【二九九《挫ける覚悟》】:一

【挫ける覚悟】


 凛恋が記憶を失って俺達のことを忘れたからって、凛恋以外のみんなとの友人関係が消えてなくなる訳じゃない。でも、地元に居ても俺はみんなと一緒に過ごす気になれなかった。


 きっと記憶を失う前の凛恋なら、入院している自分を差し置いてみんなで遊ぶことを羨ましがるだろう。でも、だからって凛恋が俺達に怒ったり俺達を嫌ったりする訳じゃない。むしろ、凛恋に気を遣って遊ばなくなった方が凛恋に怒られる。それが分かっていても、俺はみんなとワイワイガヤガヤと遊べる気にはなれなかった。


 凛恋のお見舞いを終えて病院から帰る途中、喫茶店に入って一番奥のちょっと暗めの席に座って冷たいコーヒーを飲む。

 凛恋の治療は順調だが、凛恋の怪我が重傷だったこともあってすぐにリハビリ開始とまではいかない。それに、記憶の方は記憶を取り戻す方向ではなく、記憶を失っていることで掛かる精神的な負担をケアする形の治療方針になってる。


 記憶は時間とともに戻ってくる場合もあるし、治療法としても催眠療法で思い出すことを手助けする方法もあるらしい。でも、体の回復もまだの状態だし、何より凛恋本人の心が記憶を思い出す以前に記憶喪失をちゃんと受け入れて前に進むという気持ちにならないといけない。今は、それ以前の状態なんだ。


 凛恋のお父さんお母さんも凛恋の事故に関する裁判の準備を進めている。それにまだ記憶喪失と向き合う状況ではなくとも、凛恋の体調は徐々に良くなっていっている。

 周りは少しずつでも前へ進んでいる。でも、俺はどうなんだろう。


 今日まで俺は必死だった。今日まで必死に、凛恋のためになると信じたことをただひたすらにやり続けた。だけど、それが正しかったのか間違っていたのかは今も分からない。


 凛恋は俺が自分が恋人だったと言わないという選んだ道の結果、俺のことを気兼ねなく話せる友人だと思ってくれていると思う。自分でもバカみたいだったと思うくらいに明るく振る舞って凛恋をからかうように心掛けたのも、そう思ってもらえる一因になったかもしれない。凛恋に気兼ねなく話せると思ってもらえたなら、俺は正しいことをしたんだ。


 ただ、俺を他人のように――ただのちょっとふざけた友人を扱う凛恋と笑い合うのは、思っていた以上に心に来るものがあった。

 味方の居なかった中学時代や、世間から犯罪者の息子だと、実の母親から生まれて来なければ良かったと言われた時よりもキツい。何倍も何一〇倍も……何一〇〇倍もキツい。好きな人に、凛恋に、俺がただの通りすがりの友人だと思われていることが。


 コーヒーが半分くらい残ったグラスを置いて、革張りの硬いソファーの背もたれに背中を預けた。

 凛恋の前では暗い表情は見せられない。それに凛恋じゃなくても、他の誰にも暗い表情なんて見せられない。見せたら余計な心配を掛ける。


 色々あったことの疲れが一気に押し寄せただけだ。だから、今みたいにコーヒーを飲んで一服したり、ゆっくり風呂に浸かったりすれば疲れも取れる。それでまた明日、凛恋と明るく笑って話をする。


「目の前に座って五分経っても気付かないんだ」

「えっ!? 理緒さん? いつの間に?」


 いつの間にか俯いていた俺は、前から聞こえた理緒さんの声に驚く。いつの間にか俺の前に座っていた理緒さんは、アイスカフェラテをストローで飲みながら俺を見た。


「あまり眠れてない顔してる。それに、体もだけど心も疲れてる」

「まあ疲れてないとは言わない。あんなことがあったんだ。簡単に整理なんて出来ない」

「凡人くんの言う通り。誰も完璧に心の整理が出来てる人なんて居ない。でも、それにしても凡人くんは異常。まあ、人一倍気負って頑張ってるからだけどね。いつも通りと言えばいつも通り。だから、凡人くんに会いに来たんだ」

「どうしてここが?」

「凡人くんのコトを病院前で待ち伏せてたら、凄く辛そうな凡人くんがこの喫茶店に入ったから、少しゆっくり座ってコーヒーを飲めればと思ったんだけど、半分も飲めてないね」

