【三〇一《迷い躊躇い傷付けた己は尚、迷い躊躇い己を傷付ける》】:一

【迷い躊躇い傷付けた己は尚、迷い躊躇い己を傷付ける】


 空港のゲートから出てくる人達をベンチに座りながらボーッと眺めていると、人混みの中から空条さんがキャリーバッグを引きながら現れた。


「多野くん!」


 俺を見付けた空条さんが小走りで近付いてくるのを見て、ベンチから立ち上がり俺も空条さんに近寄る。


「空条さん、久しぶり」

「うん。大学に行かなくて良くなったら会う機会がなくなっちゃったね。…………少し落ち着いて話せる場所はある?」

「空港の中に喫茶店があるからそこに行こうか」

「うん」


 空条さんを連れて空港内の喫茶店に入り、人が周りに居ない席に座る。

 席に付いてからそれぞれ飲み物を頼んでから、正面に座る空条さんを見る。


「多野くん、ご飯とか睡眠とかちゃんと食べて取れてる?」

「自分ではどっちもちゃんと取れてると思ってる」

「八戸さんが記憶喪失っていうのは……」

「事故で頭を強く打ったのが原因らしい。今は面会制限が掛かってる」

「そうなんだ……。入院は長くなりそうなの?」

「いつ退院出来るかは分からないんだ。戻って来てくれたことも奇跡的なくらいだから、きっと入院生活も長くなると思う」

「そんなに酷い怪我なんて……。多野くん、私に力になれることはない?」

「俺は大丈夫だよ。一番辛いのは凛恋だ」


 俺のことなんて二の次――いや、三の次、四の次でいい。むしろ、俺のことなんてどうだっていい。何よりも大切なのは凛恋のことだ。


「……私からは、多野くんが全然大丈夫に見えない。多野くんも限界なんじゃない? 顔色が凄く悪いし声にも全然元気がない。見てて……全然安心出来ないよ」

「俺のことなんてどうでもいいんだ……」

「自分のことをどうでもいいなんて言わないで……。私は……地震の話を聞いて凄く心配だった。大きな被害が出てて、怪我をした人とか亡くなった人が沢山居て……その中に多野くんが居たらって思うと辛かった。八戸さんだって他の多野くんの友達だってみんな同じだよ。多野くんのことをどうでもいいなんて思ってない」

