【三〇二《気持ちの裁量》】:一

【気持ちの裁量】


 ただ淡々と、無感情に生きられたらどんなに楽なんだろう。

 この世界が、恐怖や不安、罪悪感なんて存在しない、そんなもの抱かなくても生きて行ける世界だったら、俺はもっと気楽に生きて行けたのかもしれない。

 そんなことを考えても仕方ない。考えたところで、俺が今生きている世界は、恐怖や不安、罪悪感が存在して、そういう負の感情を少なからず抱いて生きて行かなければならない世界なんだから。


 地元から戻った翌日、俺はすぐにレディーナリー編集部に出社した。出社してきた俺を見てみんな驚いた顔をしていたが、編集部のみんなは俺に詳しい話を聞かなかった。

 地元に居る時に古跡さんへ電話をして、凛恋の容態や記憶のことは話していた。だから、それをみんな聞いていたんだと思う。


 みんなが何も聞かずに、いつも通りに仕事へ戻してくれた。その気遣いに申し訳ないと思いつつも、俺は何も言わずにみんなの気遣いに甘えた。

 そして俺は、いつも通りの忙しい日常に戻れた気がした。

 分かってる。今がいつも通りの日常じゃないことくらい。そんなの誰に指摘されるでもなく自分が一番分かっている。でも……いつも通りだと思わなければ、今の俺は何も出来ないただの抜け殻になりそうで怖かった。


 椅子の背もたれに背中を預けて、シャットダウンするパソコンの画面を見る。

 本当はもっと根を詰めるくらい仕事をしたい。でも、止められるのは分かり切っている。それにそんなことをすれば体調を崩すのも分かり切っている。だから、倒れないけど余計なことを考えない程度に無理をした。


 このまま帰ったら何も食べずに眠ってしまいそうだ。それくらいの眠気があった。でも、そうする訳にはいかない。

 帰りに夜遅くまでやってる定食屋か何かに行こう。何か食べないとまた倒れる。それでまた周りに迷惑を掛けてしまう。


「凡人くん、お疲れ様」

「木ノ実さん、お疲れ様です」


 丁度シャットダウンし終えた頃、横から木ノ実さんが声を掛けてくれた。


「帰り何か食べに行くの?」

「はい。遅くまでやってる食堂に行こうかと思ってます」

「私も一緒に行って良い?」

「良いですよ」


 机の上を片付けながら答えて、俺は木ノ実さんと一緒に立ち上がる。


「仕事は一段落した?」

「はい。まだ残ってるのがありますけど、締め切りまでは少し余裕があるんで。あまり無理をするとみんなに心配させますし」

「凡人くんはいつも一生懸命だから」

「来年からは編集部の一員として働くんですから、もうみんなに変な心配を掛けないようにしないと」

「何言ってるの。みんな、もうとっくに凡人くんをうちの仲間だって思ってるよ。みんな、凡人くんが居ないと仕事が回らないって悲鳴を上げてるし」


 クスッと笑った木ノ実さんは、横から俺の顔を覗き込む。


「本当に嬉しい。これからも、凡人くんと一緒に仕事出来るなんて」

「こちらこそ、木ノ実さんと仕事出来るのは嬉しいです。木ノ実さんには入った時からお世話になりっぱなしで」

「私がお世話されてる時もあるけどね。懐かしいな~。凡人くんが入って来て、私に初めての後輩が出来て。帆仮さん帆仮さんって私を頼ってくれるのが凄く嬉しくて、先輩としてちゃんとしなきゃって責任感も強くなって。凡人くんがうちに来てくれたお陰で私も成長出来た」