「今から飲むよ」


 残ったコーヒーを飲み干すと、理緒さんが首を傾げる。


「今からデートしようか」

「俺は凛恋以外の人とデートはしない」

「じゃあ、凡人くんの疲れを取りに行こう。凡人くんだって、そのままの顔で明日凛恋に会えないでしょ? 誰の目から見ても暗いよ」

「今から家に帰って寝――」

「それが出来てないから誘ってるの。まあ、強制的に連れてっちゃうけど」


 理緒さんもコーヒーを飲み干すと、勝手に俺の分の会計を済ませて、俺の腕を引っ張って喫茶店を出た。

 まだ日の高い外を歩く理緒さんは、バス停でバスに乗って俺を座席に座らせた。


「萌夏、まだ帰って来られなさそうだって。地震後の渡航制限がまだ解けないから来られないらしいの」

「そうか」

「私から凛恋については説明した。……当然、萌夏はショックを受けてた。萌夏は凛恋のこと本当に大好きだからね。それに記憶喪失なんて誰も簡単に受け入れられるものじゃないし」

「理緒さんは受け入れたの?」

「無理に決まってるよ。凡人くんほどじゃないけどお見舞いに行っても、困ったみたいに愛想笑いされるのが辛い。それに、私が凛恋から凡人くんを奪おうとしてるのも忘れてるから、結構罪悪感もあるし」


 通路側の席から窓の外に視線を向けた理緒さんは小さく息を吐いた。


「でも、私は凛恋があんな状態でも一時休戦する気にはならないかな。まあ、今は凡人くんに好かれたいって言うよりも、落ち込んでる凡人くんを放って置けないって気持ちが強いんだけど。……凡人くんが唯一、ただ一人だけ甘えられる凛恋に甘えられなくなった今、凡人くんの心を楽にしてあげられる人が居ない。その状況でも凡人くんは自分をどんどん追い込んで行くから、取り返しがつかなくなる前に止めないと」

「俺って全然信頼ないんだな」

「ないよ。凡人くんが自分を全く労らないことに関しては」


 俺と理緒さんを乗せたバスは、街中を抜けて郊外まで出る。そして、ちらほらと畑が見えて遠くに緑の山が見えて来た頃に停まったバス停で理緒さんが俺を連れてバスから降りた。


「理緒さん、俺をどこに連れて行く気なんだ?」

「ラブホテル」

「帰る」

「冗談だよ。ここにスパがあるの。やっぱり疲れを取るならスパかなって」

「風呂には毎日入ってるけど」

「家のお風呂とは違うの」


 そう言う理緒さんに付いて行ってスパ施設に入ると、勝手に理緒さんが手続きをしてしまって、入場用のリストバンドを付けられる。


「残念だけど、中のほとんどは男女別だから」

「まあ、当然だろう」

「上がったら、そこのロビーで待ち合わせしよう。私のことは気にせずゆっくりして来て」


 理緒さんが女湯の方に歩いて行くのを見送って、俺も男湯に入る。

 中は夏休みということもあってそれなりに人が多い。この状態だと、大きな風呂は落ち着いてゆっくり浸かれる状況じゃない。

 体を洗ってから中を適当に歩き回って、誰も使っていない小さめの湯船を見付けて浸かる。


 お湯は温めで、胸まで浸かって天井を見上げながら小さく息を吐いた。

 風呂に浸かることが特別好きな訳じゃないが、浸かっていると体がじんわり温まり体から疲れがしみ出るような感覚がした。


「俺は今、凛恋にとってただの友達なんだよな……」


 自分で漏らした言葉に自分で悲しさが胸の奥から押し寄せて来た。

 当たり前だ。凛恋の記憶がなくなったのだから、凛恋は俺と付き合ってないし、今の凛恋には俺に対する好きという気持ちはない。でも、それは言葉にするほど簡単に片付けられることじゃなかった。

 俺の気持ちは何一つ変わっていないのに、凛恋の気持ちは跡形もなく消えてしまった。俺は今すぐにでも凛恋を抱き締めてキスをしたいのに、凛恋には俺にそれを許す、俺からそれを受け入れる気持ちがない。


 この気持ちは、凛恋の怪我が良くなって心も落ち着くまで仕舞うと決めた。そう決めたのだから、俺はその通り凛恋に関する全ての問題が片付くまで気持ちを抑え続けなきゃいけない。

 ただ、俺の中には気持ちを抑え続けなきゃいけないという気持ち以外に不安があった。

 それは……また凛恋に俺を好きになってもらえるかどうかだ。


 俺は凛恋が俺のことを好きになってくれて、凛恋の告白を切っ掛けに付き合うことが出来た。でも、またあんな奇跡みたいなことが起こる訳がない。

 俺と凛恋が両想いになれたのは、沢山の奇跡が重なったお陰だった。

 高校で栄次と再会して、呼ばれるはずがない合コンにたまたま人数合わせで呼ばれた。そこで凛恋は他の男ではなくたまたま俺を見ててくれた。それで、たまたま俺の良いところを凛恋が見付けて好きになってくれたから、俺は凛恋と両想いになれた。そのたまたまが二度も起きるとは思えない。