「ごめん……」

「ううん。今日の夜、一緒に食べない? こっちの美味しい物を食べに連れて行ってくれると嬉しいな」


 空条さんが俺に何か栄養のある物を食べさせようとそう言っているのが分かった。


「ついでに俺の友達に紹介するよ。理緒さんと希さん、萌夏さんは知ってるけど、他の友達には会ったことないだろうし。萌夏さんは帰って来てないけど」

「ありがとう」


 空条さんの返事を聞いてから栄次達にメールを送る。そして、返事を待つ間、俺は空条さんに視線を戻した。


「わざわざこっちに来なくても。飛行機代も掛かっただろうに」

「大丈夫。多野くんは知ってるけど、うちはお金ならあるから」

「空条さんは社長令嬢だろうけど、それでもわざわざお金を使ってまで来なくても」

「ごめん……迷惑だった?」

「迷惑って言うより申し訳ない。俺なんかのため――」

「多野くんはなんかじゃないよ。…………多野くんはこれからどうするの? こっちに残るの?」

「…………面会制限はあるけど、一週間に一度は会わせてもらえるだろうから、こっちに残るつもりだよ。大学ももう行かなくていいし」


 そう言いながらも、自分の中に迷いがあった。俺は居て良いのだろうか。俺が居ることは凛恋にとって悪いことなんじゃないか。また、俺は自分の考えを優先してしまわないか。


「八戸さんのことが気になるのは当然だよ。でも、ちゃんと食べてちゃんと寝ないと多野くんが体を壊しちゃう。そうなって悲しむのは八戸さんだよ」

「自分ではよく食べてよく寝てるつもりだよ」

「だったら……八戸さんのことで思い詰めてるんじゃない? そういうのも八戸さんは――」

「凛恋は嫌がるだろうな……。でも、考えないのは無理だ」

「うん……ごめん。そうだよね……。多野くんは、恋人が大変な目に遭ってるのに笑ってられるような人じゃない……」


 目の前にあるコーヒーを一口飲んだ空条さんは、スマートフォンを取り出して首を傾げる。


「多野くんの実家がある都市の名前を教えて。そこのホテルを取るから」

「刻銘市(ときなし)って街」

「ありがとう」


 スマートフォンでホテルを取る空条さんから目を離して、自分の前に置かれたアイスコーヒーを見る。日頃は何気なく飲める飲み物なのに、今日は全く飲む気が起きないし、コーヒーを見ただけで気分が悪くなった。


「海外に居たって言ってたけど、どこに行ってたの?」

「アメリカに行ってたよ。色んな都市を回ってた。ニューヨーク、シカゴ、ロサンゼルス、サンフランシスコに行ったよ」


 平然とそう言われるが、やっぱり庶民の感覚からすると海外の都市をそれだけ回れるのは凄いと思う。


「今年もお父さんのお見合い話から逃げるため?」

「あ~、それはもう諦めたみたい。その代わり、大学卒業後は会社を手伝うことになってる。なんかアパレルブランドの立ち上げに関わってほしいみたい」

「……凄いな」

「私もファッションには興味があるからやってみようかなって。多野くんはレディーナリー編集部に決まってるし、お互い卒業したら忙しくなりそうだね」

「そうだね……」


 話をしていて心の奥に新しい不安が浮かぶ。

 大学卒業後、レディーナリー編集部に就職したら、俺は地元を離れて働き始める。でも、凛恋の入院生活はそれ以降も続くかもしれない。仮に退院したとしても、必ず通院は必要になるはずだ。もしそうなれば、俺は今以上に凛恋と離れてしまう。


「最近飾磨とは会ってる?」

「いや……」

「あいつ、筑摩さんのこと本気で好きみたい。女の子と遊ぶの止めたって聞いてた。それで筑摩さんにアタックしてるって。まあ、筑摩さんの方は受け流してるみたいだけど。あっ、そうそう。奈央に彼氏が出来たんだよ? しかも年下なの。奈央が年下の人と付き合うイメージ全然なかったからびっくりしちゃった」