「俺は関係なくないですか?」

「あるよ~。編集部のみんなにも、凡人くんが来てから成長したって言ってくれてた」


 明るく話してくれる木ノ実さんと食堂に入って、俺は豚の生姜焼き定食を、木ノ実さんは白身魚の餡掛け定食を頼んだ。


「……みんな心配してる。本当に戻って来て大丈夫だったの? その……凛恋ちゃんの記憶が――」

「凛恋は大丈夫ですよ。専門医がそれぞれの分野で凛恋の治療をしてくれてますし、凛恋の側には家族も居ます。だから……“凛恋のことを考えて居ない誰かが邪魔しなければ”凛恋は安心です」

「……そうじゃないよ。もちろん凛恋ちゃんのことも心配だけど、みんなが心配してるのは凡人くんの方。戻って来た凡人くんは凄く落ち込んでるのが誰の目からも分かるし、みんなに心配掛けないように食事や睡眠は取ってるみたいだけど、やっぱり凡人くんから感じる雰囲気に元気がない」

「完璧に元気いっぱいなのは無理ですよ。でも、地元でろくに食事も睡眠も取れなかった時よりはマシです」


 豚の生姜焼きを口の中に入れて白飯を食べる。正直言えば、全く食事を取る気にはなれない。でも、気乗りしないでそのまま食事を取らなかった結果倒れた。夜だって眠れないからと諦めて起き続けていた結果倒れた。だから、食事は無理矢理にでも取るし、夜も部屋を真っ暗にして絶対に目を閉じる。それで、少しは体もマシになった。


「俺が地元から戻って来たのは、俺が凛恋の側に居ることが凛恋のためにならなかったからです。俺は、自分が凛恋を心配だから、記憶を失った凛恋から俺の存在が薄れていってしまうのが怖かったから毎日凛恋に会いに行き続けました。でも、それは凛恋の回復の邪魔にしかなってなかったんです」

「そんなことないよ。記憶を失っているとしても、毎日凡人くんが来てくれてたことは八戸さんにとって心の支えになってたはず。私はそんなに長く入院なんてしたことないけど、病院にずっと一人は寂しいし心細いから」


「凛恋の気を紛らわすのは、凛恋の家族も居ますし、希さんを含めて地元の友達も居ます。看護師さんや担当医の先生も顔を出してくれてるみたいですし。それに……今の凛恋にとって俺はただの友達ですから」

「えっ?」

「凛恋に言ってないんです。俺と凛恋が付き合ってたことを」

「どうして?」


「意識が戻った凛恋は、周りの人のことだけじゃなくて自分のことも分からなくなってました。周りも知らない人ばかりで自分自身のことも分からない。そんな状況で、恋人が居たなんて言われても心がパンクすると思いました。だから、みんなに頼んで俺と凛恋の関係は秘密にしてもらってるんです」

「それは絶対にダメだよっ! 絶対に凡人くんが彼氏だって伝えた方が良い!」


「…………凛恋は何もかも忘れてます。だから、凛恋は俺以外の人を好きになる可能性だってある。でもそれは、誰かに強制された道じゃなくて、凛恋が――今の凛恋が自分で選ぶ可能性のある道です。それを、今の凛恋が知らない、記憶を失う前の凛恋で縛っちゃダメな気がするんです」

「凡人くん……まさか……」

「もし、凛恋が俺以外の誰かを選んだら。大人しく身を引きますよ」


 そう言いながら、俺は木ノ実さんに上手く笑えたかもしれないし笑えなかったかもしれない。自分では、今の自分がどんな顔をしてるか分からないから仕方ない。

 俺はずっと、凛恋と付き合い始めた頃から何度も凛恋に相応しくないと言われてきた。それは俺だって分かってる。でも、凛恋は俺を選んでくれたし、俺が凛恋に相応しくないと考えることを本当に悲しんで嫌ってくれていた。だから、俺は凛恋に相応しい男になろうとしたし、俺を選んでくれた凛恋を一生大切にしようと誓った。


 今の凛恋は俺を選んでくれた凛恋とは違う。今の凛恋はまだ誰のことも選んでない。その選択肢に俺が居るのか居ないのかは分からない。でも、選択肢に俺が居ても居なくても選ぶのは今の凛恋なんだ。


