【二九九《挫ける覚悟》】:二

「でも仕方ないんだよ。今の凛恋は凛恋ではあるけど、私達が高校の頃から一緒に居た凛恋の心じゃない。全く別人だって思っても良い。その凛恋が新しい恋をした時、凡人くんは応援出来る?」

「……出来る訳ない」

「だよね。凡人くんがそこまで考えてるとは思ってなかった。凛恋のことだけ考えて、自分のことなんて二の次にして……」


 テーブルに置かれたコップから理緒さんが一口中身を飲む。


「そんな状態で凛恋のところに通い続けて辛いでしょ。そんな状態で凛恋の前でちゃんと笑える? 今は笑えてたとしても、そのうち凛恋に会うのが辛くなっちゃうよ」

「凛恋に会うのが辛くなるなんてことはない」

「うん。辛くなるのは、凛恋に会うからじゃなくて、凛恋に会うことで自分自身を凡人くんが責めるからだよ」

「…………」


「少しだけ凛恋と距離を置いてみたら? いくら恋人でも毎日お見舞いに行かなきゃいけない訳じゃない。毎日行くことが自分にとって負担になるなら回数を減らした方が良い。それでも自然に笑って接することが出来る方が、凡人くんにとっても凛恋にとっても良いことでしょ?」

「凛恋は毎日来てほしいって言ってた」

「そりゃあ、今の凛恋にとって凡人くんは話しやすい友達だし、入院生活は退屈だから来てくれた方が良いって思うよ。でも、それでも凡人くんの心が疲弊して潰れたら元も子もない。今の凡人くんを見てたら、そうなる想像しか出来ない」


 理緒さんは横から俺の頭を撫でる。その理緒さんの手は優しくて、俺は俯いて両手の拳を握った。


「少し力を抜いた方が良い。凡人くんは地震が起きてからずっと気を張ってて、今も気を張り続けてる。……もう頑張らないで。これ以上、頑張っちゃダメ」

「理緒さん……」


 視線の先で理緒さんが泣いているのを見て、視線を落として理緒さんの涙から目を逸らす。

 俺は理緒さんを泣かせてしまうくらい心配を掛けていた。


「お願いだから……少し休んで……」


 俺の手を握った理緒さんの手は小刻みに震えていて、その震えに罪悪感を抱く。

 俺が俺自身を責めることが、俺が俺自身のことで苦悩することが、まるで理緒さんに悪影響を及ぼしているように感じてしまう。

 俺なんかにそんな影響力なんてないはずなのに。




 理緒さんを家に送ってから、星一つ見えない真っ暗な空を見上げる。

 凛恋に毎日会いに行くことを御園先生は、凛恋の回復に良くないと考えている。

 御園先生は脳神経外科医で、凛恋が負っている骨折や創傷の専門の整形外科医や形成外科医じゃない。でも、俺なんかよりも医学に関して知識があるのは間違いない。


 いくら栄次が医学部でも、まだ大学を卒業してないし医師免許も持っていない栄次に助言をもらうのはおかしい。

 凛恋と会うことを俺は望んでて、凛恋も俺と会って話すことを楽しいと感じてくれている。でも、俺が凛恋と会うことは医師からはよく思われていない。


 不安になった。本当に俺がやってることが正しいのか。凛恋に毎日会いに行くことも含めて、凛恋に自分が彼氏だと伝えなかったことを。

 考えながら歩いていたら、自然と足が凛恋の入院する病院へ向いていた。


 面会時間はまだ過ぎていない。でも、病院の正面玄関を見て、凛恋に会いに行こうと足は進まなかった。

 分かってる。まだ体調が万全ではない凛恋に頻繁に会いに行くことは凛恋の負担になると。だから、毎日会いには行くが、一日一回だし、時間もそんなに長くならないように心掛けている。