「そっか。飾磨の話は何となく聞いてたけど、宝田さんの話は良かったね。空条さんの方は?」

「私? 私の方は全然だよ。今は一人を充実してるって感じかな。……それに、良い人には大体恋人が既に居るものだしね」


 普通に話をしようと頑張って、心が普通になり切れないことが辛くなる。何気ない話をしようとする度に、心の奥がズキズキと痛む。

 凛恋が大変な時に心から笑って話すなんてことは出来ない。それは、不謹慎とかそういう話ではなく、もっと単純な話で、笑って話すことが不可能なんだ。

 酷い怪我を負って生死の境を彷徨い、何とか戻って来てくれたと思ったら記憶を失っていた。そんな状況を丸々全部受け入れて処理し切れる訳がない。


「……ごめん。多野くんに無理矢理笑って話させようってつもりはなかったの」

「俺の方こそ気を遣わせてごめん。今は凛恋のことでいっぱいいっぱいで、他のことに気を割く余裕がないんだ」

「うん。分かるなんて軽々しいことは言えないけど、それは仕方ないし当然だと思う。でも……多野くんが無事だったのは本当に安心した」

「心配掛けてごめん」

「ううん。大切な友達のためならどこでも飛んでいく。ただ、会って顔を見ることしか出来なくても」


 コーヒーを一口飲んだ空条さんは笑わなかった。笑わず真剣に俺の目を見てそう言ってくれた。

 だけど……心の中には自分自身に対する嫌悪感が居座って、まだコーヒーを口に出来る気分にはならなかった。




 空条さんが泊まるホテルに荷物を預けに行ってから、俺は空条さんと一緒にみんなと駅前で合流する。


「栄次。悪いな」

「気にするな」


 合流してすぐ栄次にお礼を言う。栄次が気を遣ってくれて、店を決めて予約するまでをやってくれたからだ。本来なら俺がやるべきことなのに。


「初めまして。多野くんと同じ大学の空条千紗です」


 空条さんが自己紹介をするのを聞いていると、真弥さんが俺の隣に並んだ。何か言う訳ではないが、真弥さんが俺のことを気にしてくれているのは分かる。


「じゃあ、店まで行こうか」


 栄次が先頭に立って歩き出し、俺もみんなの流れに乗って歩き出す。

 夕飯時の街は人で溢れていて、いつもだったら街の喧騒が自分の存在が薄れる心地良いものに聞こえる。でも今は、胸焼けがするほど嫌で耳障りに聞こえた。

 栄次が予約してくれた店に着いて座敷席に座る。


「カズは何食べる?」

「えっと……」


 隣に座った栄次が俺にメニューを見せてくれるが、何かを食べる気も起きなくて決められない。


「適当に頼むから、食べられそうな物があったら摘めよ」

「ありがとう」


 軽く背中を叩いた栄次は、視線をみんなに向けて注文を聞き始める。


「凡人くん、今日は何も気にせずゆっくりしてて良いからね」

「希さん、ありがとう」


 栄次の隣から希さんが声を掛けてくれる。それに視線を落として、俺はみんなにバレないように小さくため息を吐いた。

 食事が始まり、空条さんの話題を中心にみんなが話をするのを聞きながら、俺は小皿にある全く手を付けていない刺身を見下ろす。

 みんなは頑張って明るく話している。こういう状況で暗い雰囲気を出すのが間違ってる。でも、俺はみんなみたいに頑張れなかった。


 きっと御園先生から凛恋のお父さんお母さんに俺の話は伝わってると思う。それでどんな対応になるかは分からない。やんわりと注意されるだけかもしれないし、俺は今後一切面会が出来なくなるかもしれない。

 もし、凛恋に会うなと言われたらどうするのか。いや……どうするも何も会える訳がない。ただ、俺の気持ちとしてはどうするべきなんだろう。


 凛恋に会いたいのは凛恋が心配だからと、凛恋の中にある俺が今以上に薄れるのが怖いから。いや……一番は凛恋に俺以外の好きな相手が出来るのが嫌なんだ。

 記憶を失っている凛恋は、俺を友達としか捉えていない。だから、もし俺よりも魅力的な男性が現れたら――。


 そんなことを考えて、思わず俺は自分を嘲笑ってしまう。俺より魅力的な人が現れたら? そんなの町のスクランブル交差点の真ん中に立って周囲を見渡せば大勢見付かる。この世の中に、俺よりも優れて魅力的な男性なんて溢れかえってる。だからこそ、俺は凛恋の側を離れるのが怖かった。凛恋が俺の手の届かない遠くへ行ってしまうことが。


「カズ、凛恋さんの様子はどうだ?」


 自然に話し掛けてきた栄次の声を聞いてから、俺は全く味わわずに刺身を噛み砕いて飲み込む。


「医者の話ではまだ安心出来ないらしい……。面会制限も出たし」

「何かあったのか?」

「……今日、優愛ちゃんに連れて行ってもらって、凛恋に会ってきたんだ。でも、凛恋の担当医にあまり会うなって言われてて、それを俺が会いたいって気持ちで破った」

「会いたくて当然だろ。カズがどんなに凛恋さんのことを大切に想ってるか――」

「大切に想ってるなら、我慢するべきだったんだ。俺のエゴを押し付けて凛恋に必要のない負担を掛けて……それが原因で凛恋の体調が急変したら……」

「カズが会いに行くのが負担になる訳ないだろ」

「今の凛恋には分からない。今の凛恋にとって、俺はただの友達なんだ……」

「そんなこと関係ないだろ。凛恋さんはカズの思いやりが伝わらないような人じゃない。ちゃんと凛恋さんには、カズが凛恋さんを心配して大切に想ってることは伝わってる。それに、カズと話すことは凛恋さんにとって入院生活の息抜きになってるはずだ」