「世の中には悪い人も居ますけど、それ以上に良い人も居ます。俺より背の高い人なんてゴロゴロ居ますし、俺より頭が良い人なんてそりゃあ数えるのも馬鹿らしいくらい沢山居ます。それに、俺よりもお金を稼げる人は居ます。でも……これだけは自信があるんです。俺は絶対、世界中に居る誰よりも凛恋のことが好きだって」

「だったらどうして……」

「好きって気持ちの大きさなんて測れないじゃないですか。それに、好きの大きさなんて誰にも見えない。それに……好きって気持ちは結局一方通行なんです」


 好きは誰でも持っている気持ちだ。俺が凛恋を好きな気持ちは、俺の中では世界中の誰よりも大きくて深いと確信している。でも、それは他の男からでもそうなんだ。誰だって凛恋を好きになった人は、自分以外の誰よりも自分が凛恋を好きだと思ってる。そして……好きは大抵一方的な感情で、相手に自分が思っている通りに伝わる保証のある気持ちじゃない。


「今の凛恋が俺の気持ちを受け止めてくれるかもしれません。でも、気の良い友達と思っている凛恋にとっては困る気持ちかもしれません。それは俺には分かりませんし、俺が強制することは出来ない……しちゃダメなんです」

「凡人くんは良いの? その……凛恋ちゃんが他の人と付き合うことは」


「嫌ですよ、めちゃくちゃ。想像するのも吐き気がするくらい嫌で嫌で仕方ないです。俺はそうならないように、凛恋の側に居ようとしました。でもそれは間違ってたんです。俺が凛恋に向けてた気持ちは、凛恋に対する好きな気持ちではありました。でも、突き詰めたら俺が凛恋に好かれたいって一方的な気持ちだけだったんです。そこに凛恋の体調を気遣おうとする気持ちはなかった」


「私はそう思わない。私は凛恋ちゃんよりも凡人くんを見てきた訳じゃない。でも、毎日見てきた凡人くんは人の気持ちを凄く思い遣れる真面目で誠実な人だった。それに、凡人くん以上に人の気持ちに敏感で細かい気遣いが出来る人は居ない。そういう凡人くんだからこそ、編集全員の様子を見て、的確なタイミングで仕事を上げるなんてことが出来るんだよ。だから絶対、凡人くんが凛恋ちゃんのことを考えずに行動したなんて思わない。それがたとえ、お医者さん達から見て治療の妨げになっていたとしても、好きな人が大怪我をして記憶まで失ってる状況だよ? そんな状況で誰の目から見ても最善な行動が取れる訳ない。心配で心配で仕方なくて、居ても立っても居られなくなって当たり前だよ」


「木ノ実さん、ありがとうございます」


 自分自身で否定した俺を、木ノ実さんは真剣に肯定してくれる。俺が自分自身で自分を否定したことを否定してくれて、俺の間違いは当然なんだと認めてくれる。それが、その言葉が、その気遣いが凄く嬉しかった。


「頻繁には無理ですけど、凛恋にはこれからも会いに行くつもりです。やっぱり好きですから……。出来ればまた、俺のことを好きになってほしいんです」

「私は凡人くんのこと応援してる。私はずっと見てきたもん。仕事を頑張ってる凡人くんのことはもちろん、凛恋ちゃんのことを本当に大好きな凡人くんのことも」

「ありがとうございます」


 木ノ実さんにお礼を言いながら、俺はお冷やを喉の奥に流し込む。

 凛恋のことを諦めた訳じゃない。俺はまた凛恋に好きになってもらおうと思っている。

 俺が側に居て凛恋に毎日会うことは凛恋のためにならなかった。だけど、だからと言って俺が凛恋のことを好きな気持ちが誰かに否定される訳ではないし、誰かに否定されて良い気持ちじゃない。


