【三〇一《迷い躊躇い傷付けた己は尚、迷い躊躇い己を傷付ける》】:二
目を覚ましたら病院だった。全身に気だるい感覚があり、体を起こす気になれない。
「睡眠不足が原因。ご飯を食べれてないのも良くないって」
「理緒さん……」
ベッドの脇に座る理緒さんの目は真っ赤になっていて、俺をキッと睨んだ。
意識がはっきりしてきて、理緒さんに手を握られているのが分かった。
「点滴が終わるまでまだ一時間以上あるから」
「俺は――」
「お店で倒れたの」
「みんなに悪いことしたな……」
「そう思うなら、明日からはちゃんと食べて寝て」
「……自分ではそうしてるつもりなんだ」
「食べれてないし寝れてもないから倒れるんだよっ! ……凄く心配した。今も心配してる」
「ごめん……」
自分が倒れるくらいまで追い詰められているなんて分からなかった。でも、それは絶対に凛恋のせいなんかじゃない。
俺がただ弱いだけなんだ。
「自分が弱いからって責めても何も変わらないから」
理緒さんは怒っている。でも、怒らせるくらい心配させた俺が悪い。
「理緒さん……もう家に――」
「家には電話した。大切な友達が倒れたから付き添うって」
「ごめん」
「謝らないで。私が勝手に付き添ってるの」
手を離して理緒さんはベッド脇の棚に置いてあったビニール袋からゼリーを取り出す。
「凡人くんがベッドで寝てる間に買って来たの。もう温くなっちゃったけど」
蓋を開けてスプーンでゼリーをすくった理緒さんが差し出す。
「食べて」
食べてないことを心配させて食べない訳にはいかなかった。
理緒さんが差し出したスプーンからゼリーを食べる。あっさりしたフルーツゼリーで、甘過ぎず冷たくないお陰でスッと喉の奥に入れられた。
「どうして理緒さんはこんなに俺の世話を焼いてくれるんだ?」
「今更そんなこと聞くなんて酷い。…………好きだからに決まってる」
「でも、俺には凛恋が居る」
「それでも好きだから。はい、食べて」
俺にゼリーを最後まで食べさせて、理緒さんは空の容器をビニール袋に捨てる。すると、クスッと笑ってティッシュペーパーで俺の口を拭った。
「端に付いてた」
「それくらいは自分で――」
「私がしたかったの。凡人くんの役に立ちたかった。…………私は凡人くんの全部を完璧に知ることなんて出来ない。でも、今が凡人くんにとって辛い時で、今の凡人くんの状況が良くない状況なのは分かってる。私じゃ凡人くんの辛い気持ちを和らげることは出来ないかもしれない。でも……たとえ凡人くんに嫌がられても、今の凡人くんの自分自身を追い込んでる行動だけは止めれられる。ちゃんと食べてちゃんと寝る。そうしないと、体だけじゃなくて心も追い込んじゃう。だから、点滴が終わるまでまた眠って体と心を休めて」
理緒さんが俺の頭を撫でてじっと見詰める。
「理緒さん、ありがとう」
俺がどれくらい気を失っていたのか分からない。でも、いきなり倒れてびっくりさせてしまっただろうし、長い時間、俺に付き添わせてしまった。
「私は凡人くんのこと好きなんだから何でもやって凡人くんに気に入られたいの。だから、気にせず私に何でもやらせれば良い」
「そんな酷いこと――」
「でも、凡人くんがそういうことを絶対に出来ないから、私は凡人くんのことが好きなんだけどね」
からかうように笑って言った理緒さんは俺の頭から手を離して、ゼリーのゴミが入ったビニール袋を持って立ち上がる。
「ゴミを捨ててくるね。凡人くんの家族には私が付いてますからって言ってるから、安心して寝てて」
俺の返事を聞かずに理緒さんがゴミを捨てに行って、俺は細く息を吐きながら目を閉じる。
凛恋は毎日ベッドの上に居る。長い入院生活だから、今俺が寝かされているベッドよりも当然良いベッドには寝てる。でも、きっといつも、静かな病室で寝てるんだろう。
凛恋は記憶を失っている。でも、凛恋はみんなでワイワイ騒ぐのが好きな子だ。そんな凛恋が、一人の時間が長い入院生活を寂しいとか辛いと感じないだろうか。
きっと寂しいに決まってる。退屈だって思ってるに決まってる。それなのに、面会制限なんてされたらより辛くなる。
俺は医学の知識がない。だから、医学のプロである御園先生に治療を理由に面会を制限されても何も言えない。それは従うしかないことなんだと諦めるしかない。でも、治療を理由に家族以外は看護師と医師としか満足に会えなくなることが、凛恋にとって本当に良いことなのか疑問に思う。
「多野さん」
「……御園先生? 俺が運ばれたのはここだったんですか」
「八戸さんには話してません。余計な心配をさせてしまいますし」
「助かります」
ベッド脇に現れた御園先生は淡々としている。その雰囲気から、俺に対する印象はもう確定しているのが分かった。
「凛恋の面会制限を解いてください」
「それは出来ません。八戸さんには安静にする必要があります。多野さんに毎日来られると――」
「じゃあ、俺以外の面会制限を解いてください。他の人なら毎日は来ません」
「多野さん以外の方ですか?」
「入院生活はきっと凛恋にとって心細いと思います」
「ご家族の方の面会は制限していませんし、担当医と看護師で八戸さんの様子は見ています。それに、軽く談笑を――」
「家族だからとか仕事だからとか関係なく会いに来てくれる人が、凛恋には必要なんです。凛恋は友達と集まるのが好きな子なんです。そんな凛恋が、友達が会いに来られない状況で寂しく思わない訳がありません。気分が落ち込んだら治療にも良くないと思います」
