【三〇〇《自己中心性》】:二
「……多野くんは優愛ちゃんのこと可愛いと思う?」
「ああ。俺、兄弟姉妹が居ないから妹みたいで可愛いよ。時々ふざけてだけどお兄ちゃんって呼んでくれるんだ」
「多野くん、お兄ちゃんって呼ばれたいの?」
「ん? まあ憧れはあるかな」
「……お兄ちゃん」
「ん?」
「お兄ちゃん!」
「…………どうしてそうなった」
真っ赤な顔で俺を『お兄ちゃん』と呼び始めた凛恋に目を細めると、凛恋は顔の赤みを増して唇を尖らせる。
「だって、多野くんが優愛ちゃんにお兄ちゃんって呼ばれてることを嬉しそうに話すから、お兄ちゃんって呼ばれたいのかと思って」
「八戸さんの目には俺はいったいどんな男に映ってるんだよ」
予想外過ぎる凛恋の言葉に俺が笑っていると、凛恋はクスクスっと笑って明るい笑顔を浮かべた。そんな屈託のない笑顔を浮かべた凛恋の言葉にドキッと心臓が跳ね上がる。
「多野くん? どうかした?」
「いや、何でもない」
凛恋に聞き返され、首を横へ振って笑う。
笑った顔がめちゃくちゃ可愛くて。凛恋が記憶を失う前なら、何も気にせずそう言えた。でも今は、その言葉を気にせず凛恋に言うことは出来ない。
辛い、悲しい、寂しい……そんな感情は当然ある。でも、誰に選ばされた訳でもない自分で選んだ道だ。
本当に凛恋は可愛くて、笑顔はもちろん恥ずかしがる顔も拗ねた顔も可愛い。食べ物を食べている時の姿も可愛くて……本当に本当に可愛くて可愛くて仕方なくて……。こんなに近くに居るのに抱き締められないのが苦しい。
凛恋の負担になりたくないから、そんな理由があっても、実際は単純に怖いんだ。今の凛恋に好かれているかどうか、これから好きになってもらえるかどうかが。
今の俺の心にある感覚は、凛恋と付き合う前の感覚と似てる。でも、今のままの関係をただ壊したくないだけじゃなくて、まだ気持ちを伝えるのは早過ぎるという思いだ。
いつか必ず、俺の心にある気持ちを伝える。でも、今はまだ凛恋にとっても俺にとっても早過ぎる。
「多野くん……」
「ん?」
「私……どうなるのかな……」
急に凛恋が俯いて、自分の膝に掛かった布団を握り締めて呟いた。そのどうなるのかという呟きの意味を俺はしばらく黙って推し量る。
「今は、体を良くすることを考えた方が良い」
俺が出したその答えはどう考えても間違いだ。俺の答えは答えなんかじゃなく、答えを出すのを先延ばしにすることでしかない。でも、凛恋のこれからなんて凛恋自身も俺達も分からない。
凛恋がこれからどんな道を選ぶのかは、俺はどうやっても強制出来ないんだ……。
「体が良くなったら、大学生の私は大学に戻るんだよね?」
「多分、もう卒業するための単位は取り切ってるから、留年ってことにはならないと思う」
「じゃあ、社会人になるのかな……私は自分が誰かも分からないのに……」
「八戸さんは八戸さんだ」
「違うよ……お父さんもお母さんも優愛ちゃんも、記憶をなくす前の私を望んでる。赤城さん達だって同じ。…………多野くんもそうだよね? 記憶を失くす前の、多野くんのことをちゃんと覚えて分かってる私が良いんでしょ?」
「記憶が戻らないより戻った方が良いのは確かだよ。それは周りの人達の問題だけじゃなくて、八戸さん本人の問題でもある。八戸さんだって記憶を失くしたって負い目を感じて周りの人と付き合って行きたくないだろ?」
「でもっ……もし記憶が戻ったら、今の私は消えてなくなっちゃうかもしれない」
ポロポロと涙を流す凛恋は、顔を横に振って拒否した。
「怖いよ……私が私じゃなくなるのが! みんなが私じゃない私になってほしいって思われてるのが怖いっ! みんな……私なんて消えてなくなっちゃえば良いって思ってるんじゃないかってっ! 凄く……凄く怖いよ……」
「消えてなくなる訳ない。それに、誰も消えてなくなって良いなんて思ってない。もし記憶を取り戻したら、八戸さんは思い出すんだ。記憶が失う前の自分のことを。ただそれだけだ。今の八戸さんに過去の自分がプラスされるだけ。何も怖がる必要なんてない」