 今は自分を整理する時だ。自分の気持ちをちゃんと綺麗に正して、ちゃんと凛恋に向き合って大丈夫な自分を形成する時だ。そうしないと、俺はまた凛恋のためにならない俺で凛恋を見てしまう。そうなれるように今は、自分に与えられた、任せてもらっている仕事を着実にこなして行くことが大切なんだと思う。そういうことも出来ない人間を、きっと凛恋は好きになってくれないから。




 適度な慌ただしさは、人に脇見をしたり後ろを振り返ったりする余裕を与えない。それがかえって前へ向かうために良い効果を出すこともある。それを俺はひしひしと感じていた。

 地元から帰ってきて、俺は食事をちゃんと取れる気を持てるようになったし、睡眠も寝不足で倒れる心配がないくらい取れている。まあ、編集部の仕事で時々徹夜をすることはあるが、それも俺は適切な慌ただしさだと思えていた。


「家基さん、終わりました」

「ありがとう。助かったわ。多野、最近どう? 古跡さんが上に掛け合って色々ソフトとか入れてくれたでしょ?」

「はい。自分で組んで表計算ソフトでやってた時と全然違って楽ですよ。一番楽なのは、聞きに行かなくてもみんなが進捗状況を報告し合えるのが楽ですね」

「多野の仕事もだけど、編集部全体の進捗状況も把握しやすくなったから、古跡さんも大助かりみたいよ」


 来年度から使う新しいシステムを試験的に導入して、そのお陰で仕事が随分楽になった。パソコンで互いの仕事の進捗状況を共有するのが今までより簡単になったし、一目で見て分かりやすくなった。それに、地味にだがパソコンのスペックが上がって処理が早くなったのも仕事が楽になった要因だった。


「今日は早めに上がれそうじゃない。久しぶりに飲みに行かない?」

「すみません。今日はちょっと大学の友達に呼ばれてて」

「そう、残念ね~」

「すみません」


 家基さんの誘いを断ってから、資材の在庫確認のために資材置き場へ向かう。

 編集部ではコピー用紙やらプリンターのトナーやら、各種消耗品が毎日使われ続けている。そして、それが切れてしまっただけで仕事が止まってしまうことだってある。だから、毎日資材の在庫を確認して、減っていたら発注する必要がある。


「凡人さん、資材の確認は終わってますよ」

「百合亞さん? ありがとう」


 俺が資材置き場に行くと、既に百合亞さんが在庫確認をしていた。


「仕事が早いね。もうちょっと掛かるかと思ってた」

「仕事を教えてくれてるのが凡人さんだからですよ。先生が良いと良い生徒が育つんです」

「じゃあ在庫確認は任せて良い?」

「はい。任せて下さい」

「ありがとう。じゃあ、お願い」


 在庫確認を百合亞さんに任せて自分の席に戻り、パソコンのソフトを使ってみんなの仕事の進捗状況を確かめる。そして、自分の仕事の進捗状況と照らし合わせ仕事の優先順位を調整する。

 机の上には、優愛ちゃんから届いたメールを確認してそのままのスマートフォンがあった。


『お姉ちゃん、凡人さんが何も言わずに帰ったこと気にしてます。言葉にはしてくれないけど、きっと自分のせいだって思ってます』


 そのメールを見て、ほんの少し心の支えになっている意思の柱がぐらつく。

 凛恋が自分を責める必要なんてない。俺は俺のせいで凛恋のためにならないことをした。それで周りに迷惑を掛けて、その結果で俺は地元から戻ってきたんだ。

 返信はした。気にしないように言っていてほしいと。本当は自分から言うべきなんだ。だけど、遠く離れている今それは出来ないし、今凛恋の顔を見たら俺はせっかく立て直せた自分が傾いてしまう気がした。

 パソコンで作業をしようと思っていたら、俺の机に置いた内線が鳴る。

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