子、良い子ね。わざわざ編集部に来て私に頭下げに来たのよ。多野は今、色んなことで頭がいっぱいで迷ってる。でも、必ず地元にまた帰るって言い出すから、その時は了承してほしいって』

「……理緒さん、そんなことまで」

『まあうちとしては、あんな可愛い、来年には新人女子アナとして話題になりそうな子と繋がりが持てたし、レディーナリーならいつでも取材を受けますとも言ってもらったから。それにしても、多野って本当に罪な男ね。あんな可愛くて良い子にここまでさせるなんて』

「…………」


『からかい過ぎたわ。編集部のことは気にしないで良いわよ。多野が居たらそれは助かるのは間違いない。でも、同じ仲間がすっきりした気分で働けないのは、仲間として放っては置けないわ。ただし、来年度の就職までには戻って来なさいよ。こっちはそのつもりで色々準備してるんだから』

「ありがとうございます!」

『じゃあ気を付けて行きなさい。それから、ちゃんと八戸さんの手を握ってるのよ。八戸さんには多野が必要よ』

「はい!」


 古跡さんとの電話を終えて、俺は服が濡れるのも躊躇わずに雨の降る道を走る。

 俺は間違っていた。凛恋に自分が凛恋の彼氏だと伝えなかったことから、今の今まで凛恋の側を離れていたことまで。全て、俺のやったことは間違っていた。それを分かっていながら俺が間違いを正せなかったのは覚悟が足りなかったからだ。


 俺には足りなかった、今の凛恋を受け入れる覚悟が。今の、俺のことを何も知らない凛恋を見続けて守り続けて受け入れる覚悟が足りなかった。だから、俺は今までとは違う自分を装って凛恋に接することしか出来なかった。

 凛恋の心に恋人の存在が負担になるかもしれない。でも、それを負担にさせないように俺がすれば良いんだ。凛恋が不安に思わないように俺が凛恋の心の支えになれば良いんだ。


「くっそ……あの野郎っ!」


 走りながら、心の中に御園先生への八つ当たりが湧く。

 理緒さんの言うとおり、御園先生が凛恋のことを本当に好きか定かではない。でも、もしそうだったら俺は御園先生に凛恋から引き剥がされたんだ。俺が医学のことを何も知らないと思って、俺が凛恋にとって害だと言われて凛恋と引き裂かれた。だから、そんな仮定のことだとしても悔しくて堪らなかった。


「絶対に凛恋は渡さないッ!」


 走り出して、突き抜けそうな勢いになった気持ちは止まる気配がなかった。でも、その気持ちに乗って軽やかに自分の体が駆けるのも分かる。

 俺の体も気持ちも時間も、俺に関する全てのものは凛恋のためだけにある。凛恋のためだけに消費されて……それは凛恋にしか補充出来ない。

 水溜まりを盛大に踏んで跳ね上げた水音で、俺は雨が止んでいることに気付いた。そして自分を覆っていた傘を閉じて、さっきよりも速く軽やかに走り出した。

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