 凛恋が記憶を失って、また凛恋に俺を好きになってもらおうと思った時から薄々思っていた。

 一度好きになってもらえたからって、二度も好きになってもらえる訳じゃないと。もしかしたら、凛恋は俺以外の誰かを好きになる可能性だってあると。考えてはいたけど、それを真剣に考えようとはして来なかった。そんな可能性……あってほしくなかった。


 もし凛恋が俺以外の誰かを好きになったら俺はどうするんだろう。

 凛恋が生死の境を彷徨っている時、俺は凛恋が生きて戻って来てくれればそれで良いと思った。凛恋が生きてくれれば他には何も要らないと心から願った。でもそれで、凛恋の気持ちが俺ではなく別の誰かに向いてしまうことを想像したら全身が寒気に襲われて、生きてくれればそれで良いと、生きてくれれば他には何も要らないと思った気持ちが折り曲がる。


 凛恋の気持ちが他の誰かに向いてほしくない。それをどうやったら止められて、どうやったらそんな未来を捻じ曲げられるのか考えてしまう。

 湯船から出て、俺はすぐに脱衣所に戻った。

 落ち着いて何かを考えてはダメだ。全部悪い方向へ考えてしまうし、何より凛恋のことより自分のことを優先してしまう。


 今の凛恋に俺が好きだと告白しても困らせるだけだ。そこまで踏み切れるほど今の凛恋と俺は親密じゃない。それにそもそも、今の凛恋には恋人どうこうなんて話は心に負担が大き過ぎる。

 今はまだ、凛恋の回復が最優先なんだ。だから……。


「やっぱりすぐ出て来た」


 脱衣所から出てロビーに戻ると、全く風呂に入った形跡のない理緒さんが居た。そして、俺に凄く悲しそうな目を向ける。


「ここだと人も多いし移動しよっか。この施設、スパなんだけどカラオケもあるの。カラオケの個室なら他の人も居ないし」

「分かった」


 何もかも見透かされている。いや……ただ俺が分かりやすい人間なのかもしれない。どっちにしても、今の理緒さんから逃げることなんて出来ない。

 理緒さんに言われるままカラオケルームに行ってソファーの上に腰掛ける。すると、理緒さんがすぐに口を開いた。


「思い詰めちゃってゆっくりお風呂にも浸かれないんだよね?」

「……理緒さんが心配するようなことじゃない」

「うん。私にそんな権利はない。でも、私が勝手に心配してるだけ。……本当に、凡人くんはいつも辛い道を選ぶよね。凛恋に自分が凛恋の彼氏だって言っちゃえば、凛恋のお父さんもお母さんも優愛ちゃんも証人になるし、希や栄次くんだって居る。たとえ凛恋が信じられなくても、事実として凡人くんが彼氏だって認識する。そこからまた仲良くなれる方法だってあった。それでもそうしなかった。凛恋が戸惑うだろうからって、凛恋の負担にはなりたくないからって」


 理緒さんはそう言って乾いた笑みを浮かべた。


「本当に凡人くんは真面目で正直で、恋愛が下手だね。私が凡人くんの立場だったら、間違いなく自分が恋人だって伝えた。私はそれをズルいことだとは思わない」

「俺もズルいとは思わない。でも、今の凛恋に彼氏まで居るなんて負担だろ……」

「でも、私はそれで凡人くんが苦しんでるのを見るのが辛い。自分が選んだ道で悩んで苦しむのは凡人くんのいつものこと。でも、今は心の支えが何もない」

「俺は凛恋が元気になってくれれば――」

「私は、元気になった凛恋が凡人くん以外の人を好きになってくれても別に良いって思ってる。そうなったら、今よりももっと凡人くんは私を女として見てくれる」


 俺が懸念していたことを理緒さんの口から改めて聞いて、自分で思うよりももっと心に重くのしかかる。自分の悪い想像なんかじゃなく、誰にだって思い至る大きな可能性の一つなんだと。


「凡人くんも、もしかしたら凛恋が凡人くん以外の誰かを好きになるかもしれないって思ってるんでしょ?」

「…………」

「凛恋は可愛いし愛嬌がある。私みたいに狙って男受け良くする訳じゃなくて、素で男受けが良いから、きっと凛恋のことを可愛いって思って好きになる人なんてこの先いくらでも現れる。その中の誰かを、記憶をなくした凛恋が本気で好きになってもおかしくない。今の凡人くんは凛恋にとってただの友達。多分、自分の過去を色々聞いて来ないから気が楽だとは思われてる。でも、そういう友達認定されたら、なかなか恋愛対象に見られないよ。凡人くんだって思い当たるでしょ? 友達の私をずっと恋愛対象とは見てくれなかった。凡人くんが少しでも恋愛対象として見てくれるようになったのは最近になってから。それくらい長い時間が掛かる。その間に、きっと凛恋は他の人を好きになる」


 断言されて、それでもそれを否定する言葉が見付からなくて、ただ黙っていることしか出来なかった。

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