「私……思い出すのも怖いの……」
布団の上に落ちる凛恋の涙を見て、俺は膝の上に置いた両手の拳を握り締める。
「自分がどんな人だったか分からない。家族とどんな関係だったのかも分からないし、友達だって言ってくれる人達との関係も分からない。もし思い出した過去の自分が酷い人間だったら――」
「八戸さんは明るくて友達の多い人だったよ。まあそれは、お見舞いに来てくれた人達を見れば分かってると思うけど」
話の着地点を見付けずに、ただ自分が話し出すまま口を動かす。
「それに見た目が凄く可愛くて、高校の頃から男子にめちゃくちゃモテてた。それで嫉妬とかで嫌な思いをすることもあっただろうけど、決して人から嫌われるようなことをする人じゃなかった。それに抜群に料理が上手で、お菓子も上手くて、家事も完璧にこなす人だよ。あと、これは欠点に聞こえるかもしれいけど、結構直情的な人だ。嫌な相手にキレた時は言葉に容赦がなかったし、愚痴る時に使う言葉も結構キツい言い方が多かった。でも、熱いって言うか一生懸命って言うか。大体キレるのは友達とか大切な人が傷付けられた時で……友達のために涙を流すような心の優しい人。だから、八戸さんが気にしてるようなことは絶対ないから安心して」
「多野くん……私は、多野くんとはどんな関係だったの?」
「俺と八戸さんは…………」
俺と八戸さんは友達だった。そう言うだけだ。簡単だ、そのたった短い言葉を口にするだけだ。でも胸の奥が詰まって言葉にならなかった。
「八戸さん、回診に来ました」
答えあぐねていると、病室の外から女性の声が聞こえる。
「あっ……今、友達がお見舞いに来てくれてて」
「八戸さん。わがままはダメですよ。回診の時間は決まっているでしょう」
凛恋にそう諭したのは、さっき聞こえた女性の声とは別の、御園先生の声だった。
病室のドアが開き、中へ女性医師と看護師が入って来る。そして、女性医師が俺の方を見た。その目は当然「出て行け」と言っている目だった。
「じゃあ、また来るよ」
「うん。多野くん、またね」
逃げたと言うよりも追い出された形だった。でも、今から診察があるんだから追い出されて当然だ。
病室の外に出ると、ドアのすぐ脇に御園先生が立っていた。その御園先生は俺に視線を向ける。でも、何も言わずに歩いて行った。
何を考えているんだ。そんな非難の言葉が聞こえてくるような態度だった。でも、仕方ない。俺は医者である御園先生の言うことを無視したんだ。
医者がやってはいけないと言ったことをやった。それが何を意味するのか、冷静に……いや、凛恋への想いが落ち着いてからやっと見えた。
俺は凛恋が好きで凛恋に会いたいから、その想いで優愛ちゃんに助けてもらって凛恋に会いに来た。でもそれは、凛恋の命を危険に晒したのと同じなんだ。
俺は凛恋が好きで凛恋の側に居たいと思うあまり、本当に大切なことが見えなくなっていた。自分から持った覚悟を簡単に曲げていた。
凛恋が生きてくれるなら何だってする。そう思ったのに、俺は全部……自分のやりたいことだけやってる。
病院を出て家へ向かって歩き出す。その足は来た時よりも重かった。
「……電話?」
スマートフォンをポケットから取り出して画面を見ると。画面には空条さんの名前が表示されていた。
「もしもし?」
『多野くん!? 良かった! 無事だったんだ!』
「空条さんも無事だったんだね」
『私は海外に居たから地震に遭わなかったの。でも、今帰って来るまで電話が繋がらなくて。本当に……本当に良かった』
電話の向こうで空条さんがホッと安心した声を発する。
『八戸さんも無事なんだよね?』
「…………凛恋は、事故に遭った」
『えっ……事故に? 無事なんだよね!?』
「命は助かった。でも、かなり大怪我をしてて…………事故以前の記憶がないんだ」
『事故に何で遭ったか忘れてるってこと?』
「それもだけど、家族や自分自身のことも忘れてる」
『多野くんのことは?』
「…………忘れてる」