「多野さん?」


 ボーッと病院の正面玄関を見ていると、正面玄関から男性が出て来て俺の顔を見る。その男性が白衣ではなく私服姿だったから、御園先生だと気付くのが大分遅かった。


「御園先生、お疲れ様です」

「八戸さんに会いに?」

「いえ……流石に日に二回もは凛恋への負担になりますし」

「凛恋? 多野さんは八戸さんの友人なんじゃ?」


 俺の凛恋に対する呼び方に御園先生は眉をひそめる。その御園先生に俺は肩をすくめて笑った。


「凛恋が記憶を失う前、俺と凛恋は付き合ってたんです」

「多野さんが八戸さんと? だったら、どうして彼女に自分が恋人だと話してないんですか?」

「今の凛恋にとって、負担になると思ったんです。自分のことも分からないのに、いきなり目の前に現れた男が彼氏だって聞いても戸惑うと思って」

「……多野さん、今から少しお時間ありますか?」

「え? はい」

「お忙しいとは思うのですが、多野さんには少しお話したいことがあったんです。ですが、八戸さんの前では話し辛いことですし、この機会でないと話せないと思って」

「分かりました」


 御園先生が話したい話が凛恋に関する話なのは間違いない。それに、具体的にどんな話になるかも大方予想が付いた。


「立ってするような話でもありませんし、場所を移しましょうか。多野さん、夕飯は?」

「いえ、まだです」

「じゃあ食べながら話しましょう。近くに美味しいお店があるんですよ」


 御園先生は怒っている訳ではない。ただ笑っている訳でもないし、きっと食事を楽しむという気もあまりないんだろう。いや、俺の方が今は何か食べたり飲んだり、何かを楽しんだりする気にはなれなかった。


 病院から歩いて繁華街へ行き、その繁華街に建ち並ぶ居酒屋の一軒に入った。そして、御園先生は当然、個室を選んだ。

 座敷席の個室の奥に通され、俺は敷かれていた座布団に胡座を掻いて座る。御園先生は俺とテーブルを挟んだ反対の入り口側に座った。


「ここの焼き鳥が美味しいんですよ。凄くビールと合って。多野さんもビールで良いですか?」

「はい」


 酒を飲む気は全くなれなかった。それに、奢ってもらう気もない。店の人には悪いが、自分で払うなら別に飲まない飲み物は何でも良かった。

 御園先生が注文した品々が運ばれて来て店員が立ち去ってから少し沈黙が走る。その沈黙を破ったのは、視線の先で真っ直ぐ俺を見る御園先生だった。


「多野さんは八戸さんの状況をどれくらい八戸さんのご両親から聞いていますか?」

「意識が戻ったのが奇跡的な重傷だと。それで、長期間の入院が必要で、記憶の方は戻らない可能性が高いと聞いてます」

「そうですか。患者さんの病状をご家族以外に話すのは良くないのですが、多野さんが八戸さんの恋人だということと"八戸さんの体調を考えて"お話します。多野さんがおっしゃった通り、八戸さんは意識が戻ったのが奇跡的で、記憶が戻ると保証は出来ません。それに"今も"いつ体調が急変してもおかしくない状況です」


 御園先生はビールジョッキの取っ手は握っていても口を付けようとせず、淡々と俺へ話を続ける。


「八戸さんの事故による怪我は、大きく左鎖骨、右上腕、右肋骨、右大腿骨骨幹部骨折、それから頭部外傷です。その他にも全身の打撲等があり、内科外科複数の医師がそれぞれ担当医が付いています。私は八戸さんの脳を含めた神経系の担当医です。その八戸さんの担当医の一人として、私は明日、八戸さんの面会制限を提案しようと思っています」

「面会制限……」

「本来なら面会制限は、インフルエンザや感染性胃腸炎と言った、流行性ウイルス感染症が流行した場合に設けるものです。ですが、八戸さんの体調を考えると、ご家族以外の方が頻繁に面会に来られると安静が保てません。八戸さんは未だ予断を許さない状況で、いつまた危篤状態になってしまうか分かりません。八戸さんのためにも、今は絶対安静を保ち治療に専念してもらうことが大切だと考えています」


 予想していた通り、俺は御園先生に注意された。凛恋の治療の邪魔をするなと。そういう強い言い方はしていないし御園先生も思っていないだろうが、言っている意味としては差はない。


「御園先生は、どれくらいの頻度で会うのが適切だと考えてますか?」

「八戸さんの状態がまだ安心出来ないことを考えると、週に一度ですね」


 週に一度。その言葉を聞いて、背中にずしりと重たいものがのしかかる感覚がした。


「それに長時間になるのも体の負担になります。一度の面会は一〇分、一五分が望ましいかと思います」

「流石にそれは……」


 週に一度と聞いて言葉は我慢出来たが、週に一度な上に最大で一五分しか会えないのは耐えられないと思った。


「面会制限が必要だと考えているのは、体の怪我だけではありません。むしろ、体の怪我よりも八戸さんの心の問題です。八戸さんは記憶を失ってまだ日が浅く、ご自身の状況に戸惑っています。多野さんには明るく見えるかもしれませんが、八戸さんは今、記憶喪失を含めてご自身の状況を少しずつ受け入れている最中です。こんなことは言いたくはありませんが、多野さんが面会に来ることは確実に八戸さんの体と心に負担が掛かっています」