 励ましてくれる栄次の言葉に、俺は黙って頷き目の前にあったお冷を口にする。食欲はなくても喉は渇く。でも、喉が渇く自分に少し安心した。


「凛恋の心の中に、今俺は居ない。それが不安なんだ……。今の凛恋は誰の恋人でもなくて、今の凛恋は他の誰かを好きになる可能性がある……」

「今からでも凛恋さんに話した方が良いんじゃないか?」


 俺は栄次の提案に頷けなかった。


「俺は……凛恋の体のことよりも自分の気持ちを優先したんだ。凛恋に会いたくて、凛恋の心にまた自分を置いてほしくて……そんな自分のエゴで凛恋の命を危険に晒した。…………そんな俺のことなんて、凛恋は忘れてしまった方が良いのかもしれない……」


 自分でも何を言ってるのか分からない。忘れてほしいなんて思ってないのに、忘れて欲しくなかったと今でも強く思ってしまうのに。弱い俺はそんな逃げ口上のような言葉しか言えなかった。


「そんなことある訳ないだろ。大変な状況だし弱気になってしまうのは仕方ない。でも、カズが凛恋さんの側に居ない方が良いなんて誰も思わない」

「凛恋の担当医は――医学のプロは俺が凛恋にとって害があると思ってる」

「それはカズと凛恋さんの今までを何も知らないからだろ。今まで、二人がどれだけお互いに助け合ってきたかなんて、凛恋さんが入院してから担当した医者には分からない」

「今まで俺と凛恋がどんな時間を過ごして来たかなんて、凛恋の体調の回復には関係ないんだ。治療にとって、凛恋に会いたいと思う俺の気持ちは邪魔でしかないんだ……」


 自分を否定する言葉が止めどなく溢れてくる。そして、自分の心が荒んでいくのが分かった。

 弱気になってるのは確かだ。自分が凛恋に相応しい自信がなくなってる。俺がやっていることは凛恋のためにならなくて、俺がやっていることは凛恋のためになるどころか、凛恋に対して悪いことでしかない。


「ごめん。ちょっと席を外す」

「ああ……」


 食事会の場所に居られなくて、座敷席から通路に出て縁側に座り込む。


「凡人くん、隣良い?」

「理緒さん……」

「まさか空条さんがこっちに来るとは思わなかった」

「電話が来て凛恋の話をしたら心配して来てくれたんだ」

「そっか。でも、心配したのは凛恋じゃなくて凡人くんの方だと思うけど」

「俺は――」


「誰だって凡人くんが落ち込んでるって思うよ。今日だって無理矢理お刺身を一切れ飲み込んだだけでしょ?」

「なんか……食べる気が起きなくて……」

「食べないと体を壊しちゃうから食べよう?」

「…………」


「栄次くんと話してたのを聞いてたけど、毎日会うのは凛恋だけの負担じゃない。私は凡人くんにも強い負担が掛かってるって思ってる。だから、面会制限がある方が凡人くんの負担にもならない」

「凛恋と会うのは負担なんかじゃない」

「負担になってるよ。だから食欲もなくなってるし元気がない。もっと自分の体と心のことを考えて。無理して凛恋に会い続けることで凡人くんはどんどん弱ってる」

「俺は――ッ!?」


 反発したかった。俺の体や心が滅入っているのは凛恋のせいなんかじゃないと。全部、ただただ俺が弱いだけなんだと。そう怒るために勢いよく理緒さんの方を向いただけだった。

 ただ一瞬体を激しく動かしただけ。ただそれだけの衝撃で意識が遠退いて…………。

 目の前が真っ暗になった。

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