足を止めて病院の中庭にあったベンチに座る。そして、心を落ち着かせるためにため息を吐いた。
『多野くん……大丈夫?』
「大丈――…………いや、ダメかもしれない」
半笑いで言って言葉を軽く見せようとした。でも、言葉は全然軽くなかった。
『多野くん、今どこに居るの?』
「地元に帰ってる。凛恋は地元で事故に遭ったんだ」
『今、席を取ったからそっちに行く』
「空条さん?」
『二時間後くらいになりそうだけど、空港まで迎えに来てくれないかな? そっちは初めて行くから空港までしか分からないの』
「何で急にうちの地元に」
『友達が大変な時にじっとしてられないよ! 今から保安検査だから、またそっちに着いたら電話するから』
空条さんはそれだけ言って電話を切ってしまう。
正直、今は誰かと会ってまともに話せる気はしない。
今までの自分の行動を思い返しても、やっぱり俺にしか非がない。俺のやったことはわがままな子供が駄々をこねるのと同じだ。心の中でどんなに大人に振る舞って先のことを考えようとも、俺の心の根っこは目先のことしか考えない子供だった。
たとえ凛恋が望んでくれていたとしても、俺が毎日会いに行くことが御園先生の言うように負担になっているのは確かだ。多分それは、会いに行くのが俺じゃなくても同じだと思う。
話せば体力を使うし気を遣えば精神を使う。それが凛恋の回復に全く影響がない訳がない。そして、それが積み重なって凛恋の体調に大きな影響を及ぼす危険がある。
御園先生はそれを懸念して、凛恋に面会制限を設けた。でもそれは俺だけにではなく、凛恋の家族以外全ての人に対してだ。だから、俺が特別凛恋から引き離されてる訳じゃない。でも、凛恋から離されるのが寂しくて不安だった。
結局は俺がただ凛恋と離れて、凛恋の気持ちが自分以外の誰かに向くのが嫌だった。結局は自分のことしか考えてなかった。
「俺は全然……凛恋のことを考えてない……。凛恋が頑張って戻って来てくれたのに……俺はそんな凛恋に自分の気持ちを押し付けて……凛恋の命を……」
頭を抱えて後悔しても、俺のやったことが間違っていたのは変わらない。
中庭には熱い日差しが照り付けていて、その日差しは痛みを感じるほど強かった。だけど、今すぐにでも日陰に入りたい気持ちはあるのに体が少しも動かなかった。
お父さんにもお母さんにも申し訳なかった。俺はお父さん達の大切な娘の命を危険に晒したんだ。それに優愛ちゃんに背中を押されても、ちゃんと冷静になって耐えるべきだった。
御園先生は怒っていた。いや……呆れていたとも取れる表情だった。でもどっちにしても、御園先生から俺は信頼を失った。御園先生にどれだけ権限があるかは分からないが。担当患者の凛恋を守るために俺は凛恋から遠ざけられるかもしれない。
いや……凛恋のためを思えばその方が良いのかもしれない。自分のことしか考えられず、凛恋の体のことを最優先に出来ない俺なんて……。
明日から毎日来るのは止めた方が良い。御園先生に言われた通り、一週間に一度くらいの方が凛恋に良いんだ。
やっとベンチから立ち上がれて、深いため息を吐いてから歩き出す。
空条さんが来るのは二時間後くらいとは言っていたが、病院から空港まではそれなりに距離はあるし、迎えに行くなら早めに行った方が良い。
多分、空条さんに会ったら凛恋について詳しい話を聞かれると思う。でも、俺には空条さんに凛恋の状況を詳しく説明出来る自信はなかった。
病院から離れながら、俺は自分の背中に嫌な感覚が纏わり付くのを必死に意識しないように努める。
凛恋のためにならないと思い知って居ながら、俺にはまだ凛恋に対する不安が纏わり付いている。凛恋から目を離したら凛恋を失ってしまうような……いや、凛恋から離れたら凛恋の気持ちがもう二度と戻って来ないような。そんな恐れが常に俺を付きまとって纏わり付く。
それを必死に振り払うために、俺は駅まで向かう足を速めた。
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