「…………」


 明確に俺の存在が凛恋の負担になっていると言われてショックだった。

 俺は凛恋のために、凛恋が記憶を失っていることを考え込まないように、凛恋の負担にならないように心掛けていたつもりだった。凛恋が好きな物を持って行って、記憶がない凛恋でも話せる話をして、ふざけてからかって凛恋が自然に笑えるようにやって来たつもりだった。でも……それは凛恋にとって負担にしかならなかった。


「恋人の八戸さんが心配なのは重々承知していますし理解も出来ます。ですが、八戸さんの早い回復のためにも理解していただけると、八戸さんの命を預かる身として助かります」


 凛恋の命と俺の気持ち。それは天秤に掛ける必要もない。


「…………分かりました」


 凛恋のためなら、凛恋が生きて元気になってくれるなら、俺は何だってやるって決めたんだ。だから……一週間に一度、一五分しか会えなくても耐えられる。いや……耐えなきゃいけない。

 目の前では話を終えた御園先生がビールを一口飲んでから焼き鳥を食べ始めた。でも、俺は飲む気も食べる気も起きない。


 御園先生がその後に、どんな話をしたか覚えていない。御園先生の話を聞くことなんて出来ず、自分のぐちゃぐちゃになり掛けた心を必死に整理する余裕しかなかった。それに……辛さから来る涙を抑えるのにも必死だった。

 凛恋が喜んでくれるから、凛恋が望んでいるから大丈夫、そういう単純な話ではなかったんだ。


 俺もそうだが凛恋も医者じゃない。だから、自分の体に良いこと悪いことを凛恋自身も分かってはいないんだ。

 医学の知識もなく凛恋自身でもない俺は、凛恋の早い回復のためには医師の御園先生の言うことに従うしかない。それが長い目で見れば凛恋を早く回復させられる最善なんだから。




 御園先生と居酒屋の前で別れて、俺は栞姉ちゃんに遅くなると電話をしてから夜の公園に来た。

 公園のベンチに座って大きく息を吐き、硬い背もたれに背中を預けて空を見上げた。

 やっぱり空には星も月も見えなくて、まるで自分の心を写し出しているように真っ黒だった。


 御園先生の言うことなんて聞きたくなかった。全部無視して、凛恋に毎日時間を気にせず会いに行きたかった。でも、それは凛恋の体のためにならなくて、俺が凛恋に会いに行くことが凛恋の回復を遅らせている。

 凛恋のためなら何でもする。その覚悟が甘くて、こんなにも脆くて簡単に崩れそうで、自分が情けなかった。


 視線を落とした瞬間、俺の耳に夜風に乗って澄んだヴァイオリンの音色が届く。その音色は、すぐに誰が奏でているか分かる音色だった。

 少し離れた場所で、白いワンピース姿のステラがヴァイオリンを奏でていた。そして、演奏を止めて俺に視線を向ける。

 ヴァイオリンを仕舞ったステラは俺の隣に座って顔を覗き込む。そして……涙を流した。


「生きてて良かった」


 久しぶりに会ったステラは、俺の体を強く抱き締める。そのステラの背中に手を置いて、俺はステラに謝った。


「心配掛けてごめん」

「日本で大きな地震があったと聞いて心配だった。凡人に何かあったら、私は生きていけない……」

「ありがとう。でも俺は大丈夫だ」

「……凛恋のことは優愛から聞いた」

「そっか……」

「凡人が傷付いているのは凛恋のこと?」

「凛恋のせいじゃない。全部、俺が悪いんだ」

「凡人は何も悪くない。凡人はいつでも正しい」

「そんな訳ない。俺はいつも間違えてばかりだ……」


 慰めてくれるステラの言葉を素直に受け取れず、否定することしか出来ない。


「傷付いている凡人を見ているのが辛い。私は凡人に笑っていてほしい」

「ごめん……今は上手く笑える気がしない」


 ステラの気遣いに応えて作り笑いも浮かべる余裕もなくて、本当にステラに申し訳なかった。


「私は凡人を笑顔にしたい。でも、私の演奏では凡人を笑顔に出来なかった」

「ステラが悪い訳じゃない。今はどうしても笑えないんだ」

「私はそれでも凡人を笑顔にしたい」

「ごめん。俺は今――」

「凡人が今笑えないなら、私は凡人が笑えるまで凡人の側に居る」


 隣でステラは俺の手を握って、涙で潤んだ瞳で真っ直ぐ俺を見詰めた。


「私は凡人のためだけのヴァイオリニストだから」

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