「記憶喪失では性格が変化することはあります。明るかった人が大人しくなったり人との接触を避けたりするようになることもあります。それにお友達とまではいかないかもしれませんが、私達も八戸さんに気軽に話してもらえる相手になれています」
「でも、凛恋にだって病院の先生や看護師じゃない普通の友達だって必要なはずです。凛恋には仲の良い友達が沢山居るんです! その人達がまた凛恋とちゃんと友達になれる機会まで潰さないで下さい。……俺は、一週間に一度で構いません」
「一ヶ月に一度です」
「ッ!? ……それで、他の人は自由に会わせてもらえますか?」
「前向きに――」
「今ここで断言して下さい」
「失礼かとは思いますが、多野さんは私のお願いを破っています。その多野さんの言葉を鵜呑みには出来ません」
「…………明日、大学のある街に帰ります。ここから飛行機で一時間以上掛かる場所です。新幹線だと三時間以上掛かります。そこなら頻繁には戻って来られませんし、大学生の私では交通費も掛かりますから」
「…………分かりました。明日、他の担当医と話をします」
御園先生が、凛恋の担当医達が俺の頼みを聞く保証なんてない。でも、凛恋のことを考えたら、今の面会制限は良くない。もし、俺一人が会えないだけで他のみんなが会いに行くことが出来るなら…………それで、プラスマイナスでゼロどころかプラスに出来るはずだ。
「ありがとうございます」
保証がないことには噛み付けなかった。御園先生の言う通り、一度約束を破っている俺への信頼がなくても当然だ。だから、俺の頼みを聞いてもらうためには、御園先生の条件を飲むしかない。
凛恋と離れるのが不安じゃない訳じゃない。でも、凛恋にはお父さんお母さん優愛ちゃんが居るし、希さん達も居る。今はまだ凛恋の中に希さん達に対する不安があったとしても、希さん達ならきっと凛恋とまた友達になって笑って話せるようになる。
「多野さんもお大事にして下さい。睡眠不足と低血糖で倒れたそうなので、しっかりとした睡眠と食事は大切です。八戸さんのことで精神的に大変かとは思いますが」
「はい。ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした」
御園先生が居なくなってから、俺は棚にあったスマートフォンで新幹線の予約を取る。そして、スマートフォンを棚に戻して息を吐いた。
「凡人くん、明日帰るの?」
「ああ。でもその前に、凛恋のお父さん達に話はするよ」
「…………また凡人くんは自分が苦しい道を選ぶんだ」
「仕方ないだろ。凛恋を一人ぼっちにしないためには必要なことだ。それに、御園先生には完全に嫌われてるからな」
「私は、あの先生の面会制限は異常だと思うよ。いくら医師だからってやり過ぎだと思う」
「たとえそうだとしても、医者の指示を俺が無視したのは変わらない。俺が間違ってたんだ。辛くても御園先生達の指示に従ってれば凛恋を危険な目に遭わせなかったし、自分で自分の首を絞めることもなかった。自業自得だよ」
「私も明日帰る」
「理緒さんは帰る必要はないだろ」
「凡人くんを一人で放っておいたら、また自分をどんどん追い込んじゃう。だから、一緒に戻って見てないと。それに向こうには巽さんも居るし。あの子、全然凡人くんのこと諦めてないから」
「俺は百合亞さんとはどうにもならない」
「それに、まだ飛行機のお金も返してないし。とにかく、私も一緒に戻る。また今日みたいに倒れるかもしれないって思ったら、一人になんてしてられない」
「…………分かった」
理緒さんの目を見て、断っても無駄だと悟った。
「もう点滴が終わりそうだね。ナースコールするから」
ベッドの枕元にあったボタンを押す理緒さんから視線を外して、カーテンが閉め切られた窓の方を見る。
これで良かったんだ、きっと。そう自分に言い聞かせはするが、言い聞かせても間違いだとしか思わない。
今まで、凛恋と離れて良いことがあった試しがない。だから、離れることは悪手だ。でも……余裕がなくて他に何かを考えられなかった。
大学のある街に戻ったら、一ヶ月に一度なんて頻度でも来られない。それも分かっている。でも、凛恋と離れることが俺にとって悪いことでも、今の凛恋にとって悪いことだとは限らない。
「凡人くん」
「ん?」
椅子に座った理緒さんに名前を呼ばれて振り向く。でも、理緒さんは迷った顔をしてから、開き掛けた口を閉じて横へ首を振った。
「ううん。何でもない」
何でもない訳がないことは分かっている。でも、それを理緒さんが言わないと思ったなら聞き出すことは出来ない。
「点滴、終わりましたね」
病室に看護師さんが来て、俺の点滴を外してくれる。その様子をじっと見る理緒さんは、まだ迷った表情をしていた。
今間違ったことが必ずしも未来を間違った方向に動かす訳じゃないし、今正しいことが未来を正しい方向に動かすとも言い切れない。
結局、誰にも未来のことなんて分からない。だから間違えるし迷いもする。
俺だって迷っている。御園先生に言い切った今でも、今からでも前言撤回して凛恋の側に無理矢理居続けるべきなんじゃないかと思う。
でも結局、自分のことしか考えられなかった俺が凛恋の側に居るのは、間違っているんだと思う。
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